( 熊野の山々 )
神名を問うなど、余計なことであるが、熊野本宮大社に祀られている神様について、あるいは、この社の由緒について、少しばかり思いを馳せたい。
神名を詮索することが目的ではなく、歴史学者(考古学者)によってもまだ究明されていない、そして今後も明らかにされることはないであろう、この列島の茫々とした遠い昔を、わずかに覗いてみたいからである。卑弥呼を遡ることさらに遠い日本列島の姿。それは、神々の時代と言ってもよい。
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< 熊野本宮大社の主祭神はスサノオノミコトか?? >
熊野本宮大社の神様を阿弥陀如来とする神仏習合の考え方は、現代人としては、論外とするほかない。
ここに祀られている神様は、スサノオノミコトだとする説がある。
しかし、日本の神々を、全て記紀的神話世界の中に秩序づけようとする意図の一環なら、意図そのものが無理というものであろう。
もともと、日本の神々は、四季の変化が豊かな日本列島のなかの、山、山中の巌、淵、滝、川の合流点、樹木の梢、岬の突端、海の上・中・底などにいらっしゃって、それぞれの地で、それを感ずる人々によって祀られてきたのである。
だが、スサノオ説、或いは、出雲系説を一概に退けられないのは、島根県・出雲の国にも熊野大社があり、しかも、この神社は、あの出雲大社と並立して出雲の国の一の宮とされ、出雲大社よりも古いこと、さらに、紀伊の国の熊野本宮大社は、この出雲の国の熊野大社から勧請されたのだという説があることである。
熊野本宮大社のファンである私は、まさか、出雲の熊野大社の後塵を拝するようなことがあるはずがないと思ってきた。
しかし、この夏、出雲を旅し、山深い出雲の国の熊野大社に詣でたとき、或いはそうかもしれないと感じた。それほど古拙の趣のある社であった。そして、仮にそうであっても、両社に対する崇敬の念は変わらないと思った。
( 出雲の熊野大社 )
もしそうなら、本来は出雲の神々であったスサノオが、紀伊の国に祀られていても、おかしくはないのである。
余談だが、『古事記』によると、少年のころのオオクニヌシは兄たちに何度も命をねらわれ、一度などは殺されかけて瀕死状態になったこともあり、母は、熊野の神々を頼れとオオクニヌシを逃がす。ところが、兄たちは執拗に熊野まで追って来て、熊野の神々の機転で危うく救われた。熊野の神々はオオクニヌシに言う。もう私たちにあなたの命を守り切れません。あなたを助けられるのは、今は隠棲されている出雲のスサノオノミコトだけです。そこへ逃げなさい。
こうして、スサノオの所に逃れたオオクニヌシは、その娘・スセリヒメと結婚し、誰にも負けない強い青年として成長するのである。
だが …… この「出雲=スサノオ説」は、棚上げする。
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< 熊野本宮大社の主祭神は、木々か、太陽か、水か?? >
以上の他に、有力な説が三つある。
第一は、神名の「家都美御子大神」( ケツノミミコノオオカミ )の国語学的解釈。
「ケ」は「木」。「ツ」は格助詞の「の」。「美(ミ)」は美称。故に、「木の御子の大神」となる。もともと「紀伊の国」とは、「木の国」のことである。
この説、鬱蒼と繁る大木の杜(モリ)の中に鎮座する社の神にふさわしい。
他に、熊野本宮大社が、太陽の神の使いとされるヤタガラスを祀ることから、主祭神を太陽神とする説があり、また、もともとこの神社が川の中洲に鎮座していたことから、水の神とする説もある。
ヤタガラスはサッカー日本代表のシンボルマークであるが、もちろん『古事記』の「神武東征」に登場する鳥である。なお、ヤタガラス伝説は、東アジア全域にある。
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< 熊野本宮大社の起源と「神武東征」伝説 >
『五重塔はなぜ倒れないか』で有名な建築学者・上田篤氏は、近著『庭と日本人』(新潮新書)のなかで、熊野本宮大社の起源について、概略、以下のように書いておられる。
熊野本宮大社の創建は、第10代崇神天皇(多くの歴史学者が、最も遡ることのできる実在の天皇とする)のときと言われるが、なぜこんな辺鄙な所に、初代の天皇と言われる崇神天皇は、神を祀ったのだろうか。
思いつくのは、『古事記』に描かれた神武 (カムヤマトイハレビコ) 東征伝説である。
上田氏は、それを、弥生時代、2世紀の末と想定する。
『古事記』に描かれた神武東征物語によると、九州を出発したイハレビコは、瀬戸内海を通って河内に上陸しようとしたが、土地の豪族ナガスネヒコに撃退された。そこで、紀伊半島を大迂回して、熊野に回航する。そして、新宮に上陸して、北上し、紀伊の勢力を圧服しつつ、ヤタガラスに導かれ、十津川を経て、五條、宇陀を降し、大和に入った。
さて、この間、今でも鬱蒼とした紀伊半島の真ん中を、イハレビコはどのように北上したのか? 熊野は海まで山が迫る険しい山国である。襲いかかるのは、敵だけでなく、毒虫、風土病などの危険もあり、前進は容易ではない。(実際、『古事記』によると、新宮に上陸してまもなく、大きな熊が現れ、その毒にあたって、全軍が気を失って倒れたとある。何らかの病に倒れたのであろう)。
そこで、彼らは舟で、熊野川を遡ったはずだ。野営地も、川中島や砂洲を選択した。水を垣としたのである。
その最後の野営地が、元熊野本宮大社があった大斎原( オオユノハラ )であった。ここから先は急流のため舟で進めず、徒歩で大和へ行軍する。
その宿営の最後の日に、イハレビコは、この川中島を聖地として清め、土地の神々を祀って、過ぎし方への感謝と、行く末の行軍の安全を祈願した。
それから9代あとの崇神天皇は、伝えられてきた祖先イハレビコの労苦を思い、そこに社殿を建てて整えた。
( 現在の大斎原 )
熊野本宮大社の起源は、このように考えられないかというのが、上田篤説である。
一言、私風に付け加えれば、イハレビコが、大斎原で祀った神々は、すでに土地の人々に祀られていた神々であり、それは、多分、「木の神」であった。
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< 茫々とした歴史のかなたの神武東征伝説 >
戦後の歴史教科書で学んできた我々は、著名な建築学者が、神武天皇の実在や、神武東征を信じるのか、と疑問を抱く。
確かに、『古事記』に書かれている一つ一つの東征エピソードは、口伝されているうちに、事実からどんどん遠ざかっていった「物語」であろう。 『古事記』 の伝える年数も、実際とはもちろん違う。「イハレビコ」という人名も、違うものであったかもしれない。
しかし、ギリシャ神話の『ユリシーズ』に夢中になったH.シュリーマンは、「伝説のトロイ」を探し求め、ついにその発掘に成功したのである。
もっと身近なところに、思いがけない学術的発見の話がある。
神武東征よりも、さらに遡る、「神代」の話のことだ。
『古事記』は、大きなスペースを割いて、「出雲神話」を記述している。スサノオのヤマタノオロチ退治、オオクニヌシのさまざまな話、そして、天孫族への国譲りの話など。
歴史学者 (考古学者) たちは、戦前も戦後も、北九州と大和の二大文化圏を ( 銅剣・銅矛文化圏と銅鐸文化圏などと言って ) 認めていたが、出雲などは一笑に付していた。あれは神話だ、と。何の証拠もない。
ところが、1980年代になって、出雲からぞくぞくと銅剣、銅鉾、銅鐸が出土したのである。
弥生時代、ここに巨大なクニがあった! 出雲を本拠にして、おそらく日本海側の北九州から、越前・越中・越後、さらに諏訪地方にまで、影響力をもっていたクニである。
しからば、大和連合との間に、戦争による併合でなければ、「国譲り」もあったかも知れない。
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トロイ伝説によると、トロイ戦争は、3人の女神たちが、「このなかで誰が一番美しいか」と、論じ合うことから起こった。そんな荒唐無稽な話は信じられないとして、トロイの存在を一笑に付していた学者たちは、結果的に、学者として基本的態度が間違っていたことになる。
神話・伝説を頭から信じるのもおかしいが、頭から否定してしまうのも、非科学的な傲慢である。
『古事記』や『日本書紀』をバカにしてはいけない。文字の普及していない時代に、長年、口伝で伝承されてきた遠い先祖の歴史。それが仮に荒唐無稽な神話的姿になっていたとしても、頭から否定するのは、学問的な態度とはいえないのである。
古墳時代の幕開けに登場する邪馬台国(もちろん、大和国)の卑弥呼(ヒメミコ)の祖先は、弥生時代に、九州のどこかから、大和へ東征してきたのではないか、と、私も想像したりしている。
(近所の寺の枝垂桜)
(「紀伊・熊野の旅」は終わります)
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