( 原爆ドームを訪ねる少年少女 )
2016年5月27日(金)、オバマ米大統領が広島の平和公園を訪問した。
大統領は、花束を捧げ、黙祷し、そして、スピーチした。
スピーチは、人間としての真摯さを感じさせるものであった。
そのスピーチの中で大統領は言った。「私が生きている間にこの理想 (核兵器が完全に廃絶される世界) を実現させることはできないかもしれない」。
今、現実世界を見る目をもつ人なら誰でも、「この理想」が、遥か彼方のものであることを知っている。
それは、20世紀の終わりの頃よりも、一段と遠のいたかに見える。アメリカの大統領がその気になっても、世界の状況がそれ以上に悪化し、理想は地平線の彼方に遠のいてしまった。
しかし、…… 私が生きている間に、アメリカの現職の大統領が、「原爆死没者慰霊碑」の前に立って、花束を捧げ、黙祷するようなことが起ころうとは、思ってもいなかった。
だが、それが実現した。
今、世界に希望はないように思えても、朝、水平線の上に太陽が昇ってくるように、突然、当たり前のことのように、状況は一変するかもしれない。
世の中、捨てたものではない。そういうことを、思わせてくれた大統領の広島平和公園訪問であった。
アメリカの大統領の黙祷の前に、死者たちも、自分たちが初めて人間としてリスペクトされたと感じただろう。それだけでも、素晴らしいことであった。
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( 原爆死没者慰霊碑 )
だ円形の御影石の屋根の下に、国籍を問わず、原爆死没者すべての氏名を記帳した名簿が納められた石室(石棺)がある。そして、その前に「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」の石碑が立つ。その向うには、原爆ドーム。
石碑の文は、祈りと誓いの言葉である。
誓いの言葉に主語がない、と言われた。あいまいな日本語!! あいまいな日本人!! だから、日本人はだめなんだ。
戦後、「日本はだめだ」と言えばハイカラだという風潮が、知識人の中に、つい最近まであった。
しかし、なぜ、欧米語の文法を日本語に当てはめ、欧米語の文法に当てはまらないからと言って、日本語に劣等感をもつのか?!!
日本語に主語は要らない。そもそも、この世の中のことをすべて、「我か彼か」の二元論で説明できると考えるほうが、よほど単細胞であり、言語としても欠陥がある。
「主語がない批判」は、右からも、左からも、起こった。
「過ち」ではない。確信犯・アメリカによる「犯罪」ではないか!! これは、右からも左からも出された非難だ。
左派は、戦争を始めた日本軍国主義者も同罪である!! と叫ぶ。
「過ちはくりかえしません」ではない。「過ちは繰返させません」とすべきだ、と言う。
その延長線上に、今回のオバマ大統領広島訪問のニュースに対する中国・王毅外相のコメントがある。「広島は注目を払うに値するが、南京は更に忘れられるべきではない」「被害者は同情に値するが、加害者は永遠に自分の責任を回避することはできない」。
彼の言う「加害者」とは、日本軍国主義者のことで、今も靖国参拝を繰り返していると、彼は言いたいのだ。
今、世界の中で、ダントツに軍事費を増やし続けているのは、中華人民共和国である。そのことから人民と世界の目を逸らしたいのだ。
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そのような批判に対して、碑文を起草し、自らも被爆者であった雑賀忠義広島大学教授(当時)は、自ら英訳として「For we shall not repeat the evil 」と書いた。
また、歴代の広島市長、例えば、山田節男氏は、「再びヒロシマを繰返すなという悲願は人類のものである。主語は『世界人類』であり、碑文は人類全体に対する警告・戒めである」と述べている。そして、今は、これが公式の見解となっている。
オバマ大統領は、スピーチの冒頭から二つ目のフレーズで、「我々はなぜこの地、広島に来たのか。それほど遠くない過去に解き放たれた恐ろしい力について思いをはせるためであり、10万人を超える……犠牲者を追悼するために来た」と述べているが、その英文は 「Why do we come to this place, … 」 である。
先に引用した 「私が生きている間にこの理想を実現させることはできないかもしれない」 の前にも、実は、「我々は、」 があり、「我々は、私が生きている間にこの理想を実現させることはできないかもしれない」 、原文は、「We may not realize this goal in my liferime 」となっている。
大統領のこのスピーチの中で、we は何度も使われている。
この「 we 」は、だれを指すのか? あいまいなのは英語も同じである。
まさか大統領が、大統領に同行してきた付き人を含めて、「我々」と言っているのではなかろう。
同行する安倍首相と大統領、さっきまで会議していたサミットのメンバー、アメリカ合衆国、アメリカ国民 …… 等であるなら、そう述べたであろう。終始、「 we 」 で通すことはない。
オバマ大統領もまた、「世界人類」を主語としてスピーチしているのである。
ただ、中国の王毅と根本的に違うのは、大統領は自分自身を、「世界人類」の主体的一員として認識し、死者に対して真摯に向き合っているという点である。
「彼ら (原爆の犠牲者たち) の魂は私たちに語りかけている。もっと内面を見て、我々が何者か、我々がどうあるべきかを振り返るように、と。」
王毅のように、中国共産党史観をふりかざし、「ためにする議論」に原爆を利用することは許されない。
この問題に、アメリカや、中国や、韓国や、日本のナショナリズムを持ち込むのは、ご免である。
謝罪を求め、際限のない鬱憤晴らしをしても、自らを貶めるだけで、人類進歩の役には立たないし、彼岸の死者も喜ばない。
世界人類の一人一人が、20数万人の原爆による死者の前に立ち、「安らかに眠って下さい」と祈り、「過ちは繰返しませぬから」と自分の心に小さな誓いを立てることが、原爆死没者の同胞である我々日本人の願いである。そして、その誓いが世界の大多数の人々の祈りの言葉となる日を、我々日本人は、居丈高にならずに、辛抱強く待ち続けるであろう。
自ら折った折り鶴を持参したアメリカの大統領に、人間らしい感性と知性を感じた。一方、中国人のレベルは相当に低い。
国民・一般大衆のことではない。リーダーのことである。
( 原爆ドームのそばで )
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