(三四郎の池)
<美禰子の、三四郎との出会い>
前回、「三四郎の池」の出会いの場面における三四郎の心理を表現に即して分析した。だが、美禰子の方は何を感じ、どう思っていたのだろうか。
今回読み返して、この池のほとりの出会いのシーンを二人で回想する場面が、このあと3回も出てくることに気づいた。
① まず、三四郎が広田先生の引越しの手伝いに行き、「池の女」(美禰子)と再会する場面。
三四郎が庭の縁側に坐っていると、裏木戸が開いて池の女が入ってきた。このあと、前回の冒頭の<閑話>で取り上げた秋の女のシーンになる。
そのあと、三四郎は女から名刺をもらう。名刺には「里見美禰子」とあった。そして、三四郎が腰掛けている縁側に、少し離れて美禰子も腰を下ろした。
「『あなたにはお目にかかりましたな』と名刺を袂へ入れた三四郎が顔を挙げた。
『はあ。いつか病院で … 』と言って女もこちらを向いた。(※野々宮さんの妹のお見舞いに行ったとき、病院の玄関で出会った)。
『まだある』
『それから池の端で … 』と女はすぐ言った。よく覚えている。三四郎はそれで言うことがなくなった。女は最後に、『どうも失礼いたしました』と句切りをつけたので、三四郎は『いいえ』と答えた。すこぶる簡潔である。
② 二つ目は大学の運動会の帰り。三四郎と美禰子は、「三四郎の池」を見下ろす別の丘の上に立つ。
丘の上から、美禰子は下方の池の暗い木陰を指さして、
「『あの木を知っていらしって』という。
『あれは椎』。
女は笑い出した。『よく覚えていらっしゃること』
『あの時の看護婦ですか。あなたが今訪ねようと言ったのは』
『ええ』
『よし子さん (※ 野々宮さんの妹) の看護婦とは違うんですか』
『違います。これは椎 ── と言った看護婦です』。
今度は三四郎が笑い出した。『あそこですね。あなたがあの看護婦と一緒に団扇を持って立っていたのは』。 (略)
『あなたはまた何であんな所にしゃがんでいらしったんです』。
『暑いからです。あの日初めて野々宮さんに逢って、それから、あそこへ来てぼんやりしていたのです。何だか心細くなって』」。
③ 三つ目は物語の後半部。画家の原口さんのモデルになっている美禰子を訪ねた帰り道のこと。
モデルになって絵を描き始めた時期のことが話題になり、
「『その前って、いつ頃からですか』
『あの (※モデルのときの) 服装(ナリ)で分かるでしょう』
三四郎は突然として、初めて池の周囲(マワリ)で美禰子に逢った暑い昔を思い出した。
『そら、あなた、椎の木の下にしゃがんでいらしったじぁありませんか』
『あなたは団扇をかざして、高い所に立っていた』
『あの絵のとおりでしょう』
『ええ、あの絵のとおりです』
二人は顔を見合した」。
あの日、美禰子は絵のモデルとして画架の前に立ち続けて、その帰りだったのだ。色彩の綺麗な和服姿で、髪には白い薔薇を挿し、手に団扇を持っていた。
もしかしたら、そんな装いで長時間のポーズを取り続けた余韻が、花一輪を落として行くという芝居がかった行為になったのかもしれない??
それはわからないが、…… 少なくともそういう芝居がかったことを、美禰子がいつもしているわけではない。従って、この行為一つで美禰子像を決定づけてはいけない。しかし、時に、そういうこともやってのける不敵さが美禰子にはある。
ともかくこれらの回想から、美禰子においても、あのときの三四郎が心に残ったことがうかがえる。
自分を凝視し続けた不躾な或いは無礼な青年というようなことではなく、印象に残るものがあったのだ。
( トゥルニューの大聖堂/ブルゴーニュ)
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<広田先生の引越し先で ━「女だって」>
広田先生の引越し先の縁側で、こうして待っていても仕方がないから2人で掃除を始めようと、美禰子が三四郎に提案する。三四郎は隣家で掃除道具を借りてきた。美禰子が部屋の畳を掃き、そのあとを三四郎が雑巾掛けしていく。作業しながら、二人は次第に打ち解けていく。
そのさ中、こんな場面も。
「美禰子は例のごとく掃きだした。三四郎は四つ這いになって、後から拭きだした。美禰子は箒を両手で持ったまま、三四郎の姿を見て、
『まあ』と言った」。
美禰子にとって、四つ這いになって畳を拭く男の姿は新鮮だった。
法学士の兄や、兄の友人で結婚を前提にお付き合いをしている研究者の野々宮さんや、一高の教師の広田先生は、そういうことをしない男たちである。
★
1階から2階の部屋の掃除を終えて一息入れ、二人は2階の窓から雲を眺める。
「三四郎は、…… あの白い雲はみんな雪の粉で、下から見てあのくらいに動く以上は、颶風(グフウ)以上の速度でなくてはならないと、この間野々宮さんから聞いたとおりを教えた。美禰子は
『あらそう』と言いながら三四郎を見たが、
『雪じゃつまらないわね』と否定を許さぬような調子であった。
『なぜです』
『なぜでも、雲は雲でなくっちゃいけないわ。こうして遠くから眺めている甲斐がないじゃありませんか』
『そうですか』(以下略)」
ここは、美禰子は気が強いな、などと思いながら読みとばしてしまうところだ。
漱石は明確には書いていないが、注意深く読んでいくと、野々宮さんと美禰子が長いお付き合いをしてきたことが仄めかされている。美禰子は、野々宮さんが将来を嘱望される研究者であることもよく知っている。また、野々宮さんが自分に好意をもっていることも知っている。雲が雪であるという話は、デートの時に野々宮さんから聞いた話だ。美禰子には三四郎の話の出どころはすぐに分かった。
野々宮さんはたまに二人で逢ったとき、いつもこういう話をする。まるで理科の先生と生徒みたいに。初めは偉い人だと思って聞いていたが、二人のお付き合いは既に長い。あいまいなまま、まともに向き合おうとしない野々宮さんに、美禰子は愛想をつかしかけているのだ。
「『雪じゃつまらないわね』と否定を許さぬような調子であった」というのは、美禰子の野々宮さんに対する否定的な気持ちの表れである。
そういう風に読み込んでいくと、美禰子の心も、彼女の事情も、少しは理解できてくる。
★
やがて、二人を動員した与次郎が荷車に荷物を積んで現れ、さらに広田先生もやってきて、たくさんの書物の整理をする。
ほぼ全ての作業が終わった頃、野々宮さんもやって来た。
野々宮さんにとって広田先生は一高時代以来の恩師である。
一段落したあと、美禰子は持ってきた大きなバスケット(籃)からサンドウィッチを出して、小皿に分け、皆にふるまう。
以下は、三四郎の学友の与次郎と美禰子とのやりとりである。
「『よく忘れずに持ってきましたね』
『だって、わざわざご注文ですもの』
『その籃も買ってきたんですか』
『いいえ』
『家にあったんですか』
『ええ』
『大変大きなものですね。車夫でも連れてきたんですか。(略)』
『(略) 女だってこのぐらいなものは持てますわ』
『あなただから持つんです。ほかのお嬢さんなら、まあやめますね』
『そうでしょうか。それなら私もやめればよかった』
美禰子は食物を小皿へ取りながら、与次郎と応対している。言葉に少しも淀みがない。しかも、ゆっくり落ち着いている。ほとんど与次郎の顔をみないくらいである。三四郎は敬服した」。
前回引用した部分に、「女の言葉は明確(ハッキリ)している。普通のように後を濁さない」とあった。
「女だってこのぐらいなものは持てますわ」「あなただから持つんです。ほかのお嬢さんなら、まあ、やめますね」。
「三四郎は敬服した」
初めて『三四郎』を読んだ19歳のとき、こういう箇所も読みとばしていた。
美禰子は、男たちと会話するときも、自然で、軽やかで、しかも的を射た受け答えをする。言い換えれば、女らしく、慎み深く、控えめな、もの言いはしない。
大きな籃(バスケット)も、当たり前のように一人で持って来る。(この時代、それなりの家の女性は、外出に当たって、自分で物を運ぶようなことはしなかった)。
漱石は、そういう女性として美禰子を描いている。こういう美禰子の言葉やふるまいに沿って考えると、「優美な演技家」とか「男を擒にする女」という評価は、少し不自然ではないだろうか。
★
「『どれ僕も失礼しましょうか』と野々宮さんが腰を上げる。
『あらもうお帰り。随分ね』」と美禰子が言う。
「随分ね」は、一番最後に来て、最初に帰ることへの軽い非難。ただし、年上の男性に対して、よほど親しくなければ、こういう言葉は出ない。
「野々宮さんが庭から出て行った。その影が折り戸の外へ隠れると、美禰子は急に思い出したように『そうそう』と言いながら、庭先に脱いであった下駄を履いて、野々宮の後を追いかけた。表で何か話している。
三四郎は黙って座っていた」。
美禰子は、野々宮さんが将来を嘱望された若手研究者であることを知っている。それに、彼は落ち着いた穏やかな性格である。
だが、彼の頭の中を占めているのは研究のことで、日常的な人間関係に煩わされたくない。本当は今日も来たくなかったのだ。美禰子との関係も、煮え切らないままずっと先延ばししてきた。
三四郎は二人の関係を知らないまま、気にしている。野々宮さんと美禰子が結婚を前提としてお付き合いをしているのなら、自分が出る幕はないのである。
(シャガール美術館─ニース)
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<団子坂から野の道へ ━ 迷える羊(ストレイ・シープ)>
次は、団子坂の菊人形展に行く場面である。(団子坂及びこのとき三四郎と美禰子が歩いたコースのことは、当ブログ「本郷① 薮下の道」で取り上げた)。
美禰子からお誘いがあって、三四郎は菊人形展に同行することになる。メンバーは、広田先生、野々宮さん、その妹のよし子、美禰子、そして三四郎の5人である。
団子坂の会場のあたりは、泣き叫ぶ迷子もいて、大混雑だった。
会場の中で菊人形を見ていたとき、三四郎は少し離れた所にいる美禰子の様子がおかしいことに気づく。気分が悪いらしい。
美禰子は首をめぐらせて、野々宮のいる方を見た。
こういうとき、美禰子が頼るとしたら野々宮さんであろう。だが、野々宮さんは少し離れた向こうで、広田先生と菊の培養法について談義している。いつものとおりだ。
美禰子はそういう野々宮さんを見限って、一人で出口の方へ向かう。
彼女は気丈である。しかし、そればかりでない。思うに、おそらくこの瞬間、美禰子はずっと迷っていたことを、ふり切ったのだ。
三四郎は、三人を残して、群集を押し分けながら美禰子の後を追った。
追いついたとき、美禰子は青竹の手欄に手を付いていた。
「どうかしましたか」。三四郎を見た美禰子の物憂い眼に、三四郎は体調のことだけではない何かを感じる。だが、三四郎には、美禰子の心も、事情も、知る由がない。
美禰子は「もう出ましょう」と言って、一人で出口の方へ歩いて行く。三四郎はついていった。
表に出ると、周囲はまるで人が渦をまいているような状態だった。
半町(注 : 5、60m)ほど歩いたとき、美禰子は人ごみの中でやっと、「私、心持ちが悪くって…」と言った。「どこか静かな所はないでしょうか」。
この辺りは本郷の一角だから、三四郎はよく散策している。「もう1町ばかり歩けますか」と聞くと、「歩きます」と言う。
二人は石橋を渡って、賑やかな団子坂の通りから、左へ折れた。
そして、しばらく路地のような所を歩いて行く。すると広い野に出た。(略)
「ありがとう。大分好くなりました」。「もう少し歩けますか」。(略)
漱石が、美禰子をどういう女性として描いているか、次の表現に注目したい。
「1丁ばかり来た。また橋がある。1尺に足らない古板を造作なく渡した上を、三四郎は大股に歩いた。女もつづいて通った。待ち合わせた三四郎の眼には、女の足が常の大地を踏むと同じように軽く見えた。この女は素直な足を真っ直ぐに前へ運ぶ。わざと女らしく甘えた歩き方をしない。従って、むやみにこちらから手を貸すわけにいかない」。
美禰子を「無意識かつ優美な天性の演技家」とすることに首をかしげたくなるのは、こういう叙述があるからである。
現代の心理学者は、人は誰でもそれぞれに、それぞれの役割を「演じて」生きていると言う。家庭ではそれぞれに父親を、会社ではそれぞれにもの分かりのいい係長やベテランの課長を、また、久しぶりの同窓会ではそれぞれに在りし日の高校時代の友を。
そういう意味でなら、美禰子も美禰子らしさを演じて生きている。
『三四郎』の時代より前の時代(前近代)から現代に到るまで、多くの場面で男はそれぞれに男らしさを演じてきたし、女はそのときどきに「女らしく甘えた」しぐさやふるまいをして見せた。
だが、美禰子は「素直」で「真っ直ぐ」であると漱石は言う。わざと「女らしさ」を演じないのだ。
この一点において、美禰子はすがすがしい。
★
続きである。
二人の向こうに藁屋根が見える。屋根の下に赤い唐辛子が干してある。それを見て、美禰子は「美しいこと」と言い、小川の縁の草に座った。着物が汚れるからもう少し先へと三四郎が言うが、美禰子は意に介さない。結局、三四郎も腰を下ろした。
川上で百姓が大根を洗っている。小川の向こうは広い畑で、畑の先は森、その上は空である。遠くで、菊人形の客を呼ぶ声が、折々、聞こえてくる。
しばらく、とりとめもなく話した後、三四郎は言う。
「『広田先生や野々宮さんはさぞ後で僕らを探したでしょう』。
美禰子はむしろ冷ややかである。『なに大丈夫よ。大きな迷子ですもの』
『迷子だから探したでしょう』と三四郎はやはり前説を主張した。
すると美禰子は、なお冷ややかな調子で、『責任を逃れたがる人だから、丁度好いでしょう』
『誰が?? 広田先生がですか』。美禰子は答えなかった。『野々宮さんがですか』。美禰子はやっぱり答えなかった」。
三四郎は、野々宮さんと美禰子との関係が気になっているが、よくわからないでいる。
「責任を逃れたがる人だから、丁度好いでしょう」という言葉は、結婚を前提にお付き合いをしてきて、いつまでも煮え切らないままの野々宮さんに対する美禰子の怒りである。
「もう気分はよくなりましたか。よくなったら、そろそろ帰りましょうか」と言う三四郎に対して、美禰子は立ち上がろうとしない。美禰子は強情である。
…… そして、「迷子」と言う。
「女は三四郎を見たままでこの一言を繰り返した」。
美禰子は、菊人形展を見に来た一行からの迷子であるだけでなく、自分は今、人生の迷子なのだと思う。方向を見失っているのだ。
「三四郎は答えなかった。
『迷子の英訳を知っていらしって』。
三四郎は知るとも、知らぬとも言い得ぬほどに、この問いを予期していなかった。
『教えてあげましょうか』
『ええ』
『ストレイ・シープ(迷える子) ── わかって??』。 (略)
ストレイ・シープ(迷える子)という言葉はわかったようでもある。また、わからないようでもある。わかる、わからないは、言葉の意味よりも、むしろこの言葉を使った女の意味である。三四郎はいたずらに女の顔を眺めて黙っていた。すると女は急に真面目になった。
『私そんなに生意気に見えますか』。
その調子には弁解の心持がある。三四郎は意外の感に打たれた。 (略)
女は卒然として、『じゃ、もう帰りましょう』と言った。嫌味のある言い方ではなかった。ただ三四郎にとって自分は興味のないものと諦めるような静かな口調であった」。
(イン・クラッセ聖堂のモザイク画/ラベンナ)
のちに、美禰子がキリスト教の教会に通っていることがわかる。「迷える羊」は、新約聖書のマタイ伝18-13~に出てくるイエスの言葉である。
「ある人が羊を100匹もっていて、その1匹が迷い出たとすれば、99匹を山に残しておいて、迷い出た1匹を捜しに行かないだろうか」。「もし、それを見つけたら、迷わずにいた99匹より、その1匹のことを喜ぶだろう」。
イエスは、神の前で人はみな迷える羊であると説いているのである。
美禰子を「優美な天性の演技家」と考える人は、このシーンを、思わせぶりなことを言って、初心な三四郎を擒(トリコ)にしようとすると理解する。… 迷える羊の私を捜しに来てほしい …。
だが、到る所に仄めかされている美禰子の状況を読みとっていけば、そのようには思えない。
実際、美禰子は人生の岐路に立たされているのだ。長年、お付き合いしてきた野々宮さんとの関係・結婚のこと。
さらに、そういうことの根底にある、一人の女性としてのありようのこと。それは、「私そんなに生意気に見えますか」という問いに表れている。
彼女は前近代の女ではない。今までの女性なら、自分の置かれた宿命に従って、家や親の意を受けて結婚し、夫に従い、伝統やしきたりに沿って生きただろう。そこには、「自分」はない。
だが、美禰子には「自分」がある。「我」に目覚めた近代人は、前近代のしがらみを脱して「自由」になる。だが、一方で、根っこを失った近代人は宙を浮遊する。迷子になるのだ。
美禰子は、自分の迷いを少しだけ三四郎に漏らしてみたかった。
彼女にとって、このときの三四郎は、異性の友達、或いは、姉と弟のような感じに近かったかもしれない。
★
その後、「すっかり直りました」という美禰子と、赤い唐辛子が干してあった家の脇の小道をたどって帰る。その途中のこと。
「足の前に泥濘(ヌカルミ)があった。4尺(1.2m)ばかりの所、土が凹んで水がぴたぴたに溜まっている。その真ん中に足がかりのために手頃な石を置いたものがある。三四郎は石のたすけをからずに、向こうへ跳んだ。そうして美禰子を振り返って見た。美禰子は右の足を泥濘の真ん中にある石の上へ乗せた。石の据わりがあまり善くない。足へ力を入れて、肩をゆすって調子を取っている。三四郎はこちら側から手を出した。
『おつかまりなさい』
『いえ、大丈夫』と女は笑っている。手を出している間は、調子を取るだけで渡らない。
三四郎は手を引っ込めた。すると美禰子は石の上にある右の足に、身体の重みを託して、左の足でひらりとこちら側へ渡った。あまりに下駄を汚すまいと念を入れすぎたため、力が余って、腰が浮いた。のめりそうに胸が前へ出る。その勢いで美禰子の両手が三四郎の両腕の上へ落ちた。
『ストレイ・シープ(迷える子)』と美禰子が口の内で言った。三四郎はその呼吸(イキ)を感ずることができた」。
漱石先生の描写表現は、生き生きと美しい。『三四郎』という作品の中で、この場面の美禰子を私はいちばん好きかもしれない。
だが、三四郎よ、誤解してはいけない。
★
<美禰子からの葉書 ━ 2匹の迷える羊>
その何日かあと、美禰子から三四郎の下宿に葉書が届く。
絵が描いてある。
緑の草の中に2匹の羊。表の宛名の下に差出人の名はなく、「迷える子」と書いてあった。
三四郎は、迷える子のなかには、美禰子のみではない、自分も入っていたのだと思い、「美禰子の使ったstray sheep(ストレイ・シープ)の意味がこれでようやく判然した」と考える。
(迷える2匹の羊)
美禰子は、三四郎という青年が人生のどこへ向いて歩いて行けばよいかわからないでいることを見抜いている。それは、あの出会いの場面、池のそばにしゃがんでいた三四郎を見た瞬間に感じとったのかもしれない。
そして、自分もまた、一人の女として、どう生きていったらよいのか迷っている。
広田先生や、野々宮さんは、自分の歩く道を決めて、既に相当に歩いている。彼らはもう迷わない。
でも、あなたも私も、迷える羊ね。
美禰子はそういう思いを表現したかったのだろうか。
そこには、同年齢の男への媚びも含まれているかもしれない。しかし、それは、普通、大なり小なりあることである。
しかし、それ以上に、この時、彼女は自分らしく生きることに精一杯だったのだと思う。長いお付き合いをしてきた果てに、思いをたち切るのはたやすいことではない。しかし、野々宮さんは自分が人生を共にする人ではないと、結論付けたのだ。
だが、当時の年頃の若い女性に多様な選択肢が用意されているわけではない。
(続く)
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