ひっそりした雨の参道を上り詰め、突当りを左折すると、池がある。
池には美しい太鼓橋が架かり、こんもりとした木々の新緑が雨に濡れて、目が覚めるようにみずみずしい。
伊勢神宮や熊野本宮大社には、晴朗にして清々しい、簡素の美がある。
熊野三山の一つ熊野速玉大社の朱の拝殿や下賀茂神社などには、王朝の時代を思わせる雅やかな美がある。
この太宰府天満宮も、境内の鬱蒼とした樹木がみずみずしく、朱の太鼓橋が映え、その向こうには菖蒲池が広がって、実に雅やかである。
太鼓橋を渡ると、石の鳥居があり、その先に立派な楼門が見えた。
( 楼門と手水舎 )
楼門をくぐると、拝殿の右手には、伝説どおりに、見事な「飛梅」の梅の木が葉を繁らせている。
拝殿で、2礼、2拍、1礼する。
( 拝殿と飛梅 )
先ほどは参道を上り、太鼓橋の方へ左折したが、参道の突当りには延寿王院がある。
幕末、都落ちした三条実美らが3年半あまり滞在した所で、薩摩の西郷隆盛、長州の伊藤博文、土佐の坂本龍馬、中岡慎太郎なども立ち寄り、維新の策源地となった寺だそうだ。
( 延寿王院 )
参道に戻る。今日は雨のせいか、参道はひっそりしていた。
ひっそりと降る雨をよけて茶店に坐り、名物の「梅が枝餅」を食べた。名物に旨いものなしというが、そんなことはない。番茶も、こんがり焼けた粒あん餅も、なかなか美味であった。
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< 余談ながら … 政治家としての菅原道真の実像 >
菅原道真については、中央で権力をふるう藤原氏に対抗するため、宇多天皇によって抜擢され、疲弊した地方行政を立て直そうとしたが、左大臣・藤原時平の策謀にあって無実の罪で太宰府に流され、当地で憤死した、とされる。
だが、現代の歴史学者の本を読むと、このような道真像は、少々判官びいきに過ぎるようだ。(以下、北山茂夫『日本の歴史4 平安京』を参考にした)。
道真は儒学者の家に生まれ、早熟な秀才で、若くして文章博士になった。名門・顕官の依頼を受け、多くの願文書や上表書を代作して重宝される。
40代のはじめに讃岐の受領になっているが、その任期中は、もっぱら詩賦づくりに心を傾け、受領としては、何ほどの建設的なこともしていない。そればかりか、儒教的文人・中国的大人によくあるタイプで、草深い地方にいることに憂苦の思いを抱いていたようだ。そのような漢詩がおおく残されている。
そのような彼が、やがて風流人の宇多天皇に抜擢され、右大臣まで登りつめたのである。だが、彼が才能を発揮したのは朝廷の歴史書の編纂作業くらいだった。
政治改革については、観念的にはともかく、実際的関心や具体的ビジョンは持ち合わせていなかった。帝の寵臣で、二人でひそひそ話しているのは、藤原氏の悪口ばかり。帝のぼやきを聞き、帝の主催する雅やかな宴席に連なるのが、彼にとっての「政治」だった。よくあるタイプだ。
ついに、藤原時平の用意周到な政変により、罪を着せられて太宰府へ流される。
若き藤原時平は一流の教養人でもあったが、その関心は実際の政治にあり、疲弊する地方を立て直そうと立ち向かったのは時平の方であった。
平安末期に書かれた歴史物語の「大鏡」に次のような逸話が紹介されている。
道真の亡霊が雷神と化して荒れ狂い、清涼殿に落下する気配であったとき、帝をはじめ廷臣たちはなすすべもなく震え上がった。だが、この時、左大臣の時平は、さっと太刀を抜き、暗い虚空をにらみつけ、大音声を発して道真を叱責し、ついにこれを退参させた。
夜は漆黒の闇であったこの時代にも、「大鏡」の作者や、当の時平のように、まっすぐに現実世界を見る人もいたのである。((3)に続く)
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