(波除けに守られる菅浦の集落)
周囲の山々が風を遮るから菅浦の入り江は穏やかである。だが、一旦悪天候になると、強風とともに高波が押し寄せるそうだ。そのため、湖に沿う集落を守るために防波堤がつくられている。
人間にとって自然はやはり脅威なのだ。
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<国宝の菅浦文書(モンジョ)のこと>
ここまで、「かくれ里・菅浦」の人々が伝えてきた伝承や祭祀のことを書いてきた。
だが、菅浦は白洲正子の『かくれ里』には書かれていない一面をもつ。そして、そちらの方が菅浦の表の歴史かもしれないと思う。
菅浦は日本の中・近世史の研究において学術的に貴重な文書(モンジョ)と絵図を伝え提供した。
その文書と絵図は、須賀神社の「開けずの箱」(他郷の者には見せない箱)の唐櫃に納められていた。
大正時代に京都帝国大学の教授らによって世に出され、大正、昭和と研究されて、今は滋賀大学の資料室に保管されている。
〇「菅浦文書(モンジョ)」65冊
〇「菅浦与大浦下庄堺絵図」(菅浦と大浦下庄との境を示す絵図)1幅
である。
昭和51年に国の重要文化財に指定され、平成30年には国宝となった。
国宝指定の際の文化庁の報道機関への発表資料には、以下のように記されている。
「菅浦は、琵琶湖の北岸から突き出た岬にある村落で、①中世から自らの掟(オキテ)を持つなど、村落の自治が発達していた。堺絵図は、②隣庄の大浦と境界を争ったことにより作成したもの。中世村落史研究上、我が国で群を抜いて著名な資料群である」(数字とアンダーラインは筆者)。
① 日本の中世の村落では、自立的・自治的村落共同体の「惣村」が発達した。菅浦文書は、「惣村」が実際にどのようなものであったかを具体的に教えてくれる貴重な文献資料である。
② その文書の相当部分は、隣村の大浦との150年以上に及ぶ土地争いの訴訟のために作成された。絵図も、その境を絵画的に描いた一種の「地図」である。
隣の大浦との間に棚田があった。山と湖しかない民にとって、米は貴重であった。この棚田の領有をめぐって隣村と延々と争い続け、その過程で自治的村落共同体として成長していった。訴訟で争ったから、その内容は文書化され、かつ、大切に保存されてきた。
前回も書いたが、菅浦は今も地域を東と西の2組に分けている。
中世においては、この東と西の各組から10人ずつの「乙名(オトナ)」が選ばれ、その下に「中老」、「若衆」からなる組織があった。
掟もあった。例えば、人を罰するには私的な関係を優先することなく、証拠を重視し、乙名による合議制の裁判によることと定められているそうだ。
中世において、北近江の京極氏の支配は菅浦にも及んでいたが、守護大名の統治能力はまだ小さく(官僚組織や軍事組織がまだ未発達だった)、支配は緩やかなだった。逆に言えば、守護大名はあまり当てにならず、様々なことに自分たちで対処しなくてはならなかったのだ。
戦国大名の浅井氏が台頭すると村の自治権は奪われていき、やがて豊臣秀吉の検地・刀狩(兵農分離)、さらにこれを受け継いだ江戸幕府の統治で、近世的な村落に移行していった。
しかし、日本の村落には、近世以後も、農漁業の営みや祭祀に関して、寄合いで話し合い、協力・協同するという村の自治は残されてきた。
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<菅浦の湖岸集落を歩く>
須賀神社参拝のあと、山ふところにある神社から湖の方へと、参道とは別ののどかな小道を下って行った。
(須賀神社からの小道)
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菅浦には現在、4寺院があるらしい。
集落のちょっと小高い場所に「淳仁天皇菩提寺長福寺跡」の説明板が立っていた。
「淳仁天皇は、舎人親王の皇子で、天平宝字2年(758)に即位。天平宝字8年(764)9月、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱により流されて亡くなる。淳仁天皇の配流先は淡路島とされるが、淡海の菅浦に流されたという伝説があり、須賀神社の祭神として祀られ、長福寺を菩提寺とする 長浜市」。
長福寺は今、阿弥陀寺という寺に併合されているようだ。
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湖岸に沿って、つづらお崎の先端の方へと歩いて行った。
(石積み・石垣で囲われた菅浦の家々)
入り江に沿う家々は、強風・高波から家々を守るために石積みや石垣で囲っている。
(大銀杏の遠望)
大銀杏が見える。その横に、石の大鳥居がのぞいている。鳥居と比べると、大銀杏はいかにも大きい。
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入り江になっているから、菅浦の里から竹生島は見えない。
しかし、つづらお崎の先端から、竹生島は近い。
(海津大崎あたりから見たつづらお崎と竹生島)
平安時代の末ごろには、菅浦は、比叡山の傘下にあった竹生島弁財天の荘園的存在だったこともあるようだ。
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さらに歩いて行くと、東の四足門があった。西の四足門より古く、江戸時代に再建されたものらしい。
(東の四足門)
扉がなく、他郷との出入りを禁じる機能を果たせたのか疑問だが、村の内外の領域を象徴的に示したかったのかもしれない。「ベルリンの壁」よりずっと人間的だ。
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岬の突端はまだ先だが、よく歩いた。もうこのあたりで引き返そう。山のあなたへどこまでも行って見ようという年齢ではない。
(菅浦の遠景)
ここからも須賀神社の大銀杏が見える。
こうして見ると、山々が湖岸まで迫っているのがよくわかる。日本は山国である。
菅浦は「菅浦の湖岸集落景観」として、「国の重要文化的景観」の一つに指定されている。
その選定理由には、
〇 菅浦の景観は、奥琵琶湖の急峻な地形に生業と生活によって形成されてきた独特のものである。
〇 それは、中世の『惣』に遡る強固な共同体によって維持されてきた文化的景観であり、『菅浦文書』等により集落共同体の姿を歴史的に示す稀有な事例である。
などと記されている。(牛のよだれのように続く漢語の多い官僚的文書を簡潔に言い換えるのはなかなか難しい)。
また、その後、菅浦は、「琵琶湖とその水辺景観 ─ 祈りと暮らしの水遺産」の構成要素の一つとして、「日本遺産」に認定されている。
人間の営みのある風景や景観を、伝承や文化財を含めて守る …… 戦後の大量生産・大量消費の時代から、日本もやっと、成熟した、質の高い国への第一歩を歩みを始めたようだ。
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<再び菅浦の伝承について>
帰路は奥琵琶湖パークウェイへ入り、途中、つづらお展望台から琵琶湖を望んだ。長浜の町、その向こうに伊吹山が少し霞んで高くそびえている。
若い頃なら、ただ、きれいな景色だと思うだけだったろう。
今は少し違う。長浜は壮年の日の秀吉が音頭を取って、交通の要衝に新しくつくった城下町だ。それまで近江には山城しかなかった。だから、今も長浜の人々は秀吉好きなのだ、などという歴史も思いながら眺める。
(つづらお展望台から)
伊吹山は、昔々、遥かに遠い昔だが、東征を終え、草薙ぎの剣を尾張のミヤズヒメのもとに残して大和へ向かったヤマトタケルが、この山中で伊吹の神と素手でたたかった。氷雨に遭い、一旦は気を失い、体力を喪失したヤマトタケルは、故郷を目指して必死に前に進もうとするが、やがて力尽き、望郷の歌を詠んで、命を落とす。そして、白鳥になって大和へ向かって飛んでいったという。
「やまとは国のまほらば たたなづく青垣こもれる やまとし麗はし」。
伊吹山を遥かに望むとき、この伝承を抜きに見ることはできない。
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藤原仲麻呂の乱の最後の決戦は、高島だった。その戦いでかろうじて生き残った仲麻呂の一族の数人が、湖岸伝いに菅浦の里まで逃れてきて、村に隠れ住んだのかもしれない。もともと尊王の心のあった菅浦の村人たちは彼らを受け入れ隠し続けた。
そのように考えるなら、実際は遠い淡路で悲劇的な最後を遂げた淳仁天皇を、菅浦の人々がこの地で祀り続けてきたことも理解できるような気がする。
(了)
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<次回以後の内容について>
コロナになって、ヨーロッパ旅行に行けなくなった。海外旅行どころか、国内旅行もままならず、感染状況を見ながら、県内や近県を巡るようになった。
そうしているうちに、改めて大和国、近江国をはじめ、河内国・和泉国、紀伊国などのことを知り、どんどん興味がわいた。転んでもただでは起きなかったことは、自分を褒めてあげたい。
そういうことで、例えば「かくれ里・吉野の川上」など、まだまだ書きたいことがある。
だが、コロナの前から、やり残し、気になっていたこともある。
フィルムカメラの時代のことは置いておくとしても、デジタルカメラになってから(世間が、ではなく、私がデジタルカメラになってから)のヨーロッパ旅行の記録を2回分、まだブログに書いていない。
このブログを書き始めたのが2012年だから、それ以前の旅である。
2009年10月の「ドイツ・ロマンチック街道の旅」と、2010年3月の「早春のイタリア列車の旅」は書いた。
そのあとに続く2つの旅である。2010年10月の「フランス周遊の旅」と、2011年5月の「ドナウ川の旅」。
もう10年以上も前の旅の記録になるが、このブログの表題「ドナウ川の白い雲」に到るこの2つについては書き残しておきたい。
まず、2010年10月の「フランス周遊の旅」。これは旅行業者のツアーに参加した旅だが、次回からこの旅のことを書きたいと思う。
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