(青鬼神社の参道の石段)
<白馬村の中を散策しよう>
若いころ、大雪渓から白馬岳(2932m)へ登って、ふつうは南へ白馬三山を縦走するところを、北へ向かい、雪倉岳(2610m)、朝日岳(2418m)を縦走。朝日岳から人里に下って、ローカルバスで日本海へ出たことがある。そこは「親知らず子知らず」の海岸で、白馬岳から続く後立山連峰が日本海へなだれ落ちた荒々しい海岸だった。遠い昔のことだが心に残る山行で、連れて行ってくれた一行に感謝している。
また、ある日は、一人で白馬村のゴンドラリフト、アルペンクワッドリフトを乗り継いで、そこからは八方尾根を登り、唐松岳(2696m)に立って、そのまま同じコースを駆け下り、麓の民宿へ帰ったこともある。あの頃は健脚だった。
大糸線沿線の仁科三湖にボートを浮かべたことや、穂高の村に穂高神社や碌山美術館を訪ねたこともあった。
(そば畑と仁科三湖)
中年になると山を登るのはしんどくなり、冬から早春にかけて栂池高原スキー場や八方尾根スキー場でスキーを楽しんだ。スキーの楽しさを教えてくれた若い友人たちにも感謝している。だが、私はスキーそのものよりも、天気の良い日に目の前に聳え立つ北アルプスのパロラマや、シラカバ、カラマツなどがすっぽり雪をかぶった高原の林を見るのが好きだった。林の中の雪の上にウサギの足跡が点々と続いていた。
今は暑さを逃れてこの村にやってきた。年月は茫々と積み重なって、もうあの頃のような体力はない。
それでも、ホテルの中に閉じこもっているより、せめては白馬の村の中を歩いてみようと思う。思えば今まで白馬村の中を散策したことはなかった。
それで調べてみた。夏にこの村を訪れる観光客のほとんどは、ゴンドラリフトに乗って北アルプスの眺望を楽しむか、白馬岳の大雪渓を登山する人たちだ。そのほかに村内に、多くの観光客を引き寄せるような観光資源はどうやらない。
あれこれ調べて、第二日目は青鬼(アオニ)集落へ行ってみることにした。第三日目は木流し川の散策。この二つをメインと決めた。そして、四日目はまた大和国へ帰る旅だ。
ただ、白馬村は広くて、徒歩だけで回るのは難しい。レンタサイクルも考えたが、もともと白馬連峰の麓の村である。どこへ行くにも、坂道の上り下りがあるだろう。それで、二日目の半日はレンタカーを借りることにした。
レンタカーの店は、白馬駅の前の国道沿いにあった。
(昔の素朴さはないが、綺麗な白馬駅)
★
<青鬼(アオニ)の里はどこ??>
青鬼(アオニ)集落は、平成12(2000)年、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。さらに翌年には、集落の棚田が日本棚田百選に選ばれた。
ホテルのフロントでもらった観光地図を眺めて研究した。
青鬼(アオニ)の里は、白馬村の中の北東部に位置している。白馬岳連峰から下ってきた地形が、姫川の清流を越えて、再び東へと隆起していく途中に、ぽつんとある小さな山里だ。
わがホテルは、白馬連峰の東側の山麓の、一番麓に近い所に建っている。もう少し下れば白馬駅だ。白馬駅から北へ1駅、向こうが信濃森上駅。そのあたりから、車なら国道を外れて東へ、大糸線の線路を越え、さらに姫川の橋を渡れば、道路は登りとなって、やがて青鬼の山里に至る。
(姫川)
青鬼からさらに東へ山の中の道を走れば、…… 現在は長野市に組み入れられている鬼無里(キナサ)の里があり、さらに東へ走れば善光寺や戸隠村に至る。
昔から、日本海側から信濃国へ塩を運んだ塩の道の千国街道があり、千国街道に接続して、青鬼、鬼無里を経て、善光寺や戸隠へ通じる参詣道が開かれていたそうだ。つまり孤立した集落ではない。
青鬼集落の標高は760m。ホテルから遠いし、標高も高く、車でなければ行くのは難しい。
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<青鬼(アオニ)の里に伝わる伝説>
※ 以下、青鬼集落に関する記述の多くは、白馬村のHPを参考にした。
青鬼集落に心ひかれたのは、何よりも「青鬼」というおとぎ話めいた村の名と、その由来となった伝説が面白かったから。
それはこんな話である …… 。
── 遠い、遠い、昔のこと。
あるとき、隣の村に鬼が出没するようになり、さまざまな悪事を働いて、村人たちは困ってしまった。それで村人たちは画策し、ついに鬼を捕らえて、近くにあった洞穴に閉じ込めたそうだ。
ところが、しばらくすると、鬼の姿が洞穴から忽然と消えてしまった。
…… しかも、何とその鬼が当村に現れたのだ。しかも、何とも不思議なことだが、その青鬼はあれやこれやと村の発展のために尽くしてくれたのである。
いつしか村人たちは、この鬼を「お善鬼様」と呼ぶようになった。
そして、いつの頃からか、鬼を追い出した隣の村は「鬼無里(キナサ)村 (現在の長野市鬼無里地区)」、鬼を閉じ込める洞窟があった村を「戸隠村 (長野市戸隠地区)」、そしてお善鬼様の没後も、お善鬼様を祀った当村を「青鬼(アオニ)村」と呼ぶようになったとか ── 。
── 鬼無里村と戸隠村には少々気の毒で、青鬼村にとっては都合の良い話だが、隣村も巻き込んだ何ともユーモラスな伝説である。
戸隠村の戸隠神社は私の好きな神社で、昔から修験者たちによって修験道が行われてきた。
今年の早春の頃にも訪ねた。奥社の鳥居の向こうに聳える戸隠山は鋸のような山塊で、いかにも鬼の洞窟がありそうな険しい山である。
(戸隠神社奥社の鳥居と戸隠山)
上記の伝説の後日譚もある。
── 青鬼集落の北に、岩戸山(1356m)がある。その山の頂近くに青鬼が住んでいたと伝えられる岩屋がある。今は青鬼神社の奥之院とされている。
いつの頃のことだったか、今ではもうわからぬが、この岩屋を調べようということになって、青鬼の男衆たちが、前日から善鬼堂(今の青鬼神社)にお籠り潔斎して、翌朝、山へ行ったそうだ。
登ってみると、洞窟の前は眺望が開けて良い眺めである。
洞窟の入り口はやや狭かった。だが、中へ入ると洞になっていた。広さは2間四方ぐらいもあり、床には小石や砂利が敷いてあって、なるほど昔、人が住んでいた気配もないではない。
その洞にはさらに横に通じる狭い裂け目があって、男衆のうちの小柄な人が入ってみた。そこにも、前の洞より狭い洞があった。そして、さらに狭い裂け目があって、もっと奥へ通じているのが見えた。しかし、さすがにそこまでは極めなかった。
青鬼の人たちは、この穴はきっと戸隠の裏山まで通じているに違いないと話したという ──。
★
<お善鬼様の里へ>
レンタカーに乗り、急ぐ旅ではないからのんびりと運転する。
松川に架かる橋を渡った。松川は白馬岳の大雪渓から流れてくる渓流である。
(松川)
国道を外れ、大糸線の線路を越えて姫川の橋を渡ると、道は大きくカーブしながら山へ登っていく。やがて、青鬼集落の公共のパーキングが目に入った。集落の中へ車を乗り入れてはいけない。
車を駐車させ、徒歩で青鬼集落の中へ入って行った。今日も暑い日だ。
入り口に、「お前鬼様の里 ─ 青鬼集落」の案内図があった。
(集落の案内図)
青鬼集落の構造がよくわかる。
国の重要伝統的建造物群に指定されている家屋群は、全て南向きに建ち、東西に2列に並んで、等しく日当たりが良い。
集落の脇を一筋の道が通り、道の先に棚田が広がっている。
また、集落のほぼ中央部北側から、山の中へ、長い石段が登っていて、その先に青鬼神社がある。
(お善鬼の館)
集落の家並みの中に「お善鬼の館」があった。空き家となった家を修理して、自由に中を見学できるようにしている。見学者用のトイレもある。
(青鬼集落の家並み)
今残る家屋は14戸。土蔵が7棟。家の周囲に塀や生け垣はなく、互いに開放的で、背後には石垣が築かれている。
江戸時代の後期から明治にかけて建てられた古民家で、屋根は藁ぶきだが、今は鉄板で覆って保護されている。家の大小の差はほとんどなく、何世代も住めそうなどっしりとした構えだ。
明治に入ると、屋根裏部屋で養蚕もやっていた。
集落の道を棚田の方へ歩いて行ってみる。暑さで体中から汗が流れた。9月の初め。他に見学者の姿はなく、わずかに畑で作業している人を見かけるだけ。
(棚田の石垣)
江戸時代の終わり頃に、石垣で囲った3キロに渡る用水路を開削した。また、集落の東方に石垣で築いた約200枚の棚田を作った。
かつてスイスのレマン湖の上の山腹に築かれたドウ畑を歩いたことがある。アルプスの山々に囲まれた眼下の湖のたたずまいが美しかった。ブドウ畑は石垣を積んで、山の斜面にへばりつくように築かれていた。その膨大な石垣を見たとき、今は豊かなブドウ畑だが、最初にこの斜面に石垣を積み重ねて畑を切り開いていったこの地の祖先たちの労苦を思わずにはいられなかった。
ここも同じである。棚田百選に選定される値打ちは十分にある。
集落の北側はお善鬼様が住んだという岩戸山(1356m)があり、東側は物見山(1433m)、八方山(1669m)によってさえぎられている。
(北アルプスの方向に開ける)
それで、南西の側だけが開いている。
眼下に姫川と白馬の市街地が見え、その向こうには3000m級のアルプスの山並みが連なっているが、今日は雲がかかっている。
田植えの頃には、棚田の田毎の水に緑が映り、その向こうに白雪をいただいた北アルプスが連なって、その季節を撮影した写真を見ると、実に雄大で美しい。
だが、以前はその頃になると、大きな三脚を担いだ写真愛好家たちが続々と車でやってきて、所かまわず踏み込み、三脚を立て、カメラの放列ができ、村人たちの顰蹙を買っていたようだ。マナーが悪いのは外国人旅行者ばかりではない。
★
<青鬼神社に参拝する>
あまりに暑いので、棚田の道を途中で引き返した。所々に立つ大樹の下陰を通ると、風が涼しい。
(参道の入り口)
南面して並ぶ集落の真ん中あたりまで引き返すと、人けのない日差しの中、北側の山の中へ石段がのぼり、手前には石灯籠が2基並んでいた。ここが青鬼神社の参道だ。
(白木の鳥居)
しばらく登ると白木の鳥居があり、石段はさらに山の中へ、上へ上へと登っている。
石段に栗の実が落ちている。
木陰なので、それほど暑くはない。ゆっくりゆっくりと登って行くと、やがて山の斜面の樹木の間に、ちょっとした境内らしき空間があった。
(本殿)
山村の、山の中の神社らしく、本殿の社は小さい。
祭神は言うまでもなくお善鬼様。生前、村に善行を施した青鬼様を、集落の北に聳える岩戸山に祀った。それがこの神社の創建の時。村の伝承によれば大同年間というから、西暦で言えば806年~809年。奈良時代である。
それは、いくら何でも古すぎる!! と、我々、京都や奈良など近畿圏に住む人間は言うかもしれないが、青鬼集落からは縄文時代の遺跡も発掘されている。1万年以上続いたとされる縄文時代の中心は東日本。西日本が華やいでくるのは弥生時代になってからで、奈良時代などというのは、日本の歴史ではごく新しい。
その後、岩戸山はあまりに奥深いから、そこは奥宮とし、現在の場所に神社をお移しした。それが安和2年(969年)で、冷泉天皇の御代だ。そこから円融、花山となり、次が一条天皇。「光る君へ」の時代である。
本殿の東側に諏訪社がある。信濃国の一の宮である諏訪大社から勧請したのであろう。
その一段下に、立派な神楽殿が建つ。
(神楽殿)
9月に祭礼が行われるそうだから、もうすぐだ。
祭礼では火もみの神事が行われる。縄文時代のように板と棒をこすりあわせて30分もかけて火をおこす。その火を神社に奉納し、また、各家々の神前や灯篭の火とする。最後は花火も上げるそうだ。お善鬼様は火を好まれるらしい。
もちろん春と秋にも祭りが行われる。
(本殿から参道を見る)
人けはなく、しんとして、木陰の参道はほの暗く、涼しかった。(続く)
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