< 水城 (ミズキ) にみる古代日本 >
『日本書紀』にいわく、「筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城といふ」。
水城 (ミズキ) は、唐の水軍が博多方面に上陸し、侵攻してきたときに、太宰府を守る防衛線として、664年に築かせた直線状の土塁と堀である。平野部の、両側から山が迫って狭くなった箇所を塞ぐように築かれ、その間は1.2キロである。
(「太宰府展示館」の展示資料)
さらに、翌年には太宰府の東の山頂に大野城を築き、続いて基肄 (キイ) 城などの山城を次々築いていく。大野城は、広い区域を城壁で囲った朝鮮式の山城で、軍事に通じた亡命百済貴族の指揮の下に建設された。いざというときには、太宰府をこの中に遷し、長期戦を戦うための城である。
上の図は、「太宰府展示館」の展示資料で、水色は博多湾、緑色は平野部。図中の1~6が水城。その東に大野城がある。
そのときから1300年余年の歳月が過ぎた。今、水城は、樹木でおおわれ、平野に取り残された林のつらなりのように見える。知らない人は、なぜこのような自然の丘陵が、自動車道路や線路を横切っているのか、不審に思うだろう。
(現在の水城)
きのう訪問した九州国立博物館の入り口に、太宰府政庁の模型とともに、水城を築く当時の様子を模型化した展示もあった。今、見る樹木の下はこうなっているという模型だ。
私は、古代に造られた「土塁」だから、せいぜい高さ1mぐらいの、実際に戦闘となればたいして役に立たないものだったのだろうと想像していたが、そのような規模ではなかった。
(水城を築く)
土塁の高さは13mを超え、基底部の幅は80m。その博多側にあった堀は、幅60m、深さは4mで、水を貯えていた。また、太宰府側にも幅4~10mの内堀があった。
土塁には東西2カ所の開口部があり、第1期政庁の時代は防御的機能を持つ門であったが、奈良時代には壮麗な楼門となり、約16キロの直線道路が博多湾にある迎賓館と結んでいた。
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< 古代日本史上最大の危機 … 百済滅亡と白村江の大敗>
* 以下は、直木孝次朗『日本の歴史 2 』及び司馬遼太郎『韓のくに紀行』を参考にした。「 」 の引用は 『韓のくに紀行』 である。
「中国大陸が四分五裂すると、朝鮮は息をつく」。
「朝鮮半島に、政治的には劇的な、そして文化的にはきらびやかな三国 (百済、新羅、高句麗) 鼎立時代が現出するにいたるのは、中国が統一されていなかったからであった」。
「ところがこの三国時代が夢のように消えて、百済も滅びるのは、中国大陸に大唐帝国という空前の統一王朝が誕生したためである。この中国統一の余波は、大津波のように日本にも襲い掛かってくる…」。
660年、唐は新羅の要請に応じる形で、水陸13万の兵を出し、百済攻撃に乗り出した。
「百済の防衛軍は、唐・新羅連合軍のためにほとんど一撃でくずれた」。
「かれ (百済の義慈王) は捕虜になった。新羅に捕らわれたのではない。唐の捕虜になった。新羅が敵であったというより、唐が敵であったということが、この一事でもわかる。かれは唐の軍船に乗せられ、唐土へ連れ去られた」。
「唐の主力がひきあげると、百済の遺民たちは再興のために兵をあげた。このゲリラ戦の大将はかつての重臣団の代表格である鬼室福信で、かれは日本に援軍を乞うた」。「日本には (百済との同盟の人質として) 義慈王の王子豊璋がいた」。「鬼室福信は (新王として迎えるため) その帰還を乞うた」。
大化の政変からまだ15年であった。新羅が唐に接近していたことは聞いていたが、事態は急転したのだ。多年、交流を深め、揚子江流域の南朝仏教文化をわが国に伝えてくれた (→飛鳥文化)百済の都が焦土と化したのである。そして…、次はわが国かもしれない。
662年、まず新百済王・豊璋に、安曇連比羅夫を将とする 5千余の兵を付けて送り返した。「比羅夫」は固有名詞ではない。司令長官というほどの意味を持つ。
さらに、翌年、老いた女帝・斉明天皇が自ら筑紫に出向くという、国運をかけた空前の軍事行動に乗り出し、阿倍比羅夫らに率いられた2万7千余の兵を新たに半島に送り出した。当時の人口を考えれば、国を挙げての大動員であった。
当初、百済独立軍と日本軍の戦いは、唐軍が高句麗を攻めていた間隙を衝いて、大いにふるった。
だが、調子が良くなると、オレが、オレがの仲間割れが起こるのが、半島の習性である。鬼室福信が副将と争ってこれを殺し、さらに豊璋王があろうことか鬼室福信を殺してしまった。残ったのは、軍隊統率のできない豊璋王のみで、独立軍の士気は一気に衰えた。
この事情を知らずに半島の南部で新羅軍と戦っていた蘆原君 (イオハラノキミ) の率いる1万が、機は熟したとみて、船で白江に向かった。一方、唐・新羅軍も、態勢を立て直し、百済軍の立て籠もる周留城を包囲し、唐の水軍も周留城に迫るため白江に集結した。
蘆原君の率いる日本軍が白江に着いたとき、唐の水軍はすでに待ち構えていた。海戦は、日本軍が到着した日と翌日の二日間戦われた。
日本史上、周囲を海に囲まれた国土を防衛するには陸軍より海軍の整備が必要だと気付くのは、幕末の勝海舟らを待たねばならない。白村江のときも、唐の巨大な軍船に対して、日本の船は歩兵や武器の輸送用に動員した小型船で、しかも、「唐の戦艦は前後に自由に進退する能力を持っていた。日本水軍の突撃を見て、たちまち左右に分かれ、やがてその両翼に日本水軍をつつみこんだ。あとは矢戦と火攻めを繰りかえすだけである」。
唐側の記録にいわく、「四たび戦って勝ち、その (日本軍の) 舟四百艘を焼く。煙と炎、天にみなぎり、海水赤し」。
『日本書紀』 にいわく、「ときの間に官軍敗積し、水に赴きて溺死する者多し。艪舳(ヘトモ) めぐらすを得ず」。
陸上においても、百済独立軍が立て籠もる周留城は落ち、戦いは日本軍・百済独立軍の惨敗に終わった。
白村江の戦場を離脱できた日本軍は半島の南部に退き、各地を転戦中の日本軍を集め、亡命を希望する百済人を伴って、日本に帰還した。
「日本の水軍が白村江で壊滅的打撃を受け、百済の独立運動が敗北したとき、敗残の現地日本軍は百済人たちを大量に亡命させるべく努力した」「さらには当時の天智政権は国をあげてかれら亡国の士民を受け入れるべく国土を解放した。日本歴史の誇るべき点がいくつかあるとすれば、この事例を第一等に推すべきかもしれない」。
「百済の亡国のあと、おそらく万をもって数える百済人たちが日本に移ってきたであろう」。
百済独立軍の指導者・鬼室福信の身内と思われる鬼室集斯という亡命百済人のリーダーの一人の草むした墓石が、滋賀県蒲生郡にあるという。彼は朝廷がつくった「大学」で教授をし、その後、引退して一族の棲むこの地で没した。
百済人ばかりではない。やがて大唐の圧力下に揺れる新羅からも亡命者はくるようになり、これらの人々が律令国家建設に力となった。
「日本の奈良朝以前の文化は、百済人と新羅人の力によるところが大きい」。「さらに土地開拓という点でも、大和の飛鳥や近江は百済人の力で開かれたといってよく、関東の開拓は新羅人の存在を無視しては語れない」。
「炎上する百済の都・扶余」のイメージは、トロイの落城や、コンスタンチノーブルの陥落などと並んで、胸に迫るものがある。白村江における日本軍の壊滅的敗北もまた、日本古代史の悲劇的な1ページであった。
そのあとの20年近く、中大兄皇子・天智を筆頭とする多くの人々が、都は言うまでもなく、北九州でも、瀬戸内海、大和の各地でも、近江でも、大唐帝国の恐怖と向き合いながら、ぴんと張りつめた緊張感のなか、次々と施策を打ち出し行動した日々を、今、現代日本人は、遥かに想像してみることも必要だろう。
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< 唐軍はなぜやって来なかったのか?? ── 日本の地政学的位置 >
当時の日本人には、なぜ唐の水軍がやってこないか、その理由がわからなかった。わからないながらも、備え、不安のうちに、態勢を整えていった。
元外交官で、先年、亡くなられた岡崎久彦氏の著作 『陸奥宗光とその時代』 『小村寿太郎とその時代』 『幣原喜重郎とその時代』 『重光・東郷とその時代』 『吉田茂とその時代』 (いずれもPHP文庫) は、外交を軸に書いた、すぐれた近代日本史であるが、以下、岡崎久彦氏の『戦略的思考とは何か』 (中公新書) から引用する。アンダーラインはブログ筆者。
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「白村江の敗戦後、日本は唐の侵攻に備えて、対馬、壱岐、筑紫に防人と烽火を置き、各地に城を築きます。しかし、半島南部の百済を滅ぼした唐軍は、北進して高句麗に向かい … 」。
「これ (高句麗) が滅びると、…… 唐と新羅の戦争が始まって、新羅は (高句麗の遺民たちも)、ちょうど今の休戦ラインの北あたりで唐の軍勢をよく防いで、半島南部には唐の勢力の侵入を許しません」。
「… もし唐軍が新羅を征服したならば次は日本だったことは充分想定されます。… 唐と新羅の戦争は、日本にとって神風以上の幸運だったといえるでしょう」。
つまり、唐軍が日本にやってこなかったのは、ひとえに高句麗、これに続く新羅の粘り強い戦いがあったからである。
中国大陸に「膨張的な国」が生まれても、それが直接に日本を襲ったのは、日本史を通じて、あの元寇のとき 1回だけであった。
「その後 (唐以後)、宋、契丹、明、清の時代に、大陸中心部の勢力は一度も半島南部に及んでいません」。
「元寇のときと状態が最も近いところまでいったのは朝鮮戦争のときで …… (このときは) 国連軍が (半島最南端の) 釜山の橋頭保をよくもちこたえて、反撃に転じました」。(このとき、占領下にあった日本に対して、マッカーサーは、自衛隊の前身である警察予備隊の創設を命じた)。
「これだけからも、大陸に「膨張主義的な大国」が出現して、朝鮮半島南部の抵抗が崩壊し、大国の勢力が南部にまで及んだ場合は、極東の均衡の条件が崩れて日本に危機が迫るという、考えてみればあたりまえすぎるようなことが、日本の戦略的環境にとって真理として残ることになります」。
「もちろん、半島南部を取られたからといって、それが日本の破滅ということでなく、そこから日本の正念場が始まるわけです」。
「… そういう場合は、白村江の後とか、元寇のときのように、西日本は要塞化し、全国的に動員態勢をとる必要が生じています」。「結局は今も昔も同じことで、半島南部の海空軍基地が非友好的勢力の手におちた場合を考えると、日本が追加的に必要となる防空能力、制海能力、揚陸阻止能力、ひいては防衛体制全般は、現在のものと質量ともに抜本的に異なるものとならざるをえないでしょう」。
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新羅は唐軍を追い返したあと、唐に朝貢する。それは、幸運にも唐に勝つことができたが、広大な唐を征服したわけではないからである。地政学的には、いつもご機嫌を取っておかなければならない巨大な大国だった。
ベトナムもそうである。ベトナムも中国に侵攻されて、負けたことはない。あの蒙古を追い返したのは、日本とベトナムだけである。そのベトナムも、勝ったあと、中国に朝貢した。
だが、新羅にとってもベトナムにとっても重要なことは、中華帝国が総力を挙げ、10年、20年という歳月をかけても屈服することなく、これ以上侵攻政策を続ければ逆に帝国内に不満が鬱積して内乱が起こり、自国が崩壊するかもしれない、ということを学習をさせたことにある。
朝貢だけで、膨張的な中華帝国から身を守ることはできない。唐が百済を攻撃する以前から、百済も日本も遣唐使を送り、仲よくしていたつもりだったのである。
このことを、現代の日本国民は、よく理解しておく必要がある。
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かの半島の国は、他国を侵略したことはないが、他国に攻められたときはタフで、徹底抗戦する。
そういう国が、「大陸本土と日本との間に介在している ── これほど日本の安全にとってありがたい条件はないといえましょう」というのが戦略的思考である。
ただし、かの隣国は、歴史的には常に「容中、非日」であった。中国は親のごとき存在であり、自分はその長男、日本その他の国は不肖の弟に過ぎないという儒教的序列主義を信奉してきた国である。儒教では、そういう序列の心を「孝」と呼び、そうしてできあがった序列文化を「礼」と呼ぶ。彼らが感情的に「反日」であるのは、日本がそういう秩序に無頓着で、「弟としての分」をわきまえないからである。
付き合いにくい相手である。観念の中に生き、プライドが高く、メンツにこだわり、理屈っぽく、ひつっこい。時には、「反日」を主食にして生きているのではないかと思うほどである。
だが、中華人民共和国は中国共産党の支配する国家で、立党の精神そのものが「膨張主義」である。お人よしアメリカは、市場経済が発展すればやがていい隣人になるだろうとタカをくくっていたが、隣人どころか、市場経済を食いながら巨大化し、今や彼らの世界戦略をあらわにしてきている。同じ「反日」を言っても、韓国とは戦略的立ち位置が全く違うのである。
事、自国の防衛と安全を考えるとき、両者を混同してはいけない。
「同じ反日でも中国の方がマシだ」、などという戦略がわからない小人の議論に陥らないよう注意する必要がある。
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