ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

須賀敦子のポン・デュ・ガール (プロヴァンス2)… 観光バスでフランスをまわる4

2022年05月14日 | 西欧旅行…フランス紀行

  (アヴィニョンの教皇宮殿)

      ★

<教皇庁が置かれたアヴィニョン>

 「フランスの美しい村」のゴルドから約40キロ。

 アルル同様、アヴィニョンもローヌ川の水運で発展した町だ。ただ、ローマ時代の遺跡はあまり残っていない。

 ここは、昔、世界史で勉強した「アヴィニョンの幽囚」で有名な中世の町である。

 「幽囚」とはいえ、教皇さまは、中世において「神の代理人」。

 ヨーロッパ世界に広がるカソリック教界の全組織を統治し、上は王侯貴族から下は商工業者やその使用人まで、この世の全ての神の子羊たちから徴収した巨万の財を運用する。当然、日々、典礼祭祀を執り行い、また、時に世俗の王侯貴族と激しい権力闘争も戦う。

 そのためには、上から下、さらにその下まで、それぞれの分野に精通し経験を積んだ膨大な数の人材を必要とした。

 教皇がローマからアヴィニョンへ引っ越せば、当然、上は枢機卿以下の官僚組織、下は日々のお召し物を用意したり、料理を作ったりするシモジモまで、オール「教皇庁」で引っ越さねばならない。その数は7千人とも言われ、ローヌ川の水運で開けた町を再開発しても、道路の幅は狭くて入りくみ、上下水道も不十分で、邸や家屋は言うまでもなく、何もかもが収まりきらなかった。それでも、再開発によって古代ローマの跡はなくなり、中世の町になっていった。

 とはいえ、 …… 遥々と日本からやって来て、ローヌ川を隔てて望む教皇宮殿の姿は、「幽囚」などという言葉にそぐわない雄姿に見えた。

 日本で幽囚などと聞くと、城下の端の林の中の隠居小屋暮らしのイメージだ。

   (法王庁宮殿)

 手前の低い連なりは旧市街を囲む城壁で ── 「低い」と言っても、観光バスの大きさと比べると聳え建つ城壁だが ── その上に連なる巨大堅固な城塞風建造物が教皇宮殿である。

 教皇「座」がアヴィニョンにあったのは1309年~1377年の期間。この間の7人の教皇はすべてフランス人。この時代、フランス王の力が強かった。「幽閉」されていたわけではない。ただ、実質、フランス王の目の届く所に置かれた。それは、神の代理人を自称するカソリック教会の側からみたら、屈辱の期間だった。教皇座は、使徒ペテロが殉教したローマに置かれなければならない。

  (宮殿内の見学へ)

 アヴィニョンのガイドの案内で、宮殿の内部も見学した。

 欧米人の観光客が多く、写真を撮ろうとしても人の姿に邪魔されてうまく撮れなかった。だが、とにかく内部も外観の印象と同じで、分厚い石の壁に囲まれた大広間や教皇の礼拝堂などの空間は、広く、高く、厳(イカ)つく、威圧的だった。

 それにしても、この冷え冷えとした印象は何だろうと思っていたら、ガイドの説明があった。かつて壁面を飾っていたフレスコ画、タペスリー、絵画などの豪華な内装、宗教的彫刻・彫像の数々、椅子やテーブルやその他教皇の調度品などは、フランス革命のときに革命派の民衆によって破壊・略奪されてしまったという。だから、寒々として、殺風景な、がらんどうの空間なのだ。世界史で勉強したフランス革命の美しいイメージとは違い、「民衆」とか、自由、平等、博愛などという理念の衝動にかられた「革命」という行動は、時に恐ろしいものなのだと思った。

 その後、一部は牢獄や兵舎として使われたというが、今は無宗教の国営ミュージアムとして、世界文化遺産に登録されている。

 教皇宮殿を出てローヌ川の岸辺に立つと、サン・ベネゼ橋が見えた。「アヴィニョンの橋」で知られている。

 「アヴィニョンの橋の上で、踊ろよ、踊ろよ

  アヴィニョンの橋の上で、踊ろよみんな輪になって

 (アヴィニョンの橋)

 この橋は、1190年にローヌ川の川中島をまたいで架けられた。

 当時としては大変な大工事だった。完成したとき、21の橋脚と22のアーチがあり、全長は900mだった。しかし、1669年の大洪水で流されて、4つのアーチのみが残った。

 橋のたもとには、サン・二コラ礼拝堂が建っている。

 二コラは一介の羊飼いだったが、ある日、天使のお告げを受けて、ここに橋を架けるように大司教さま以下、町の有力者たちを説得した。のちに、天使のお告げを受けた人ということで、聖人に叙せられ、サン・二コラと呼ばれた。

  (サン・ベネゼ橋の先端)

 「橋の上からは、ローヌ川、ドンの岩山、法王宮、そしてアヴィニョンの町の眺めがよい」と紅山雪夫の『フランスものしり紀行』にある。

 橋の上に観光客の姿が小さく見えた。こうして見れば、大きな橋なのだ。

 日が傾いて、やや赤みを帯びた空気に透明感があり、ローヌ川の向こうに望む教皇宮殿は印象的だった。

 ヨーロッパに来ていつも感じるのだが、光と陰の差が強い。空気が澄んでいる。日本のように空気が水分を含んでいないのだ。黄昏から夜にかけて、深い紺青になっていく空の色は本当に美しい。

 その代わり、おぼろ月や、陽炎や、秋の霧の風情はない。

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<ガール川に架かるローマの水道橋> 

 2010年10月8日  晴れ 午後 曇り

 今日は8時半出発だから、ゆっくりだ。にもかかわらず、6時に部屋の電話が鳴って、何事かと驚いた。添乗員が間違ってモーニング・コールをかけたそうだ。

 今日は、アヴィニョンのホテルを出発して、世界遺産のボン・デュ・ガールへ。プロヴァンス地方の最後の見学地だ。

 午後は、南仏をさらに西へと走り、スペインとの国境のピレネー山脈も近いカルカッソンヌへ。城壁に囲まれた中世の町を見学する。

 (ブログのこの回はポン・デュ・ガールまでとし、カルカッソンヌは次回のブログに回します)。

        ★

 ポン・デュ・ガール。

 「ガール」はガール川。ローヌ川に流れ込む支流。

 「ポン」は橋。ただし、この橋は、人や馬車も通れるが、架橋の主目的は水道橋。

 ニームという町は、フランスのローマ時代に建設された町の中でも最古とされる。にもかかわらず、保存状態の良い古代闘技場をはじめ、多くのローマ遺跡が残るそうだ。ただし、今回、ニームは見学しない。

 そのニームの町に水を供給するため、ローマ人は長さ50㎞の導水路を建設した。

 途中、ガール川の深い渓谷を越えるために、水道橋が架けられた。紀元前19年のことである。

 12世紀に架けられたアヴィニョンのサン・ベネゼ橋は17世紀に崩れたが、1100年も前に架けられたポン・デュ・ガールは今もそのまま遺っている。

    (ガール川に架かるローマの水道橋)

 以下、引用文は、須賀敦子『時のかけらたち』(青土社) 所収の「ガールの水道橋」から。

 「この橋が、ふくよかな女神をたたえるためでも、まして同時代人たちが愛したウェルギリウスやホラティウスの詩に対抗するためにでもなく、水を通す、という単純で日常的な用途のために築かれた事実が、私の心を捉えた。

 当時、5万の人口に賑わっていたとはいえ、広大なローマ帝国にとってのニームは、やはりひとつの『地方』都市にすぎなかったはずだ。

 その都市に水を引いて、市民ひとりにつき1日400リットルからの水を供給するという構想、いや、ローマ帝国の都市には水が流れ溢れていなければならないという『思想』のために、この橋は構築されたのだ。

 コロッセオやパンテオンのような記念碑的な建造物の才能には感嘆しても、それまで道路や橋などについては、単なる土木工事と、なにやらみくびっていた私は、どうやら回心を迫られているようであった」。

 上の写真に見るように、ポン・デュ・ガールはアーチの列を3層に積み重ねた形になっている。

 一番上が導水路。水面からの高さは49m、川底の基礎からの高さは52mで、現代の13階建てのビルより高いという。長さは275m。

 下段は人や馬が通る橋を兼ねている。長さは142m。

 私たちも歩いてみた。

 (下段の橋を歩く)

 中段、下段に使われている石材の中でも最も大きな石は、1個の重さが約6㌧もあるそうだ。 

 (川に映る橋脚)

 「水道を敷設するのがむしょうに好きな皇帝といえば、ふつう初代のアウグストゥスを指すが、構築の企画、施工に直接かかわったのは、『クラトール・アクアールム』、水道管理局といった役所を開発した、アウグストゥス皇帝の女婿、アグリッパのはずだった。

 ローマのパンテオンを最初に建立したのと同じ人物である」。

 導水路の全長50㌔には、途中、岩山をくり抜いたトンネルもある。

 導水路には、全て石造りの蓋がしてあり、清掃を行うための縦穴まで掘ってあった。ローマ人はいつもメンテナンスのことを考えて建設する。

 山の泉とニームの町との間は50㌔だが、高低差は17mしかない。平均すれば1㌔当たり34㎝である。どのような方法で勾配を計測しながら大工事を進めていったのか。とにかく水は滔々と流れてニームの町まで運ばれた。ローマ人の技術力はすごい。

 「雨の多い季節に(川の)流れが深く激しくなる部分はアーチを広く取り、浅瀬には小さいアーチに造られているという。この変化は、工事を軽減する目的でえらばれたのかもしれないが、ローマの構築者たちは、全体の印象をかろやかに仕上げるという美学的な要素をすでに意識していたにちがいない。

 私の疑問への答えが否定的な場合、すなわち、橋を構築したひとたちが美学を意識していなかったとすると、若いころどこかで読んだ、もうひとつの厳粛で基本的な概念が浮上する。すなわち、ぎりぎりまで計算しつくされた構造は、心を打つような造形と必然的に合致するはずだという考えだ」。

    (水道橋)

      ★

<須賀敦子の世界> 

 「昼間だと、あの上を渡れます。ジャックがいった。いいのよ、わたらなくても、このままで。これまで見た、いちばん美しいものみたいな気がするわ。ジャックが頬をあからめたのが、月の光でわかった。もういちど、彼がいった。あなたをここに連れてきて、よかった」。

 引用してきた須賀敦子の短編「ガールの水道橋」は、旅行案内でも、紀行文でもない。彼女の作品には、文学の話や紀行などもあるが、なつかしい思い出の人々のことを書いたものも多い。彼女の作品のファンは、そういうものを読んで感動した人たちだ。…… 若くして病死したイタリア人の夫の思い出。夫の従弟や叔父さんのこと。二人に共通の友人、知人のこと。自分の父のこと ……。いずれも、須賀敦子にとってなつかしく、いとしい人たちだ。

  (水道橋の橋脚)

 この「ガールの水道橋」は、ジャックというフランス人の青年の思い出を書いている。

 彼は、南仏の小さな町の職人の息子として生まれた。義務教育を終えると、当時はフランスでもドイツでもそうだったが、父は息子が自分と同じように職人としての技術を身に付けるため徒弟生活に入るものと思っていた。だが、ジャックは父の意に反して、文学を学ぶためにエクス・アン・プロヴァンスの普通科リセに進学し、さらに大学に進む。もちろん、自分で生活費を稼がなければならなかったから、卒業するのに人より多くの年月を要した。

 卒業してパリに出るが、彼の夢にかなうような就職先は見つからなかった。

 「私」が彼と出会ったのは、東京の外国語学校(専門学校)の講師として働いていたときだった。授業を終えたある晩、同僚教員のジャックから晩飯に誘われた。

 それから月に1、2度、夜の授業を終えたあと、近くの食堂で晩飯を共にするようになった。彼は、10歳も年上の「私」に、とりとめもなく話をした。生い立ちのこと、故郷の両親のこと、今、同棲している美人の日本人女性のこと、文学のこと、旅行のこと、夢のこと。 …… 彼は文学青年で、「私」から見れば地に足がついていないように見えた。やがて、美人の彼女とも、愛し合っているのに口喧嘩ばかりするようになり、そういう愚痴もとりとめもなく聴かされた。「私」は二人のことに介入したくなかったから、ただ聴き役だった。

 そして、ある年度末、彼は突然決断してフランスへ帰った。もちろん、彼女との関係も清算して。

 ところが、故郷の南仏には帰らず、パリで生活した。「私」が仕事でフランスに行くことになったとき、会いたいというのでパリの地下鉄の駅で落ち合った。そして、彼の「下宿」に案内され、東京で別れて以来の話を聴かされた。倉庫の一室のような部屋での孤独な暮らしは貧しく、幸せとは縁遠いように思えた。

 時がたち、また「私」が仕事で南仏に行くと聞いて、ホテルに訪ねて行くという連絡があった。そのとき、彼は、故郷に近い南仏の町で教職に就いていた。

 再会したとき、彼はうれしそうに「今度、結婚することになりました」と言った。「私」は彼が長い旅の末に、やっと居場所にたどり着いたのだと感じた。

 彼は、その夜、あなたに見せたいものがある、と言った。

 そして、彼に連れられてきたのが、ここである。

 月光に照らされた「ガールの水道橋」。「私」は息をのむほど感動した。

 「昼間だと、あの上を渡れます。ジャックがいった」。

 今までさんざん愚痴を聴いてくれた「私」に対する、ジャックの心のこもった感謝の贈り物なのだと思ったから、「私」も答えた。「これまで見た、いちばん美しいものみたいな気がするわ」。

 「ジャックが頬をあからめたのが、月の光でわかった。もういちど、彼がいった。あなたをここに連れてきて、よかった」。

 …… 須賀敦子が描く人は、名もない、そして、なつかしい思い出の人である。

 この小品は、ジャックの「あなたをここに連れてきて、よかった」という言葉の紹介の後、その数行あと、突然、次のような叙述で終わる。

 「ジャックの妻からの電話で、彼が重い病気で急逝したという報せがとどいたのは、それから2年後の、つめたい冬の夜だった。ふたりのあいだには、男の子が生まれたばかりだった」。

 人はまよいながらも、けなげに生きる。そして、多くの場合、何も話さず、まわりの一人一人にわずかな思い出だけを残して死んでいく。

 ジャックの両親や、妻や、その他の誰かよりも、自分がジャックのことを深く知っているわけではない。しかし、自分だけが知っているジャックもある。

 ジャックのことを書いたのは、「私」の弔辞かもしれない、と思った。ジャックの美しい贈り物のことは、自分が語らなければ、誰も知らないのだから。

 やはり、教会の鐘の音ような弔辞だと思った。

      ★

 この作品紹介には、私の勝手な「読み」が入っていると思います。興味のある方は、作品そのものをお読みください。

 さて、フランスのバスの旅から、すっかり離れてしまった。もう脱線はやめて、このあと南仏を西へ西へと走り、カルカッソンヌに到る。

 

 

 

 

 

     


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