ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

旅のはじめに…観光バスでまわるフランスの旅1

2022年04月24日 | 西欧旅行…フランス紀行

   (モナコの街の風景)

<「観光バスでまわる」とした意味>

 10年以上も昔のことになるが、2010年10月、旅行社企画のフランス旅行のツアーに参加した。

 今回はその旅の記録である。「観光バスでまわるフランスの旅」という題にした。

 「観光バスでまわる」としたのは、少々の否定的な気持ちも込められている。

  「もっとじっくり見たい」とか「この町で1泊して、歴史や文化や町の雰囲気を味わいたい」と思う場所も、「こんな所はパスしようよ」と思う見学先もあるが、そういう個人的な思いとは関係なく、旅行社のツアーは、客を観光バスに乗せて、定番とされる観光スポットを目まぐるしく連れまわす。

 だが、そういうことはツアーに申し込むときからわかっていた。それでも  、もの足りないことはわかっていても、フランスという国をざざっと、駆け足で見て回るのには、こういうツアーは便利なのだ。

 一度、自分の目で見ておくと、ガイドブックを読んでも、さらにその地の歴史や文化を知ろうと本を読んでも、よくわかるのだ。

 一度も実際を見ずに、ガイドブックや歴史の本を読んでも、活字を追うばかりでなかなか頭には入ってこない。

 以前、このブログに「早春のイタリア紀行」を書いたが、この旅も、はじめ旅行社のイタリアツアーに参加して、そのあといろいろと勉強して、何を見たいかが明確になって、自分で計画を立てた旅だった。

      ★

<パリでカメラを盗られたこと>

 なお、前回の終わりにも書いたが、私がフィルムカメラからデジタルカメラに変えたのは、世間から相当に遅れて、2009年のことだった。

 実は、旅行中、パリでカメラを盗られた。

 個人旅行でプラハとパリへ行った最後の夜、シャンゼリゼを歩き、その後、エッフェル塔を見に行こうと、凱旋門で地下道に降りた。そして、世界からやってきた観光客で混雑する地下鉄の改札口で、4人組の若者たちにバッグからカメラを抜き盗られた。カメラは一眼レフで、ズームレンズも装着していたし、さらにその日に撮影したフィルムも入っていた。

 強奪されたわけではない。パリにはもう何度も来ていたから、シャンゼリゼや凱旋門のあたりは世界一、スリの跋扈する所だと十分に知っていた。だが、巧妙なチームプレイに鮮やかにやられてしまった。その手口を詳述すれば、これからヨーロッパ旅行に出かけようと思っている人の参考になると思うが、長くなるのでここでは書かない。だが、彼らが狙っていたのはカメラではない。さらに財布を盗ろうとしたので、私も気づいた。気づかれたと知ると、彼らは脱兎のごとく地下道を走って逃げた。そのとき、若い4人組だとわかった。

(フィルム写真から/シャンゼリゼと凱旋門)

 ホテルのフロントでも、警察に行くタクシーでも、警察署でも、「犯人を見たか??」と聞かれた。「見た」と答えると、誰もが「アラブか??」と言った。アラブだろう、と確信を持っている。多分、パリの人たちは、そういう話をたくさん、見聞きしているのだろう。

 EUが難民を受け入れることを大変美しいことのように思っている日本人は多い。だが、日本人が思うほど、移民・難民が大切にされているわけではない。

 私が目撃した若者たちは、パリに多い黒人の若者たちではなく、また、中東系の若者たちでもなく、10代の終わりぐらいの白人の若者たちだった。多分、もとからのフランス人やパリっ子ではないだろう。人は白昼、自分が生まれ育った地元で、スリやかっぱらいを働いたりはしないものだ。

 EUは拡大し、しかも地続きだから、人々はいくらでも豊かな方へ流入してくる。EU内ならパスポートも要らない。しかし、流入してきても、フランスやドイツの社会の基盤(中流以上)は、日本以上に固定化している。フランスやドイツで3Kの仕事をしている人の多くは、EU内の貧しい国からやってきた労働者、そして、「アラブ」や、旧植民地からやってきた黒人などの移民、難民たちである。技術もなく、言葉も話せず、ツテもなければ、生きていくのは難しい。

 あるとき、パリの旧市街から郊外へ向かう地下鉄に乗った。日本の小学校で言えば、4、5年生ぐらいと思われる白人の細身の男の子が、器を持って車内を回ってきた。乗客の3人に1人ぐらいがコインを入れていた。駅に着いてドアが開くと、男の子は車両からホームへ出た。窓から見ていると、ホームの反対側に行き、器の中から小銭(セント)を選り分けて、ポンポンと線路に投げ捨てた。1ユーロコインや2ユーロコインだけを残したのだろう。そして、発車間際に隣の車両に乗った。今度は隣の車両を回るのだ。その子の無表情な顔つきや機敏な動作を見ていて、多分、同年齢の日本人のどんなガキ大将でも、この子と喧嘩したらやられるだろうな、と思った。

 日本には、地下鉄の車両で器を回す小学生はいない。

 ヨーロッパや日本の知的エリートが書いた本を読んで、ヨーロッパを理想化して思い描いている人がいる。だが、そういう本とは別の現実もあるのがヨーロッパだ。

 ただし、優しい人、親切な人、見ず知らずの老人を手助けする人、一日が明るくなるような優雅な挨拶をしてくれる人、そういう人にも出会えるのがヨーロッパである。

 さて、カメラを盗られたあとの経緯。

 翌朝は、帰国の飛行機に乗らねばならなかった。それでも、とにかくホテルから保険会社のパリ支店に電話した。すると、「〇〇警察に行け」という指示。もう夜も遅かったし、そもそも持っているガイドブックのマップには警察署の位置まで書かれていない。それで、ホテルでタクシーを呼んでもらった。その警察署がどこだったのか、今でもわからない。

 警察署では、若い警察官たちは、私が東洋人であることを見て、みな尻込みした。それを見て、彼らの上司である中年の穏やかな警察官が、「私がやろう」と言って聴取してくれた。彼は英語ができた。こちらは少しばかりの英語と身振り手振りで説明して、何とか調書を書いてもらった。終わったら、午前0時を回っていたので、警察官にタクシーを呼んでもらってホテルに帰った。心身ともに疲れ果てていたが、それから帰国の荷づくりをし、シャワーを浴びて、寝た。

 しかし、パリの警察署が作ってくれた調書のお陰で、盗られたカメラと同レベルの、しかも、新品のデジタルの一眼レフとズームレンズを買うお金が、保険会社から送金されてきた。

 というような経緯で、私もデジタルカメラになった。この事件がなければ、未だにフィルムカメラにこだわっていたかもしれない。

 2012年にブログを始めたが、デジタル写真のお陰でブログに写真も簡単に入れることができた。

 ブログ開始以前のヨーロッパ旅行の写真も、2009年以降のものはパソコンに残っているから、2009年10月の「ドイツ・ロマンチック街道の旅」と、2010年3月の「早春のイタリア列車の旅」は既に当ブログに書いた。

 そのあとに続くのが、今回の2010年10月の「フランス紀行」である。

  ★   ★   ★

<これまでのフランスの旅>

 フランス旅行は、今回のツアー参加が初めてではない。

 最初は1995年。視察研修旅行でドイツとフランスへ行った。

 フランスの視察先はルマンという中都市だった。日曜日の1日、研修仲間でバスをチャーターし、ロワール河畔のお城巡りをした。 

 もちろん、研修の最終日にはパリ観光もした。

 だが、ロワールのお城よりも、花の都パリよりも、私はフランスの大地(或いは風土)に感動した。

 当時の私の記録から ── 「なだらかな丘陵はあるものの、緑の牧草地や黒っぽい耕作地は地平線まで続き、その中を道路はどこまでも延びている。車窓から遠くに見える農家の家々は、古い石づくりだ。日本では夕日は山の向こうに沈み、フランスではどこまでも続く畑の向こうに沈む。夕日を背にして、教会の尖塔とそれを取り巻くような村のシルエットが地平に望まれる」。

       ★

 初めてのパリは、大阪や東京とたいして変わらぬ大都会だと思った。

 その後、パリには、フランス語は言うまでもなく、英語もできないのに、個人旅行で4回も行った。そして、訪ねるたびに、次第にパリの美しさがわかるようになっていった。

 特にセーヌ河畔は、端正で美しい。

 パリとシャルトル、パリとヴェネツィア、パリとウィーン、パリとプラハというふうに、パリを起点にして、ヨーロッパ個人旅行の経験を広げたいった。

 そして、フランスの全体を、ざっとでよいから、一度見て回りたいと思うようになり、今回の旅行社のツアーに参加したのである。

       ★

 それにしても、コロナになってこの2年。ヨーロッパはすっかり遠くなってしまった。

 さらにその上、プーチンが戦争を始めた。

 オランダ航空やドイツ航空やフランス航空で、シベリアの上を延々と飛んでヨーロッパに到る、そういうことは、もうかなわなくなってしまった。

 ウクライナは自分たちの「根っこ」の地を守ろうとしているだけだ。根を張る土壌さえあれば、そこから新しい命が芽吹く。

 だから、この戦いは簡単には終わらない。

   ★   ★   ★

<旅の行程> 

 「自由」とは、道に迷ったり、時にスリの被害に遭ったりしても、心のままに、自由に、どこへでも、行けること。

 また、いつか、そういう世界になってほしい。

 さて、この旅の行程は、以下のようであった。     

第1日>  (10月5日)

 関空→フランクフルト

 →ニース(泊)

第2日> (10月6日)

 カンヌ─ニース─モナコ

    ニース(泊)

第3日> (10月7日)

 ニース→アルル→ゴルド

 →アヴィニョン(泊)

(アヴィニョンの橋)

第4日> (10月8日)

 アヴィニョン→ボンデュガール

 →カルカッソンヌ(泊)

  (カルカッソンヌの城)

第5日> (10月9日)

 カルカッソンヌ→ロカマドール

 →トゥール(泊)

第6日> (10月10日)

 トゥール→ロワールの古城

 →モン・サン・ミッシェシェル

 モン・サン・ミッシェシェル(泊)

(車窓からモン・サン・ミッシェル)

第7日> (10月11日)

 モン・サン・ミッシェシェル

 →パリ(泊)

第8日> (10月12日)

 パリ→ベルサイユ→パリ(泊)

 (夕暮れのパリ)

第9日> (10月13日)

 パリ→フランクフルト→関空

 

 

 

 


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