(朱塗りの美しい熊野速玉大社)
熊野那智大社から勝浦の町へ戻り、国道42号線を新宮方面へ向けて、北上する。
所々に太平洋の海原が広がり、海岸線を走る楽しいドライブだ。
やがて新宮の町並みに入った。
「古事記」によると、大阪湾の日下で行く手を阻まれたカムヤマトイハレビコ (神武天皇) は、紀伊半島を大迂回して、現在の新宮市に再上陸したとされる。
新宮の街を横断して、熊野川の河口近くに架かる橋の手前を山側に入ると、熊野速玉大社があった。そのまま県境の熊野川を越えれば三重県になる。
速玉大社は、山間部に分け入る那智大社と違って、海に近い神社であるが、周囲はこんもりしていた。その木漏れ日のなか、丹塗りの社殿が麗しく、瀟洒で、みやびやかな趣があった。
( 鳥居をくぐった神門の先に本殿が見える )
熊野那智大社と比べると、人は少なく、明るく、清々しい。
境内に樹齢千年のナギの巨木がある。天然記念物とか。
( 社殿 )
主祭神は、熊野速玉大神とされる。聞きなれない神様で、『古事記』や『日本書紀』の「神代記」にも登場しない。
ラフカディオ・ハーン『新編 日本の面影』 から。
「神道の計り知れない悠久の歴史を考えれば、『古事記』などは、(現代の言葉からはほど遠い古語で書かれているとはいえ、) ごく最近の出来事の記録集にしかすぎないであろう」。
「神道を解明するのが難しいのは、‥‥ その拠り所を文献にのみ頼るからである。つまり、神道の歴史を著した書物や 『古事記』『日本紀』、あるいは「祝詞」、あるいは偉大な国学者である本居 (宣長) や平田 (篤胤) の注釈本などに依拠しすぎたせいである。ところが、神道の真髄は、書物の中にあるのでもなければ、儀式や戒律の中にあるのでもない。むしろ国民の心の中に生きているのであり、‥‥
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白洲正子 『西国巡礼』 から。
「(熊野速玉)神社は、神倉山を背に建っており、宮司さんのお話では、新宮という名称は、本宮に対する新宮ではなく、神倉山からわかれた、新しい社の意味で、(熊野) 本宮 (大社) の方は、河口から川上へのぼるという古代の信仰に則って、のちに造られたものであるという」。
熊野速玉大社の起源は、神倉山 (標高120m) の頂上にある磐座 (イワクラ) にしめ縄を張って祀っていたことによる。いつのころからか、現在地に社殿を建てて、祀るようになった。それは、熊野那智大社が、もとは那智の滝にしめ縄を張って、聖域としたのが始まりであったのと同じである。
神倉山を元宮と言い、現在の社殿の方を新宮と言う。新宮市という行政市の名にもなった。
神倉神社は今は熊野速玉神社の摂社であるが、鎌倉積みの急こう配の石段538段を登れば、そこ、神倉山の頂上に、今も巨岩があり、古代のままに祀られているそうだ。
しかも、その岩の下層からは、銅鐸片などが出土したという。弥生時代、卑弥呼より100年以上古く、2世紀前半のものだろうか?
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大変だと聞いていたから、麓の鳥居まで行って、そこでニ礼二拍して引き上げるつもりだったが、少しだけと思って、ついつい登りはじめ、とうとう神倉山の山頂まで行ってしまった。「胸突八丁」という言葉があるが、言葉どおり「胸を突く」ような急こう配で、石段の一段一段も高くて、バランスを崩さないよう、両手も使って登り、怖いほどだった。
( 神倉神社の磐座 )
磐座の下に立ち、岩の大きさを実感した。磐座の下の岩の上で、磐座をバックにして、バレリーナの上野水香が「ボレロ」を踊れば、アメノウズメになる。古代の神々の世界は、そのように大らかで、楽しい。
新宮の街が一望できた。
『日本書紀』にいわく、「(イハレビコは)、遂に狭野 (サノ) を越え、而して熊野の神邑 (ミワノムラ) に到り、また天磐盾 (アマノイハタテ) に登り、よりて軍を引き漸に進む」。
神邑 (ミワノムラ) = 「神」とは、熊野速玉神社を指す。
天磐盾 (アマノイハタテ) = 通説では、神倉山。「磐盾」は盾の形をした岩。
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熊野速玉大社の境内の一隅に、小ぶりな住居建築があり、目を引く。
佐藤春夫記念館である。丹塗りの社のみやびやかな美しさとよく似合って、瀟洒である。
佐藤春夫は、新宮市の出身。
東京・文京区にあった旧宅を復元したものとか。
願 ひ 佐藤春夫
大ざっぱで無意味で
その場かぎりで
しかし本当の
飛びきり本当の唄をひとつ
いつか書きたい
神さまが雲をおつくりなされた気持ちが
今わかる
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ふと、高校生のころに好きだった佐藤春夫の詩を思い出した。
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