(「津軽海峡冬景色」の碑)
< 第4日目 青森 … 津軽海峡冬景色の歌碑発見 >
今日は、3泊4日の旅を終え、青森空港から、午後の便で大阪へ帰る。
念願の五能線に乗り、太宰治の生家にも立ち寄り、本州最果ての二つの岬にも立って、旅の目的は果たした。
飛行機の時間まで、青森の町で過ごすことにしているが、さて、どうしよう?
昔、弘前で時間を過ごしたときは、迷わず弘前城へ行った。お濠に囲まれたお城の中を歩き、桜の季節にはどんなに美しいかと思いを馳せ、また、玩具のように小さな天守閣を見て、天下の大阪城とは違うのだと思った。
それにひきかえ、青森は、ガイドブックを見ても、これという名所旧跡がない。
いや、一つだけある。三内丸山遺跡。
古代日本の原像を知りたいというのは、西欧の歴史と文化を知りたいという思いと並んで、リタイア後の私の2大テーマである。
しかし、三内丸山遺跡は、今回の旅のテーマから逸脱しているのではないか …… などと考えて、さて、どうしようと、ガイドブックに付いている青森市街の地図をつくづくと眺めていて、ふと気付いた。
JR青森駅は、青森港の一角にある。というか、青森港を構成する一部であるかのように、配置されている。
そして、駅のすぐ東側に、「青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸」が係留されている。
説明を読むと、「… 昭和63年に廃止されるまで約80年にわたり、青森と函館を結んだ青函連絡船として活躍した八甲田丸 … 当時の面影そのままに青森湾に浮かぶ」 とある。
どうやらそばにパーキングスペースもある。ここに行って、雰囲気を味わってみよう。そのあとは、そのあたりから続く青森のショッピング街を、ぶらぶら歩いて、飛行機の時間まで過ごしたらいい。
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車を駐車して歩いて行くと、八甲田丸は白に黄の堂々たる客船である。
最上階の甲板に上がって青森市街を眺めている観光客も見えた。
船に近づくと、八甲田丸をバックにして「津軽海峡冬景色」の歌詞を刻んだ石碑があった。ここに、このような碑があるとは、まったく知らなかった。
ボタンがあり、押すと石川さゆりの歌が流れる。
歌を聴きながら、ここにもう一つの碑が置かれている理由が理解できた。1番の歌詞は、この場こそがふさわしいのである。ここと、龍飛岬と、2つの碑で、歌は完結する。ここに来なければ、私の旅も完結しなかったのだ。
「 上野発の夜行列車 降りたときから
青森駅は 雪の中
北へ帰る人の群れは 誰も無口で
海鳴りだけを聞いている
私もひとり 連絡船に乗り
こごえそうなカモメ見つめ 泣いていました
ああ 津軽海峡冬景色 」
近くに人はいない。龍飛岬と同じように、思いを込めて、石川さゆりとデュエットした。そのために、遥々と飛行機に乗ってやって来たのだから。そして、いつか訪れるであろう私のためにも、ここに歌碑が設置されていたのであろうし ……。
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旅から帰って、改めてネットで歌詞を探し、石川さゆりの歌を聞いてみた。
ネットには、例によっていろいろな情報があふれている。
そういう中の一つ。
テレビで阿久悠の追悼番組があり、「津軽海峡冬景色」の作曲家・三木たかしが思い出を語った、その内容を紹介するブログである。
三木たかしによると、この歌は青森県の 「ご当地ソング」 として作られたのだそうだ。 「ご当地ソング」 は、大ヒットは望めないが、ご当地で、ある程度のヒットは望める。
故に、初めに「津軽海峡冬景色」という題名があり、作曲家の三木たかしに作曲の依頼があった。三木たかしは作曲をして、作詞担当の阿久悠に「曲」を送った。
三木は、阿久悠から返ってきた詩を見て、唖然としたと言う。ご当地ソングだから、恋の情緒などで彩りを添えながら、「津軽の海の冬の景色」が、2、3の地名とともに、あたりさわりなく描かれていると思っていた。
ところが、まずその出だしは、「上野発の夜行列車 降りたときから」である。何で「夜行列車」なのだ ……。
2番まで読んでも、津軽の地名は、「龍飛岬」という語が一つあるだけだ。
だが、メロディに合わせて口ずさんでみると、歌詞がメロディーにぴったり合っている。こんなに見事に曲に合わせて歌詞ができるものかと感心した。
三木たかしの話は、そういう内容であった。
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主人公の女性は、人と別れ、心打ちひしがれて、東京の生活を捨て、北海道へ帰ろうとしている。主人公の状況として、「ご当地」の津軽の海は、故郷でも、旅行先でもなく、通りすがりに過ぎないのである。
彼女の目に映じ、耳に聞こえてくるものは …… 青森駅はすっぽりと雪におおわれて何もない。人々の群れは無口で、ただ海鳴りが鳴っているだけだ。…… 連絡船が津軽海峡に差し掛かっても、( 前々回のブログに書いたように )、結局、龍飛岬は霞んでよく見えなかった、と歌われているのである。あるのは、胸を揺する風の音だけ。何もないのである。
( 鉄道駅からの連絡橋 )
何もない津軽の海の冬の世界は、彼女の喪失感を深くするばかりである。彼女の心をいやす何ものもないのだから、これでは「ご当地ソング」 にならない。
にもかかわらず、この歌を聴く我々の脳裏には、傷心の孤独な旅人が旅立つ上野駅、眠れず滓のように疲労のたまる夜行列車、すっぽりと雪に覆われた青森駅、鉄道駅から青函連絡船へと連絡橋を急ぐ無口な旅行者の群れ、烈風の吹きすさぶ連絡船の甲板、曇天にこごえそうなカモメ、息でくもる窓から見る津軽海峡の海、そして、本州の最北端の龍飛岬などが、ありありと目に見るように、「イメージ」として定着するのである。
こうして、私のように、歌が流行って数十年もたってからも、「北のはずれ」の「龍飛岬」を目指して旅する者もいる。
地方のための「ご当地ソング」としてつくられた歌が、国民的な大ヒット曲になったという事実、ナショナルなものがインターナショナルなものに昇華するということについて、どのような条件がそろったらそういうことが起きるのかということを、私は、しばらく、あれこれと考えた。
( 北のはずれの龍飛岬 )
( 津軽海峡を通る船舶を守る龍飛岬灯台 )
2つ目の石碑を見て、この旅は完結した。
そのあと、三内丸山遺跡に行った。
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< 付録 …… 三内丸山遺跡のこと >
三内丸山遺跡に行って良かった。ここは、「北のまほろば」である。
縄文文明は弥生文明によって滅ぼされたのか、或いは、二つの文明は融合したのか、或いはまた、縄文文明は弥生文明を取り込み吸収して発展したのか、これが、私の関心事の一つである。
三内丸山遺跡で、ボランティアガイドの説明を聞きながら、自ずから、数か月前に見学した大阪府和泉市の池上曽根遺跡と比較された。
池上曽根遺跡は、環濠を2重に巡らせた、BC1世紀 (弥生中期) の典型的な弥生遺跡である。環濠集落の西方一帯には水田域があったという。
方形周溝墓があり、鉄製品の工房らしき跡があり、神殿かと思われる高床式大型建物は17m×7m、その横には30m×7.6mの土間床平屋建物があった。
(池上曽根遺跡の高床式大型建物/外観と内部)
三内丸山遺跡は、縄文時代前期~中期の大規模な集落跡である。池上曽根遺跡より2000年~3500年も古い。その時間の流れの遥けさを思う。
(土偶を飾った遺跡の入り口)
当遺跡集落は、ゆるやかな丘陵の先端に位置し、標高は約20m。当時は眼下に海を望んでいたと思われる。
広大な集落の道路跡に沿って、周りに環状に石を配置した墓群が見つかった。また、別に、道路を挟んで向かい合うように、500基の土葬された墓も見つかっている。子どもの遺体は別の場所に、わざわざ土器に入れて埋葬され、800基以上が見つかった。この時代、子どもの死亡率は極めて高かっただろう。
550棟の竪穴住居が見つかった。うち、15棟が復元されている。
掘立柱建物群もあり、倉庫群ではなかったかと考えられている。
(竪穴住居)
(高床式建物)
長さ10m以上の大型竪穴住居も発掘された。最大のものは32m×10mである。その中に入って、その大きさと、意外な快適さに感嘆した。
(大型竪穴住居)
(大型竪穴住居の内部)
六本の柱の跡も発掘されている。
柱と柱の間隔は4.2m、柱を埋めた穴の幅2m、深さも2mにそろえられていた。穴には、直径1mのクリの柱が残っていた。
聖なる御柱だったのか、近くの海を見る物見台だったのか、住居構造だったのか、わからない。写真は想像してつくられた現代の建造物である。
(6本の柱の跡)
多数の土偶や土器も見つかっている。黒曜石、琥珀、翡翠なども発掘され、日本各地とモノの交流があったことがうかがわれる。翡翠は、日本では新潟県と長野県の県境を流れる糸魚川でしか産しない。
クリの類は、主食として集落の周囲で栽培されていたことが、DNA鑑定の結果でわかった。その他、エゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなども栽培していたと推定される。海から魚や貝類も得ていたであろう。
三内丸山遺跡は、「縄文人=狩猟採集の生活」という考え方に「?」が打たれる発見でもあった。
水稲は亜熱帯植物だから、日本列島には自生しない。しかし、弥生人より2000年も前に、縄文人がこれだけの文明をつくりあげていたとしたら、「稲作」がやってきたとき、縄文人は容易にそれを受け入れることができたであろう。三内丸山遺跡は、そう思わせる遺跡集落でった。
戦前の歴史学者は、大陸から入ってきた渡来系弥生人が、先住民である縄文人を滅ぼして弥生文明を作り上げたと考えた。我々は、その渡来人の子孫だと。今、多くの考古学者は、縄文と弥生の間にそのような大きな段差はなかったとする。稲作も、当時としては、速やかに、全国に普及していった。
「… 環境変動 (寒冷化など) に適応するように、朝鮮半島でも日本列島でも食料資源の多角化や雑穀栽培の導入を行う段階を経て、ある段階に灌漑稲作が本格化する過程をたどるようである。それを可能にしたのは、縄文時代後・晩期の海峡を挟んだ地域どうしの相互交流の蓄積であった。
このように、縄文時代文化から弥生時代文化への移行は、きわめて緩やかに進行したとみるのが順当である。縄文文化と弥生文化を対立的に考える20世紀初頭以来の枠組みは、すでに過去のものとみるべきである」 ( 石川日出志 『シリーズ日本古代史① 農耕社会の成立 』 岩波新書 )。
「それを可能にしたのは、縄文時代後・晩期の海峡を挟んだ地域どうしの相互交流の蓄積であった」とすると、この話は、前回の「玄界灘に日本の古代をたずねる旅」に接続することになる。
一衣帯水、日本海を挟んで、朝鮮半島南部と九州北部は一つのゆるやかな共同体であり、文化圏を形成していた。そこは、海人族も活躍した海だった。(了)
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読者のみなさまへ
いつもご愛読、ありがとうございます。
さて、このブログ「ドナウ川の白い雲」は、しばらくの間、お休みをいただきたいと思います。その間も、このブログをお忘れなきよう、お願いいたします。
次号は11月の初旬の予定です。たぶん「ユーラシア大陸の最西端、ポルトガルへの旅」となるでしょう。 どうか、お楽しみに。
そして、それまで、お元気で、お過ごしください。
また
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