幸か不幸か独居老人一歩手前でストップしたマンマ。 

加齢化を受け入れられずに格闘中。 週2~3日クラス開講で、刺激をもらい感謝。  

イングェ、ケニヤの思い出 2

2014-11-30 00:56:58 | 日記
今日、イングェは故郷の大地に戻る。 私が2007年、マサイマラからナイロビに戻ったのは4月1日、日曜日だった。車は半日走り続けたけど途中、綺麗なパステルカラーのドレスを着た女性やコザッパリした服装の男性が語らいながら歩いているのを見かけた。教会へ行く人たちだ。欧米と比べて、信仰心が厚い人がマダマダ多いのだろう。イングェも信仰心厚い人々に守られて今日をむかえ、眠りにつく。今となっては、“RIP, Ingwe."としか言えない。

イギリスでもドイツでも日曜礼拝という習慣はなかった。唯一、マルタのステイ先のご夫婦が土曜日の夜、教会へ行っていた。 ケニヤのウィークディは・・・というと、マサイ族の住む地域、牧畜と言うよりも放牧を営む地域で見た限りだが、炎天下、みんな長い距離を黙々とスタスタと歩き、小さな広場の木陰では、牛追い用のステッキをバランスよく腰に当てて寄りかかって談笑していた。 道の両脇は褐色がかった草っ原。所どころに、長短あわせた板で囲った家があり、塀のようなその板の上に洗濯モノが干されていた。細い電信柱がまばらに並んでいたけれど、電信柱があるというコトは電気がアルと言う証拠だ。 が、「能率」などという言葉は存在していない。 ゆったりと自然に身を委ねて、その日暮らし・・・と言う感じだった。タマ~に前後左右、荷物をイッパイ積んだ自転車を見かけた。あの大きな荷物は「炭」とのことだったけど・・・。燃料店の経営者かな? 

ナイロビからフラミンゴで有名なナクルへ行く時は山岳地帯を通った。 山岳地帯だからだけでなく農業地域だったので緑濃い畑が続いていた。牛追いの杖ではなく鍬や鋤を持った人々が行き交い、コンクリート製の電柱が立っていた。 イングェが言っていた。「ココはキクユ族の地域です。キクユ族はケニヤで一番お金持ちです。」 さもアリナン。 
翌朝、7時ごろから8時ごろまでの山道、ごとに通学途上の子ども達に出会った。地域ごと(?)、学校ごとに異なった色のポロシャツを着ていた子ども達は真っ白い歯を見せて手を振ってくれた(?) 「私たちに・・・」と思ったら大違い! 運転手のマタノさんにだった。私たちとは殆ど話さなかった彼だが、子ども達に彼も笑顔で手を振って応えていた。 運転手さんはヒーローなのだ! パイロットに憧れるように・・。この子たちは毎日数時間をかけて登校するのだそう。イングェも3時間掛けて登校した由。当然、帰り道も同じ。 家に帰ってからは宿題も・・。 「学校は楽しかった?」「いいえ、辛かったです。」 予想外の答えだった。 「好きな科目は?」「physics」「うわぁ・・・スゴイ!」 彼、白い歯を見せて笑っていたっけ。
 私はココで痛恨の大失敗をした。 子ども達がいじらしくて、可愛くて写真を撮ってしまったのだ。コレはイングェも承知だった。モチロン、車の中から・・。 すると、彼等の手のひらが上を向いたのだ。 タイヘンなことをしてしまった! 車はそのまま進んだ。 私はどうするべきだったのだろう。 帰国して、その年のユニセフ募金に罪滅ぼしのつもりで私としては高額を募金した。 思い出す度に恥ずかしい。

お土産を買った際、例によって、値段交渉担当販売員氏へのチップ。「ボクはペンの方がいい」と。 タマタマ1本しかなく、お金でチップを払った。 
帰国して間がない頃、新聞記事で、思い当たることを読んだ。ジャーナリストか研究者か覚えていないが、ケニヤでの調査(?)のお礼に子どもたちにお菓子をあげると、母親が苦情を言ったそうな。 「お菓子は要らない。ボールペンを持っていないか?」と。が、「学用品」としてではなかった。 手に入った「ボールペンを売る」ためなのだと。 彼女も痛く傷ついていた。

思い出すことをダラダラ・・・と連ねてしまった。 アフリカで動物を見たい・・・という単純な物見遊山で行ったケニヤだったけれど、考えることイッパイあった旅であったことを改めて思い出す。 イングェ、ありがとう!