ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

ボスニア・ヘルツェゴビナの悲しみ……アドリア海紀行(9)

2016年01月23日 | 西欧旅行…アドリア海紀行

   ( 共生と和解を象徴する橋 )

11月30日 

 昨夜はこの旅の最後の夜。「晩餐」のためにホテルのレストランに集まった一行の皆さん、そろって小奇麗な服に着替えておられ、自分一人が、相変わらずの薄汚れたシャツにダウンのチョッキ。少々気恥ずかしい思いをする。偶然なのか?? それとも、日本人ツアーの新しいマナーなのだろうか?? …… あのまま街に残って、街角の和食レストランで、行き交う人々を眺めながら、気ままにワインを傾けるべきだった…。                              

 それでも、まあ、こうしてツアーに入ると、一応、行く先々の土地の料理が出され、何より味が日本人向けにアレンジされていて、量も少なめで、日々、かなり完食できた。

 そのせいもあってか、旅を通じて元気だった。一番良く歩いたのはプリトビチェ湖国立公園のハイキングで、約15000歩。しかし、参加者の年齢が高く、ゆっくりゆっくりしたペースだったから、腰痛も翌日に持ち越さなかった

 ただ、こういうツアーの唯一・最大の欠点は、几帳の奥の姫君を、几帳の隙間からちらっと垣間見るような感じで、次々と連れまわされる旅であるということだ。姫君にお目通りしたことがあるとか、姫君を存じ上げている、と言うには、多少とも、姫君と顔を合わせ、言葉を交わしたことがある …… という程度の、主体的な何か……「経験」が必要であるように思う。 … それは、「体験」を取り入れたツアーなどということではなく…… 「経験」とは、一人一人の心の中に起き、対象との心の対話によって成立し、大なり小なり個人を変えるものである。

         ★

つ目の国へ国境を越える >

 今日は国境を越える。

 ドゥブロブニクを出発して、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国のモスタルへ約140キロ、3時間。モスタルで昼食と簡単な観光の後、首都サラエボまでも約140キロ、2時間30分。サラエボの街を簡単に観光して、夜、サラエボ空港から、イスタンブール行きに搭乗。深夜、イスタンブールで、関空行きに乗り継ぐ。

         ★

 いつもより30分ほど早く、7時半にホテルを出発した。

 いいお天気だ。旅行の間ずっと、お天気に恵まれた。気温も、旅の期間を通じて想定していたより10℃ほど高く、大阪の秋と変わらなかった。

 バスは、しばらく、一昨日来た道を、アドリア海に沿って北上する。

 秋の朝、太陽の位置はまだ低く、空気が澄み、光は斜光となって陰影をつくる。青空を映す紺碧の入江。深い入江をつくる延びた半島。そして、小さな島々…。

      ( 車窓風景 : アドリア海の美しい入江 )

 やがて、ボスニア・ヘルツェゴビナ領がアドリア海に達している箇所 (ネウム)まで来て、スーパーマーケットでトイレ休憩。

 バスは、その先、クロアチア領のプロチェで道を右折した。アドリア海と別れ、内陸部へ向かう。

 これでアドリア海ともお別れである

  ( 車窓風景 : さらば!! アドリア海 )

 野や畑や山あいの道となる。

   ( 丘の上の墓地のある教会 )

 やがて、道路が山間部に入って、ボスニア・ヘルツェゴビナとの国境の検問所に着いた。

 多少の緊張を覚える。

 我々の前に観光バスが1台停められていて、降りて様子を聞きに行った運転手と添乗員が言うには、随分時間がかかっているらしい。しかし、そのバスがスタートすると、我々のパスポートを一括して検問所に持って行った運転手と添乗員は、すぐに検査を終えニコニコして帰ってきた

 3つ目の国の国境を越えた。

 …… バスの車窓から見るボスニア・ヘルツェゴビナの山村風景、農村風景は、心なしか、スロヴェニアやクロアチアよりも貧しいように思う。

 山は、灌木がまばらに生えただけで、麓の村にはモスク (イスラム教の寺院) の塔が、まるで発射台のロケットのように見える。

    ( 車窓風景 : 山並み )

 道路の横をずっと川が流れている。あるときは村の中を。あるときは原野を。そしてあるときは山峡を、川が流れ、バスは川に沿いながら走る。

 そう言えば、アドリア海岸から国境までも、バスはおおむね川沿いを走っていた。同じ川が、ボスニア・ヘルツェゴビナ領に入っても、ずっと続いているのだろうか??

 地図を見ると、ネレトヴァ川。ボスニア・ヘルツェゴビナを代表する河川の一つで、アドリア海へ注ぐ。これから行くモスタルの町を流れる川も、この川だ。

 

     ( 車窓風景 : ネレトヴァ川 )

                       ★

< ボスニア・ヘルツェゴビナの悲哀 >

 外務省のホームページ等を参照にし記述すれば、ボスニア・ヘルツェゴビナの歴史はおおよそ次のようである。

 古代ローマ時代は端折る。

 14世紀、南スラブ民族の一派が、ハンガリー王国から独立する形でボスニア王国をつくった。

 1463年、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)を滅亡させたオスマン帝国が、ボスニアを征服。以後、1878年にオーストリア・ハンガリー帝国の支配下に入るまで、400年以上もこの地はオスマン帝国領であった。

 なお、ボスニアには、カソリックから異端とされ、激しい迫害に遭ってきた人たちがいた。オスマン帝国が侵略してきたとき、この人たちは、キリスト教徒になるよりもイスラム教に改宗した方がマシだと考えて、ムスリム(イスラム教徒)になった。今、ボシュニャックと呼ばれる人たちである。

 第一次世界大戦後、敗戦国となったオーストリア・ハンガリー帝国から独立して、セルビア人、クロアチア人、スロベニア人によるスラブ民族の王国ができた。この国は、その後、第二次世界大戦を経て、ユーゴスラビア社会主義連邦になる。ただ、この間、スラブ民族による統合とは言え、セルビア人の支配が強いことに対する不満が、他の民族のなかに、常時、底流としてあった。

 1991年にスロベニア、クロアチアが独立宣言をしたのに続いて、ボスニア・ヘルツェゴビナにおいても独立を求める声が多数となり、92年、内戦に突入した。

 スロベニアは、ほとんどの住民がカソリック系のスロベニア人だったから、あっさり独立してしまった。

 クロアチアでは、多数のクロアチア人に対して少数 (人口の25%) のセルビア人(正教系)が抵抗し、そのセルビア人をユーゴスラビア軍(セルビア軍)が助けたため内戦は激化、双方に虐殺や暴力事件が起こった ( 当ブログ「アドリア海紀行 4」参照 )。

 ボスニア・ヘルツェゴビナにおいては、事態はさらに複雑で、深刻であった。

 内戦勃発時における、ボスニア・ヘルツェゴビナの人口は430万人。その民族構成は、ボシュニャック (イスラム教徒) 系44%、セルビア系33%、クロアチア系17%であった。3つの民族のうち、独立を目指したのはボシュニャックとクロアチア系で、独立を阻止しようとしたのはセルビア系住民とこれを応援するユーゴスラビア軍(セルビア軍)であった。

 内戦は3年半に渡り、3つの民族が全土で覇権を争って戦闘を繰り広げた。その結果、死者数20万人、難民200万人という、大戦後の欧州で最悪の悲惨となった。

 1995年に和平合意成立。

 その内容は、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国は、ボシュニャックとクロアチア系住民が中心の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」とセルビア系住民が中心の「スルプスカ共和国」という二つの主体から構成される一つの国家である、というものであった。

 今も、例えば、元首について言えば、3つの民族から選出された3名による大統領評議会メンバーが、8か月ごとの交代制で議長を務めることになっている。

        ★

< 「スレブレニツァの女たち」 > 

 昨年(2015年)、BSで、「スレブレニツァの女たち…虐殺の町・遺族の20年…」というレポートが放映された。

 ボスニア・ヘルツェゴビナの東部にある小さな町・スレブレニツァは、キリスト教の教会 (正教)とモスクが仲よく並んで建つ平和な町であった。住民の7割はボシュニャック (イスラム教徒)、3割が正教徒で、互いに同じ職場に勤めて仲よく働き、家族的な交流もあった。

 そこへ内戦が勃発。国の東部はセルビア系が支配したから、ムスリムの多いスレブレニツァは孤立した。国連平和維持軍が町に入って守っていたが、セルビア軍はかまわず侵攻し、国連軍は町を明け渡して、撤退した。

 侵攻してきたセルビア軍は、女性と子供を支配地域から追い出し、男性は皆殺しにした。虐殺された人数は、8千人と言われる。

  今、町に共同墓地がある。墓地には6千の墓標が並ぶ。 

 しかし、今も、女たちは月に1回、写真を掲げてデモをする。内戦が終結してすでに20年、まだ発見されていない私の夫や息子の遺骨を早く見つけてほしいと、当局に訴えるデモだ。

 ある高齢の女性は言う。「夫の遺骨は10年前に見つかり、墓地に埋葬できたが、夫の横に埋めてやりたい息子の遺骨は未だに発見されない。私の今の人生は、そのためだけにある。もう20年も待ち続けている。20年よ!!」。「息子は25歳だった。私たちが避難先へ向かうとき、男は全員殺されるという情報が入って、落ち合う場所を決め、息子とはここで別れた。息子は何度も振り返りながら、森の中へ消えた。彼は優しい子で、少年時代から詩を書いていた。内戦には参加していないし、武器も手にしていない。森の中で殺されたという情報があるが、未だに遺骨は発見されていない」。

 発見しにくいのは、虐殺を隠すため、セルビア軍が無数の地雷を敷設したからだ。遺骨を探すということは、地雷を一つ一つ除去していく、という作業なのだ。まさに、1センチずつしか進めない。遺骨を発見できても、DNA鑑定のために、長い年月がかかる。

 「当局」の中にはセルビア人もいる。彼は言う。「セルビア人も、この町で3千人が殺された。まだ、遺骨が発見されていない遺族もいる。なぜあなた方の息子だけが『虐殺された』被害者として世界から同情され、優先されるのか!!」。

 こうして、人口1万人のこの小さな町で、今も2つの民族は憎しみを克服できず、対立し、住み分けて暮らしている。小学校の授業も、歴史の時間だけは分かれて行う。

                          ★

< EUの亀裂、ロシアの思惑、アメリカの力の低下 >

 ボスニア・ヘルツェゴビナのNATO、EUへの参加は、まだ認められていない。多民族の共生を謳うヨーロッパ共同体への参加は、ボスニア・ヘルツェゴビナの宿願とされている。しかし、昨年 (2015年) の暮れに放送された「NHKスペシャル・シリーズ  激動の世界」の第2回「大国復活の野望…プーチンの賭け」を見ると、その行方は、必ずしも明るいとは言えない。

 まず、EU自身、「ヨーロッパ共同体」という理念に、亀裂を生じている。

 EUの中で、貧富の差が広がっている。金持ちの国 (ドイツ) は一人勝ちし、いくつかの国 (イタリア、スペイン、ギリシャなど) の財政基盤は脆弱となっている。最貧国・ギリシャに対する持てる国ドイツ・メルケルの措置は非情で、もはや「共同体」とは言えない。

 難民受け入れ問題でも、ヨーロッパの世論は真っ二つである。「右翼政党」が政権を握ったハンガリーは、難民受け入れ拒否の柵を国境に張り巡らした。フランスでも受け入れ反対とEU離脱を訴える「右翼政党」が選挙で大勝した。ドイツでも、メルケルの難民受け入れ大風呂敷に、各地で反対の声が上がっている。一番多く難民が流入してきているのは、ギリシャである。国民も飢え、難民も飢えている。

 (ドイツの地域住民の、「静かな地域共同体が壊される」「増大する難民を全部受け入れるなんて無理な話だ」、という当然の不安に対して、頭から「それはナチズムだ」「極右」と決めつける人権派の住民の感情的な非難にも、疑問を覚える。戦前、戦中に、「お前はアカだ」という非難の仕方をした人たちと同じである。黒か白かの二元論しかない世界は怖い。世の中の多くのことは、日本の梅雨の時期の木々の緑のように、同じ緑と言っても微妙な色調と濃淡にけむり、多元的であるはずだ)。

 当然のことながら、ロシアは、自国の国境線までNATO、EUに迫られることを良しとしていない。 EUかロシアかというウクライナ内部を二分した対立は、NATO、EUとロシアとの間のウクライナ争奪戦に発展した。ロシアは決してクリミア半島や東ウクライナから手を引かないだろう。

 バルカン半島の旧ユーゴスラビア地域には、まだNATO、EUに加盟していない国がある。その一つがボスニア・ヘルツェゴビナ共和国である。

 そこには、不満を募らせる少数派のセルビア人がいる。セルビアは、伝統的にロシアに親近感をもつ。「ロシアと連帯し、セルビア人の独立した国家を!!」━━━ こういう政治的動きが、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国内のセルビア人住民の間に広がりつつあり、その後ろにプーチンの影がある、というのである。

 以上は、公平中立を旨とするNHKが取材・報道した内容の紹介である。ただし、(    )の中は、報道内容に私的意見を入れた。

 冷戦が終結したころの一時代は終わった。あのころ(ベルリンの壁が壊れたとき)、東欧諸国のどの国も、EUに入ることに未来の夢をつないだ。ヨーロッパという、民族を超えた「共同体」に参加したいと思ったのだ。

 しかし、今、そのEUにも、亀裂が生じてきている。

 一方、中国も、ロシアも、国民のナショナリズムに火を点けて、勢力圏を拡げようとしている。

 アメリカにおいても、大統領候補者たちのスピーチは、一様に排外主義的で、国民のナショナリズムを煽り、大衆迎合に走っている。

 アメリカの力が弱まって行くにつれて、世界は互いにエゴとエゴをぶつけ合い、混迷の度を深めていく。

 我々日本人も、もう一度、全員で世界の情勢をよく見て、その上で、さて、日本をどうするか、考えた方がよい。

         ★

 < 世界遺産のスタリ・モストと旧市街を見学する >

 サッカー日本代表監督ヴァヒド・ハリルホジッチは、モスタルで高校生活を送り、才能を認められて、18歳でモスタルのプロチームに入り、プロサッカー選手としてのスタートをきった。

 選手生活を引退した後、モスタルに帰って、古巣のチームの監督もしたが、そのとき内戦が勃発。自身、銃撃戦に巻き込まれ、重傷を負い、全ての資産を失ってフランスに亡命した。今はフランス国籍である。

 バスがモスタルの町に入り、バスを降りた所は、何の変哲もない地方都市だった。

 が、しばらく歩くと、突然、異文化の世界が出現した。イスラム圏のバザールのように、道の両脇に、スカーフ、カバン、金属細工の様々な装身具類、陶磁器などを売る小さなショップが並び、飲食店もあり、その向こうにイスラム教のドームやミナレットが見えた。

              ( モスタルのバザール )

 やがて、スタリ・モストと呼ばれる石橋があり、橋の先にも、しばらくショッピングエリアは続く。

 スタリ・モストとは、「古い橋」という意味らしい。

          ( ネレトヴァ川とモスタリ・モスト )

 橋の幅は4m、全長30m、川面からの高さは24m。橋を守るために、要塞化された塔(モスタリ)が両側に配置されている。モスタリとは「橋の護衛者」という意味で、モスタルという町の名は、ここに由来するそうだ。

 オスマンの旅行者は、「橋は一方の崖から他の崖へと延び、空まで舞い上がる虹のようだ」と書いた。

   ( スタリ・モストから川下の橋を見る )

 ボスニア・ヘルツェゴビナの「ヘルツェゴビナ」とは、ボスニア地方の南隣にあるヘルツェゴビナ地方のことだが、その語源は、「公爵」(ヘルツェグ)らしい。つまり、ヘルツェゴビナとは、「公爵領」というほどの意味合いをもつ。

 1440年代に、スチェパン・ヴクチッチという公爵の爵位をもつヘルツェゴビナの領主が、ここに木製の橋と2つの塔を築いた。

 しかし、1468年、この地は、侵攻してきたオスマン帝国の支配下に入る。

 ごくごく小さな村だったモスタルは、オスマン帝国の下で、アドリア海への交易ルートの中継地として発展していく。

 1566年には、スタリ・モストは、ネレトゥヴァ川を渡る重要な橋として、石橋に架け替えられた。命じたのは、オスマン帝国の英雄・スレイマン1世である。当時において、最も高い技術による建造物だった。

 橋の両側には「旧市街」が発展し、人口は1万人に及び、ヘルツェゴビナ地方の行政の中心地となっていった。

 1992年からの内戦のとき、ユーゴスラビア軍はこの町のモスクやカソリック系の教会を破壊した。そのあと、町に入ったクロアチア軍は正教会の建物を破壊した。93年、クロアチアの民族主義的民兵によって、スタリ・モストとその周辺の旧市街は破壊された。

 司令官は、今、虐殺の罪も含めて国際法廷で裁かれ、服役している。

 紛争終結後、スタリ・モストと旧市街の復興が進められた。橋はユネスコの支援を受けたトルコの企業により、当時のままの技法で再建され、2004年に完成した。

 2005年、スタリ・モストとその周辺は、ユネスコの世界遺産に認定される。認定に当たっては、再建を経ることによって、多民族・多文化の共生と和解の象徴になった、という側面も評価された。

  (次回、サラエヴォへ続く)

 

 

 

 

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« アドリア海の真珠と称えられ... | トップ | サラエヴォに思う……アドリア... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

西欧旅行…アドリア海紀行」カテゴリの最新記事