( 那智の滝 )
2004年の旅の思い出を書いている。車で灯台めぐりをしながら、勝浦温泉にやってきた。(前3回のブログ参照)。
そして、那智湾に面した温泉宿に、湯治気分で3泊した。
しかし、湯治気分といっても、1日、旅館でごろごろというわけにもいかない。
朝湯に入り、朝食を食べれば、もう、なすことがない。畳に寝転がってばかりでは、かえって肩も凝り、腰痛になる。腹も減らず、体重が増える。
そこで、「三重塔と滝」の写真で有名な熊野那智大社に行ってみることにした。時間があれば、さらに足を延ばして、熊野速玉大社に回っても良い。何しろこの年 (2004年) は、「紀伊山地の霊場と参詣道」がユネスコの世界遺産に登録された年だった。
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熊野那智大社は、宿と同じ那智勝浦町の行政区内にある。だが、海抜ゼロメートルの勝浦温泉からは、かなり深山に入る。
( 勝浦漁港と熊野の山々 )
車のなかった時代の人々にとっては、ひたすら山奥へと分け入る趣であったろう、と車を走らせながら思う。
表参道へ入り、土産物店の並ぶ一角に車を置く。観光バスもやってきて、観光地の匂い。
それはそれでよい。観光・行楽気分で神社を訪れる人々も、日本人ならば、鳥居をくぐると、心静かに柏手を打ち、手を合わせる。また、お賽銭を入れて、結果的に神社の存続を助け、神々の杜と社を後世に伝えてくれるのである。
司馬遼太郎『この国のかたち5』から
「明治23年 (1890年)、出雲にやってきたハーン ( 注 : ラフカディオ・ハーン ) は、神々がいささかも抑圧されていないことを知り、よろこんだ。美しい丘には必ずそこに鎮まる神がいて、宮居まで備わり、しかもそれぞれ物語ももっていたのである 」。
キリスト教の絶対的な人格神になじめず、子供のころから自然の中に妖精を見ていたハーンは、『古事記』を読んで感動し、日本にやってきた。そして、恋人にめぐり合った人のように、日本に恋をするのである。
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パーキングからさらに上へ上へと汗ばみながら登り、ようやく朱塗りの鳥居をくぐって拝殿に到着する。隣に青岸渡寺。周囲は那智原生林である。
( 熊野那智大社の朱塗りの鳥居 )
本殿には上五社が並ぶが、正殿は第四社。そこに祭られている主祭神は、熊野夫須美大神 ( クマノフスミノオオカミ )。これがどういう神様かについて、いろいろ古文書があり、諸説もあるようだ。
( 熊野那智大社本殿 )
いずれにしろ、今はこのように山の上に社殿があるが、もとは、ここよりずっと下方の谷、那智の滝がご神体で、社殿もそちらにあったらしい。
山がご神体という。また、滝をご神体という。日本人は何でも神にして拝むというが、しかし、もともと山や滝そのものを神としたわけではない。その山、その滝が、聖なる「場」であるという意味である。
司馬遼太郎 『この国のかたち5』から
「畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった」。
滝のある谷へ下って行く。
途中、三重塔に立ち寄って、塔の横に遠く那智の滝を配した、定番の写真を撮る。
( 三重塔とご神体の滝 )
滝壺に下り立つと、そこは鳥居が立ち、注連縄 (シメナワ) で 斎(イツ) かれていた。見上げると、133メートルを轟音を立てて落ちてくる滝と、濡れた岩肌の様を見ることができる。
( 那智の滝 )
司馬遼太郎 『この国のかたち5』から
「 何事のおはしますをば知らねどもかたじけなさの涙こぼるる
という彼 (注: 西行) の歌は、いかにも古神道の風韻をつたえている。その空間が清浄にされ、よく斎 ( イツ ) かれていれば、すでに神がおわすということである。神名を問うなど、余計なことであった」。
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西行は、あの伊勢神宮に参拝して、「何事のおはしますをば知らねども」と歌ったのである。やはり偉い男である。
神の名が云々される遥か以前、もちろん文字などもなかった時代から、人々はこの奥深い滝の下に立って、神を感じ、注連縄を張って、聖なる場所としたのである。所詮、その後の人が作ったに過ぎない神名を、古文書を尋ねて、あれこれ詮索するなど、余計なことであるに違いない。
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