( セーヌ川の川中島サン・ルイ島 )
< サン・ルイ島の小さなホテル >
シャルトルからパリへ戻った。
パリのホテルは、いつもセーヌ川に近いところになる。パリのセーヌ川沿いの風景は本当に美しく、歩いていて、心楽しい。
しかし、高い。特に円安の今、パリのホテル代の高さと、にもかかわらず、その部屋のあまりの狭さに、あきれてしまう。それでも、世界中から観光客が押し寄せるのがパリ。街行く観光客も、みんな人生のこのひとときを心から楽しんでいるように見える。
セーヌ川の川中島。パリ発祥の地であるシテ島と、それに続く小さなサン・ルイ島。今回はそのサン・ルイ島のプチホテルに2泊した。
サン・ルイ島には、シャンゼリゼ大通りやオペラ通りのような豪華さはない。メイン通りのサン・ルイ・アン・リル通りは、狭い道に、ちょっとオシャレで小さな店が軒を連ね、カフェ、レストランやプチホテルもある。
( サン・ルイ・アン・リル通りの夜 )
しかし、この界隈は、パリっ子が一度は住んでみたいと思うスノッブな一画なのだ。そう、あのマダム・ケイコ・キシも、この一画の、どこかの建物の1フロアーに住んでいる、と、ご本人のエッセイ集で読んだことがある。
ここには、エディット・ピアフやイブ・モンタンが歩いていた古き良き時代のパリの香りがあるのかもしれない。
16年前、初めて一人でパリに来たときの夜、うまく注文できるかと緊張して入ったレストランが今もあった。もちろん、星付きなどではない。ごく庶民的なレストランである。 シテ島からサン・ルイ島へ、橋を渡ったところにある。メニューを見て、「牛肉」という単語しか知らなかったので、その単語の入っていた料理を注文した。ステーキは、日本と違ってずいぶん噛みごたえがあったが、美味しかった。近年の日本のグルメ番組を見ていると、タレントが二言目には「柔らかいですねえ」「ジューシーですねえ」と言う。年寄りみたいな感想だ。
(夜のサン・ルイ橋近くのレストラン)
サン・ルイ橋のたもとでは、初老のおじさんがアコーデオンでシャンソンを弾き、自転車で通りかかったという感じの若い女性 (多分、今日の仕事を終えたあと、アコーデオン弾きのおじさんの応援に来たのだと思う) が、自転車に跨ったまま、エディット・ピアフのように颯爽とした良い声で歌っていて、思わず立ち止まって聞きほれてしまった。 パリにはシャンソンがよく似合う。シャンソンはアコーデオンでなければならない。
その100mほど先の、左岸とシテ島を結ぶアルシェヴェシェ橋から、セーヌの流れとノートル・ダム大聖堂のライトアップされた姿が見える。パリを代表する風景の一つである。
( アルシェヴェシェ橋から )
島の真ん中を通るサン・ルイ・アン・リル通りのホテルから数軒先に、スーパーマーケット (食材店) の店があった。ここで、朝食用のハム、果物、野菜、ヨーグルトなどを買った。
( 小さなスーパーマーケット )
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< ゴシック様式をデザインした人…修道院長シュゼール >
聖人に列せられたドニ(サン・ドニ) は、アテネの人だと言う。まだキリスト教が異教であった3世紀半ばに、パリに伝道にやって来て殉教した。その墓に、小さな教会が建てられた。それがサン・ドニ・パジリカである。
このパジリカは、7世紀に、大きな勢力を有するようになっていたヴェネディクト派の修道院となって拡張される。
さらに1122年に、当時の修道院長であったシュゼールによって大改修が手掛けられ、1144年に完成した。今までの常識を打ち破った全く新しい聖堂、ゴシック様式の聖堂の誕生であった。
修道院長のポストは、当時、普通、王侯貴族の子弟が占めていた。そういう人のなかに、学問的に優れた人もいた。日本の中世もそうだが、学問をし、学識の高い人と言えば、まずは大寺の僧侶である。ヨーロッパでも、ソルボンヌ大学をはじめ大学は、ラテン語で神学や、神学を構築するために必要な哲学を学ぶために創設された。
シュゼールは貧農の出身だったと言う。その彼が、フランス王家の墓所でもある、格式の高い修道院の院長になれたのは、世故にたけていた面もあったかもしれないが、やはり周囲の誰もが認めざるを得ないような秀才であったからだろう。
いや、天才かもしれない。彼は、ラテン語を読み解き神学を論じる哲学的頭脳だけでなく、数学や物理学、さらには美学にも通じる頭脳の持ち主であったと思われる。
もちろん、優れた建築家、「石造建築の博士」と称せられたピエール・ド・モントルイユがいて、彼のビジョンを現実化してくれたのではあるが。
既に書いたが、シュゼールが目指した、後に「ゴシック様式」と呼ばれる聖堂は、一歩中に入ると天井が天に届くように高い。そのような壮大な「神の家」でこそ、人は初めて神を感じることができると彼は考えたのだ。それにしても、それまでのロマネスク様式の教会の何倍もの高さをもつ石の建造物をどのように造るのか?
それだけではない。彼のビジョンにはもう一つ、重要な要素が加わる。周囲の壁は窓によってくり抜かれ、その窓に美しい色ガラスが埋められなければならない。つまり、美しいステンドグラスを通過して、神秘的な光が差し込む空間にしたい、というのが彼の構想である。「神は光なり」。シュゼールの美学は、「光の美学」である。
かつてない大きな建物、それを覆う石の天井を支えねばならない周囲の壁に、大きな穴を開け、窓にする。天井の重みに耐えられるはずがない‼ 今までのロマネスクの聖堂でさえ、その天井の石の重みに耐えるため、壁には小窓しかなく、内部は薄明の世界だったのだ。
この矛盾を克服するかつてない斬新な工法が創造され (尖塔アーチ、ヴォールト、バットレス)、サン・ドニ・パジリカはステンドグラスの輝く美しい聖堂として生まれ変わる。
そして、この様式は初めにフランス、さらにイタリア中・南部を除く全西欧世界に広がり、ゴシック様式全盛の時代が到来するのである。
ただ、シュゼールという修道院長を、美しいものにあこがれるロマンチストだと思ってはいけない。新装なったサン・ドニ修道院の扉口に刻まれた文章には、「… 愚かなる心は物質を通して真実に達し …」というフレーズがある。 (この辺り、馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』を参照)。
人間は愚かな存在であり、だからこそ、人間が神に近づくには、天をつく大聖堂や光のステンドグラスなどがの装置が必要なのだ、と彼は考える。人間性の現実を見る彼の目は、シビアーでリアルである。それが彼の素顔である。
その後のゴシック様式の展開を見ると、ロマネスク時代の聖堂の彫刻が素朴でメルヘンチックであったのに対し、ゴシック大聖堂を飾る彫像は、聖人一人一人の顔が写実的になり、風雪に耐えた、人間的で、個性的な表情になっていく。近代人の顔である。
西欧を旅し、また、関係する本を読んでいると、西欧の歴史は、こういうリアリストによって発展してきたのではないかと思えることもある。
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< 初めてパリ郊外の町サン・ドニへ行く >
町の名でもある「サン・ドニ」は、パリの北4キロの郊外。メトロ1号線から13号線を乗り継いで、サン・ルイ島の最寄り駅からは17駅もある。RER (高速郊外地下鉄線) を使えば駅の数も少なく、早いが、RERの車内では、時に暴力的な強盗事件も起きるというので、地下鉄にした。
( パリの地下鉄のホーム )
フランスやドイツの学校に、日本風の「生活指導」という領域はない。最近、カウンセラーを置きだしたようだが、しつけや道徳教育は基本的に保護者の役割。学校がそれをやるとかえって親から抗議を受ける。「先生、息子が学校でタバコを吸って迷惑をかけたことは申し訳なかった。しかし、先生、私が連絡を受けて学校へ来るまでの間に、ずっと息子に説教されたそうだが、子どもに生き方を教えるのは親の仕事だ。学校は勉強を教えるところで、偏向教育をしてもらっては困る」。
しかし、フランスでも 「荒れる学校」はある。パリの周辺部の学校だ。パリを囲むドーナツ型のリンクに移民・難民が住み着き、言語、宗教、就業の問題もあって、治安はよろしくない。だから、パリに来ても、サン・ドニへ行くことは避けてきた。だが、今回、ゴシック大聖堂を見て回ることにした以上、その発祥の地に行かないわけにはいかない。
13号線に乗り換えてまもなく、小学校3、4年生ぐらいの男の子が、ぴょんぴょん跳ねるように車両の中をやって来て、乗客にカネをせびり、列車が駅に停車するとホームに降りて、もらった硬貨の中からセントなどの小銭を無造作に線路に投げ捨て、また車両に飛び乗って、回っていく。ニヒルに無表情で、動作はすばしっこい。
サン・ドニ駅を出ると、通りを行く人も、レストランやカフェやその他の店で働く人も、人種のルツボだった。アフリカ系、アラブ系、東洋系。ヨーロッパ系の人はほとんどいない。メトロから地上に出て方角がわからず、カフェでコーヒーを飲みながら店のアフリカ系の青年に聞いたが、要領を得ない。カフェを出て、通りかかった若い女性に聞くと、私も同じ方へ行くのでと、教会まで連れて行ってくれた。助かった。
※ 一言、フランスのために付け加える。フランスは、歴史上、難民や政治的迫害を受けた人々を 積極的に受け入れてきた国であり、自由を求める人々にとってあこがれの地であった。
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< サン・ドニ修道院のステンドグラスと王家の墓 >
( サン・ドニパジリカ )
ゴシック様式発祥の聖堂であるが、聖堂の扉口を飾るゴシック様式最初の聖人の彫刻群は、今はない。フランス革命の折に、革命派によって全部破壊されてしまった。だから、火災を免れたシャルトルの大聖堂の西正面の彫刻群が、今は最も古い初期ゴシック彫刻である。
高校時代に習ったフランス革命は、自由、平等、博愛の美しい政治革命だったが、フランスを旅して気づくのは、革命の過程での人の命に対するむごさと、無茶苦茶な破壊の大きさである。善悪二元論の世界は、恐ろしい。
聖堂に入ると、今回の旅で見てきた大聖堂と比べ、規模こそ小さいが、ゴシック様式のほぼ完成された聖堂であった。この聖堂によって、歴史のページが1枚めくられたのだ。
(サン・ドニ聖堂の中)
ゴシック様式の聖堂には必ず薔薇窓がある。それは、正面扉口から中に入って振り向いたとき、高所に咲く大輪の花のごとく目にとびこんでくる。その薔薇窓の最初のものが、ここにあった。
明るい紫が基調になって、美しい。
( 薔薇窓 )
中央の小さな円から12本の黒い箭(ヤ)が出ている。中心はキリスト。12本の箭は、世界に福音を伝える使徒たちを意味するのだそうだ。
しかし、われわれ異教徒たちは、ただその輝きの美しさを見つめたらよい。
( ステンドグラス )
サン・ドニ修道院のステンドグラスは、全体に明るく、色調も色鮮やかで、華やかである。
その分、シャルトルの大聖堂のステンドグラスがもつ、宝石箱をひっくり返したような、深い、清純な光のきらめきはない。
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この修道院は、フランス王家の墓所でもある。
ふつうの大聖堂は、内陣部も、周歩廊を歩いてぐるっと一巡できるようになっているが、ここでは内陣部に立ち入れないようにロープが張られていた。
ロープの奥に、死者の横臥像が載った棺が見える。内陣部が墓所なのだ。
その墓所は、一度、建物を出て、別の入り口から入場料を払って入るようになっていた。
紅山雪夫『ヨーロッパものしり紀行…建築・美術工芸編』新潮文庫から
「石造りの天蓋が設けられ、天蓋の上には、華やかに盛装してひざまずき、神に祈りを捧げている王と王妃の像が置かれる。それに対し天蓋の下には、王と王妃の横臥像が置かれるのだが、こちらは死んだときの形相を赤裸々に表現してあって、思わずぎょっとするような迫真の彫刻である 」。
初代フランス国王のクロービス、イベリア半島を制圧してなお東へと侵攻してくるイスラム軍をピレネーの麓で撃破したカール・マルテルなど、歴代の王や王女の棺や墓があり、まさにヨーロッパ史がここにあった。
(フランス王家の墓)
だが、「死んだときの形相を赤裸々に表現してあって、思わずぎょっとするような迫真の彫刻である」という、棺の並ぶなかを見て回っているうちに、空気がよどんで、悪霊がまとわりついてくるような感じが徐々にしてきて、気持が悪くなり、ここは異教徒の長居するところではないと、表へ出た。
見るべきものは見た。もう、十分だ。外気がおいしい。塩があれば、肩から背中に振りかけたい気分だ。
ただし、棺の中は空っぽである。フランス革命のとき、聖堂を襲った民衆によって王たちの遺体の骨は全部地下に投げ捨てられ、ごちゃ混ぜになり、今では元に戻しようがなくなった。
いかなる理由があろうと、死者の墓をあばき、さらにこれを鞭打つようなことをしてはいけない。
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何度もパリを訪れ、そのたびにノートル・ダム大聖堂に入ったが、ゴシック様式発祥の地、サン・ドニまで足を伸ばしたことは一度もなかった。また、ゴシック様式を興した修道院長シュゼールについても、彼の思想や偉大さは言うまでもなく、その存在すら知らなかった。
また、少しだけ深く西欧を知ることができた。
明日は、この旅の終着地であり、また、ある意味、出発の地でもあるパリのノートル・ダム大聖堂を再訪しよう。
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