< 中社の門前で蕎麦を食べる >
車で奥社から中社まで降りた。
中社の近辺は宿坊や茶屋があり、戸隠神社で一番賑やかな門前町である。
ここと、昨夜泊まった宝光社の町並みは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
昨夜の戸隠蕎麦が忘れられず、中社のすぐ下の蕎麦屋で昼食をとった。ここも宿坊が経営している店だ。美味しかった。
( 中社の蕎麦屋さん )
中社には知恵の神である思兼(オモイカネ)の命が祀られている。この神さまが知恵を出さなければ、この世は未だに闇のままだった。
( 知恵の神さまを祀る中社 )
境内には、樹齢800年の三本杉がある。800年前というと、鎌倉幕府が開かれた頃だ。
それとは別に、三つに分かれた古杉もある。これも神木である。
( 古杉の音を聴く )
昨日は2社、今日は3社を巡り、戸隠神社の5社巡りを終えた。
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< 鬼無里(キナサ)の里のこと >
車で今夜の宿・小谷温泉を目指す。小雨の中、山の中の県道を走った。すれ違う車はめったにない。
鬼無里(キナサ)の村で国道406号線の鬼無里街道に合流した。一軒きりの道の駅風の店で休憩をとり、コーヒーを飲んだ。
「戸隠」という地名もいいが、「鬼無里」は秀逸である。
名の響きのとおり、ほんものの山里だ。この山里から北へとさらに山中を走れば、奥据花自然園で行き止まりになる。季節になると、山と森に囲まれた湿地に水芭蕉の群落が咲き誇り、アマチュア風景写真家や観光客がマイカーで集まってくる。
鬼のいない里とは、かつては鬼がいたということである。
阿倍比羅夫がこの里の鬼を退治したという伝説があるそうだ。阿倍比羅夫は飛鳥時代の人で、朝廷の命を受け、水軍を率いて日本海側を遠征。東北の蝦夷を服属させ、北海道で粛慎と戦った。粛慎についてはよくわからないが、一説にオホーツク海岸にすむ樺太系の民族ではなかったかと言われる。
また、紅葉伝説もある。こちらは平維茂(コレモチ)が鬼女を退治した。鬼女は、事情あって都を追われた貴女である。平維茂は平安時代中期の武将で、信濃守であった。
能の「紅葉狩」は、舞台を戸隠の山中に移している。
維茂が鹿狩りで戸隠の山中に入ると、上臈が侍女たちと紅葉の宴をはっていた。誘われるままに酒を飲み、上臈の美しい舞いを見ているうちに、不覚にも睡魔に襲われる。それを見て、上臈は本性を現し、突如、舞いが激しくなる。そして、夜までそのまま目を覚ますなよと言って消える。
夜になり、八幡の神が維茂のもとに現れて、鬼神を討ち果たせと、神剣を授ける。
現れた鬼神と維茂が戦う。雷が飛び交い、炎を吐く鬼神との激しい攻防の末、ついに維茂は鬼神を討ち取る、という話である。
鬼や、天狗や、土蜘蛛や、雪女や、鬼婆や、河童や、座敷童や、狐や狸は、絶対悪ではない。人間に危害を与えるが、彼らのテリトリーに入らなければ、たいていは悪さをしない。時に人間を助けたり、人間に恋をしたりもする。人間に似て、善心もあれば悪心も起こす。喜怒哀楽の情をもち、ユーモラスでさえある。
ヨーロッパの先住民のケルトが伝える妖精や、魔女や、魔法使いのお婆さんも、好きだ。「眠れる森の美女」を魔女の側から描いたアンジェリーナ・ジョリーおばさんも魅力的だった。
「大和よみうり文芸」に選ばれた五條の四葉るり子さんの川柳。
見ないふり こびとが庭を 横切った
想像力が面白い。ファンタジックである。お子さんも喜ぶだろう。
しかし、「紅葉狩」のように、鬼や土蜘蛛は、時に、異界のものとして退治される。その場合の「鬼」とか「土蜘蛛」とは、何だったのだろう??
箒にまたがって空を飛ぶ魔女たちも、近世に入ると、密告され、裁判にかけられ、異端の者として火あぶりにされた。その数知れず。裁判が司教の下で開かれた場合はまだしも「百叩きにして放り出せ」ぐらいで済んだが、民衆裁判ではたいてい残酷な結果になったらしい。「人民」とか「民衆」という存在も信用できない。
お化け、妖怪の中でも、嫌いなのは、江戸時代に創造された「幽霊」である。彼女たちには「恨み」の情念しかない。ただ、相手を闇の底に引きずり込もうとする。
先の能「紅葉狩」は、鬼が本体で、美女の姿をして現れる。当然、活劇ものになるが、一般に能では逆のケースが多い。
世阿弥の能の多くは夢幻能で、その主人公はこの世のものではない。だが、未練があって、この世にいる。みんな、人間的で、哀しく、美しい。恨みがあっても、恨みよりも愛の方がもっと深い。最後は、旅の僧によって救われ、成仏する。
( 大槻能楽堂 )
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< 白馬(ハクバ)を経て小谷(オタリ)温泉へ >
国道406号線(鬼無里街道)は、長野を通り、山深い道路を白馬に抜ける。峠を越えると、晴れていれば、前方に北アルプス連峰(後立山連峰)が見えるのだが、残念ながら小雨模様の曇天で見晴らしはきかない。
やがて、後立山(ウシロタテヤマ)連峰の麓の町・白馬に出た。
ここから国道148号線(糸魚川街道)を北上する。
国道沿いにJR大糸線が走っている。大糸線は、登山の町・大町と日本海の糸魚川とを結ぶローカル線だ。清流の姫川も日本海に向かって流れている。
姫川の水源は白馬村の湧き水で、このあたりではまだ渓流と言ってもいい川幅である。
姫川は糸魚川市に入り、日本海から約2.5キロというあたりの丘の上に、縄文時代の集落がある。長者原遺跡と名付けられ、北陸で最大の縄文集落である。ここで産出され、さらに装飾品に加工された翡翠は、北は北海道の礼文島、南は沖縄からも見つかっている。ちなみに日本列島で翡翠を産するのは姫川だけである。縄文時代の流通網に感心する。
かつて出雲大社を訪れたとき、大社の博物館で見た翡翠の勾玉の色は本当に美しかった。
天気予報通り、晴れてきた。明日は良いお天気になる。
小谷温泉口の標識で、右手の山中に入り、うねうねと登って、小谷温泉山田旅館に到着した。
ここも、随分昔から訪ねてみたいと思っていた宿である。「日本秘湯を守る会」に所属する一軒宿だ。
温泉教授の松田忠徳さんは、「平成温泉番付」68湯の1つに挙げている。
小林威典『正真正銘 五つ星 源泉宿66』(祥伝社新書)には、「江戸時代に建てられた本館を含む6棟が国の登録有形文化財に指定されている」とあり、内湯については、「自噴泉が1m80cmくらいの高さから、とうとうと滝となって流れ落ちる。湯舟の縁を見てまたビックリ。天然の湯垢が何層にも付着している」と書いている。
( 有形文化財指定の山田旅館 )
若い頃この宿のことを知ったのは、温泉巡りをしようとしていたからではない。ここは、「日本百名山」の1つ雨飾山(1963m)登山の起点になる宿として、昔から登山者の宿であった。
『百名山』の「雨飾山」の項は名文である。その書き出しの部分。
「雨飾(アマカザリ)山という山を知ったのは、いつ頃だったかしら。信州の大町から糸魚川街道を辿って、佐野坂を越えたあたりで、遥か北のかたに、特別高くはないが品のいい形をしたピラミッドが見えた。しかしそれは、街道のすぐ左手に立ち並んだ後立山(ウシロタテヤマ)連峰の威圧的な壮観に眼を奪われる旅行者には殆ど気付かれぬ、つつましやかな、むしろ可愛らしいと言いたいような山であった。私はその山に心を引かれた。雨飾山という名前も気に入った」。
深田久弥が登ったころ、まだ登山道が整備されておらず、3回目の挑戦でやっと頂上に至る。そのときも小谷温泉を起点にした。
「(頂上にある) 風化し摩滅した石の祠と数体の石仏の傍らに、私たちは身を横たえて、ただ静寂な時の過ぎるのに任せた。古い石仏は越後の方へ向いていた。その行手には、日本海を越えて、能登半島の長い腕が見えた」。
「あとで越後の人からの知らせによると、古い猟師の話では、頂上の石仏は、糸魚川地方で有名な羅漢上人という坊さんが、自身で石を刻み、それをこつこつと山へ運んだものだそうである。山にウラ・オモテがあるとすれば、雨飾山はやはり越後の方がオモテであろう」。
食事はごく普通だが、ボリュームがあった。登山者用である。
温泉は良かった。
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