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「ユダヤ人難民救済」中国も欲しがる樋口季一郎の偉業を正しく伝えたい 202205

2022-05-13 23:49:00 | なるほど  ふぅ〜ん

「ユダヤ人難民救済」中国も欲しがる樋口季一郎の偉業を正しく伝えたい
NewsCrunch編集部 より 220515


 小野寺信(まこと)、樋口季一郎、藤原岩市――世界から称賛され、恐れられた3人の帝国陸軍軍人を通じて、大日本帝国のインテリジェンスの実像に迫る話題の新刊『至誠のインテリジェンス 世界が賞賛した帝国陸軍の奇跡』(小社刊)。
 その出版を記念して、著者の岡部伸氏と樋口季一郎の孫・樋口隆一氏(指揮者、明治学院大学名誉教授)の特別対談をお送りします。

⚫︎ユダヤ人難民救済の話は家族にも語らなかった
岡部 リトアニアの日本国総領事館に赴任していた杉原千畝が、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきた多くのユダヤ難民を救出した逸話は、「東洋のシンドラー」として国内外に広く知られています。杉原が救ったとされるユダヤ人は約6000人、本家のオスカー・シンドラーは約1200人です。
 数字については諸説ありますが、ユダヤ人側の発表では、樋口中将は、彼らを優に上回る2万人ものユダヤ人を救出したとしています。しかも、杉原がいわゆる「命のビザ(通過査証)」を出す2年も前に。

▲杉原千畝 出典:ウィキメディア・コモンズ
 外交官だった杉原千畝は、早くからその名が世界に知られていましたが、樋口季一郎は“悪名高き日本軍”の軍人ということもあってか、長らくその功績が注目されてきませんでした。しかし、ようやく最近になって、グローバルなレベルで樋口中将の再評価の動きが加速しています。これは日本人として非常に誇らしいことだと思います。

 樋口先生は、祖父である樋口中将から、ユダヤ人難民の救出のお話を生前にお聞きしていたのでしょうか?

樋口 樋口季一郎は最初、家族にもユダヤ人救出の件を伏せていました。それに「おじいちゃんに戦前の話はしない」というのが、なんとなく家の中の“暗黙の了解”だったんです。おじいちゃんも困っちゃうからね(笑)。だから、父や母、伯父に伯母、いとこたちも“樋口季一郎”については知ってはいるけれど、肝心なことは知らない。

どうして僕らが、樋口季一郎とユダヤ人の関わりを知るようになったかというと、僕が小学2年生のときにミハエル・コーガン(※)が家に来たんです。樋口が東京裁判の証人を務めるために九州から上京して我が家に滞在していたときだから、昭和29年(1954年)頃ですね。

※ミハエル・コーガン:ユダヤ系ウクライナ人の実業家。「スペースインベーダー」の大ヒットで知られるゲーム会社タイトーの創業者。1937年にハルビン(満州の中心都市。現中国黒竜江省)で第一回極東ユダヤ人大会が開かれた際には、会場の警備員として来賓の樋口季一郎の護衛を務めた。
⚫︎終戦直後は貧しい日々を過ごしていた樋口季一郎

樋口 当時、コーガンはタイトーの前身となる株式会社太東貿易という商社を設立したばかりで、その商社で輸入していた「トロイカ」というポーランドのウォッカの小瓶と、バナナの房が入った果物籠を手土産に持って来ました。あの頃のバナナといえば、貴重品で子どもの憧れでしたから、彼の来訪は今でも鮮明に覚えています。

 2人はいろいろ話し込んでいて、それを私も近くで聞いていました。この時、私たち家族は、祖父が満州で大勢のユダヤ人を助けたことを、初めて本人の口から聞いたわけです。

 また、コーガンは「会社の顧問になってほしい」と祖父に頼んでいましたね。祖父はその申し出を丁寧に断っていましたが、私は子ども心に「おじいちゃん、貧乏なんだから、このおじさんの会社に入ればいいのに」と思っていました。当時はまだ軍人恩給が支給されていない時期で、祖父も無一文でしたからね。

 祖父は九州の高千穂の田舎で農業をして、自給自足の生活をしていました。それに、私も「おじいちゃんが、このおじさんと仲良くしていれば、またバナナもらえるんじゃないかな」と思っていたので(笑)。

岡部 なるほど(笑)。でも、樋口中将はうれしかったでしょうね。

樋口 それは喜んでいましたよ。コーガンが帰ったあと、もらったウォッカをチビチビと舐めながら、大きな声で「ヴォトカ・トロイカ」とラベルをロシア語風に読んで上機嫌にしていました。昔、自分のガードマンをしてくれていた若者が、立派になって訪ねて来てくれただけでも、もう年寄りはもう大喜びなわけです。今なら私もその気持ちが、すごくよくわかります。


▲幼少期の頃の祖父について話す樋口氏
⚫︎「ユダヤ人難民救済」の功績を盗もうとたくらむ中国
樋口 最近、樋口季一郎を応援してくれているカナダのユダヤ人夫婦と知り合いになったんですが、彼らからいただいたメールにすごいことが書いてありました。カナダでは――おそらくアメリカでもそうだろうけども――中国の“宣伝工作”が効きすぎてしまっていて、満州で2万人のユダヤ人難民を助けたのは中国人だとされているようです。

岡部 えっ、本当ですか!? それはひどい。

樋口 たとえば、ハルビンや上海にもユダヤミュージアムがありますが、そういうところでも中国人がユダヤ人を助けたことになっています。その当時、日本人がやった良いことは全部、中国人の手柄にされている。我々日本人からすると、ちょっと考えられないくらい露骨なやり方なんですけどね。

岡部 中国人じゃなくて、日本人がユダヤ人を助けたという歴史的な事実を、我々も世界に向けてもっと発信しなくてはいけません。

樋口 そのユダヤ人夫婦は、樋口季一郎に関する小冊子を作って配って、一生懸命発信してくれているそうです。

岡部 ありがたいですね。

樋口 ただ、そうした歴史的事実が世界のスタンダードにならないのも、やっぱり“戦前の日本は悪かった”という固定観念が足枷になっているんでしょう。


▲「歴史的事実を発信していかなければいけない」と語る岡部氏
大戦中に日本が救ったユダヤ人は4万人!?
樋口 そのあたりの事情はイスラエルでも同じで、日本人と仲良くしてきたユダヤ人は、長いあいだ肩身の狭い思いをしてきたみたいです。だから、イスラエルにおける樋口季一郎の評価も、非常に複雑だったのではないかと思います。なんとなく、大きな声で樋口季一郎を讃えられない空気があるみたいです。

ひどいものだと、「樋口季一郎のユダヤ人救出の話は、南京大虐殺をカモフラージュのために作ったデマだ」と言う研究者もいるとか。そういう唐無稽な話が、イスラエルではこれまでまかり通ってきたらしいんです。今でもそうかもしれない。

でも、一方で新しい動きも出てきています。たとえば、イスラエル・ヘブライ大学の日本近代史研究者であるメロン・メッツィーニ名誉教授は、著書『日章旗のもとでユダヤ人はいかに生き延びたか』(勉誠出版)で「大戦中に日本が4万人以上のユダヤ人を救った」と主張しているんです。

岡部 4万人! これまで2万人でも「そんなにいるわけない」と否定する人たちがいたのに、4万人は驚きですね。

樋口 もちろん大まかな数字ではあるのですが。従来の2万人という数字は、当時ハルビンに住んでいたユダヤ人の指導者、アブラハム・カウフマン〔ハルビン市内で総合病院を経営する内科医として働きながら1919年から1945年夏までハルビンのユダヤ協会会長を務めた〕の伝記に由来するものだと思われます。

それに加えて、当時のユダヤ人は、日本の勢力下にあった東南アジアやオセアニアにも2万人ほど住んでいたそうなので、合わせて4万人のユダヤ人が度重なるナチス・ドイツの干渉にも関わらず日本によって救われた、とメッツィーニ先生は言っているわけです。

もっとも、樋口自身も正確な数字を把握していたわけではないですし、日本側には残されていない外国の記録などもありますから、数字だけをあれこれ議論するのはあまり意味がないかもしれません。樋口季一郎の仲介によって、満州で助けられたユダヤ人難民の総数を正確に把握することは不可能でしょうからね。

いずれにせよ、メッツィーニ先生のような見方をする学者がイスラエルに出てきたのは、これまでにない新しい動きであることに違いはありません。イスラエルには「ヤド・ヴァシェム」というホロコーストの博物館があるのですが、残念ながら東アジアに関する研究はまだほとんど進んでいないので、メッツィーニ先生の登場はタイミングとしても良かったと思います。


▲エルサレムにあるヤド・ヴァシェム(ホロコースト博物館) 出典:Juandev(ウィキメディア・コモンズ)
樋口 ちなみに、アメリカでも最近ちょっとした新しい動きがありました。東京オリンピック前の2021年6月に、アメリカの『The Forward』というユダヤ系の新聞が、樋口季一郎を写真入りで取り上げていたんです。内容としては、日本とユダヤ人が歴史的に深くつながってきたことを紹介する記事なんですが、これまでのように杉原千畝だけじゃなくて、ちゃんと樋口季一郎の名前も出てきます。

〇『The Forward』JEWISH. INDEPENDENT. NONPROFIT.

Japan, home to the Summer Olympics, has a rich Jewish history
The East Asian country was a refuge for Jews fleeing Nazi Germany.
岡部 それはすばらしい。チェックしてみます。

樋口 最初に読んだときには、予期せず“樋口季一郎”の名前と写真が出てきて「おっ!」と思いましたね。『The Forward』は戦前からある新聞なんですが、やっぱりアメリカの歴史の見方も変わりつつあるのかなと。

岡部 アメリカの新聞が樋口季一郎を紹介したというのは、すごいことですね。

⚫︎ソ連の脅威と向き合い続けた「臆病軍人」
岡部 ユダヤ人難民救出とともに、樋口季一郎の功績として忘れてはいけないのが、北海道をソ連の侵攻から守ったことです。

1945年8月、当時の北海道、南樺太と千島列島の「北の守り」を担当する札幌の第五方面軍司令官を樋口中将が務めていました。ポツダム宣言受諾後、千島列島北端の占守島(しゅむしゅとう)に侵攻してきたソ連軍に対する自衛戦争を指揮し、北海道がソ連に占領されるのを防ぎました(※)。

しかも、それは大本営からの停戦命令を無視して、独断で行った戦いです。陸軍大学校卒業後、参謀本部のロシア課で陸軍随一の対露情報士官として活躍し、ソ連の手口を知り尽くしていたからこその英断だと思います。学校の歴史の授業ではまったく習うことがない話なので、多くの日本人が知らないのが残念なのですが……。

※占守島の戦い:1945年8月18日未明、大挙上陸して来たソ連軍に対して、占守島守備隊が自衛のためにおこなった戦い。守備隊は大小80門以上の火砲と戦車85輌をソ連軍が上陸する波打ち際に集め、濃霧で上陸に手間取っていたソ連軍を集中砲火し、戦死傷者3000人以上という大打撃を与えた。この戦いは、満州・樺太を含めた対ソ連戦では、日本軍最大の勝利となった。

樋口 祖父は、戦後の歴史家が日本軍の負けた話ばかりを強調していることに怒っていましたね。「ちゃんと勝っていたところもあるんだぞ」って。やっぱり、そういう話は孫にはするんですよ。それがずっと僕の脳裏に残っていたこともあって「おじいちゃんの恨みを晴らすために頑張ろう」と思い、祖父が書き留めていた記録をもとに『陸軍中将樋口季一郎の遺訓』(勉誠出版/2020年)を出版したわけです。

▲晩年の樋口季一郎(樋口隆一氏撮影)
もとになった祖父の膨大な手書きの原稿は、叔父が生前にワープロで清書してくれていました。とはいえ、やっぱり明治時代の教養人の書いたものですから、文章はかなり難解で、とてもじゃないけど現代人には読めません。出版社側からも「難字にはルビをふって現代仮名遣いに改めて、註や補足説明を足してほしい」と提案されていたので、僕もそのリライト作業を通じて、祖父の言葉と一字一句向き合いました。

その編集過程で、やっぱりよくわからない部分も出てきて「どうしておじいちゃんは、ここでこんなに怒っているんだろう」と疑問に感じるところもあったんです。今になるとその理由がわかるのですが、ようするに自分がこれまで訴えてきた「ソ連の脅威」を、参謀本部が無視し続けてきたことに対する怒りだったんですね。

岡部 樋口中将の目線は、ずっと北(ソ連)に向けていましたからね。樋口中将は盟友の石原莞爾中将とともに参謀本部内で「不拡大主義」を主張し、日中戦争の早期終戦を目指して和平工作をしていました。それは、日中戦争よりもソ連対策のほうがよっぽど大事だということを見抜かれていたからだと思います。

残念ながら、和平工作は陸軍省との意見対立もあって失敗に終わりましたが、現代の我々から見ると、樋口・石原の不拡大方針がやっぱり正しかったわけです。日中戦争はどんどん広がって泥沼化していきましたから。

▲石原莞爾。樋口季一郎とは陸軍士官学校の同期生 出典:毎日新聞社「一億人の昭和史 1930年」(ウィキメディア・コモンズ)

樋口 日中戦争を長期化させてしまったのは、大きな間違いだったと思います。だけども、当時日本国内では「とにかく国民一体となって戦え」という意見が多数派で、新聞も小さな戦いの勝利を「勝った!」と書いて騒いでいました。そうなると軍人も有頂天になる。実際、表面上は連戦連勝ですからね。

だから、不拡大方針を唱えて和平工作をしていた祖父は「臆病軍人」と言われ、東條英機以下に快く思われていなかった。それで、1939年12月に“栄転”の形で第九師団長として金沢に送られ、体よく大本営から追い払われたわけです。
▲東條英機 出典:Fumeinab sakuseir-shau h(ウィキメディア・コモンズ)

結局、祖父が参謀本部第二(情報)部長として陸軍の中枢にいられたのは、1938年8月から翌年12月までのわずか15カ月間しかありません。ただ、金沢でも情報部長時代とそれほど変わらない重要な仕事をしていたとも言われています。ソ連関連の機密文書は、まず第九師団の敦賀に届けられるので、それを最初に読むのが祖父だったからです。

⚫︎今日の日本人に贈る、樋口季一郎の“遺言”
岡部 樋口中将が“栄転”される直前の1939年8月に、ドイツが仮想敵国であったはずのソ連と独ソ不可侵条約を締結すると、首相の平沼騏一郎(きいちろう)は「欧州情勢は複雑怪奇なり」との声明を発表して、政権を投げ出してしまいました。ようするに、ソ連をめぐる的確な欧州情勢分析ができていなかったということです。
▲平沼騏一郎 出典:国立国会図書館(ウィキメディア・コモンズ)

でも、日本としては、その“複雑怪奇”な欧州情勢をしっかりと把握しておかなくてはいけない。だから、樋口中将は情報部長時代に、信頼できる部下たちをバルト海沿岸の国々に投入しました。

それが、リガの小野打寛(おのうちひろし)武官であり、少し後に41年にストックホルムに赴任した小野寺信武官。さらに、カウナスの杉原千畝領事代理も樋口中将の意向だった可能性が高いと思います。

対ソのインテリジェンスを強化するため、ソ連を取り巻くバルト海沿岸諸国での情報網を整備したわけです。これは今日のロシアによるウクライナ侵略戦争を踏まえても、本当に慧眼だと思います。100年前のソ連も、今のロシアも、自国の安全保障のために近接する小国を影響下に置いて支配する、という卑劣な行動は基本的には同じですからね。

樋口 目的のためなら手段を選ばない。国際的な約束も平気で破って攻めてくる。まったく変わらないですね。

岡部 そういう国が相手だからこそ、インテリジェンスが重要になるわけですが、日本の中枢は「作戦重視、情報軽視」で、まったく現実を見ていませんでした。「日中戦争拡大」という作戦を主観的に重視し、「対ソ劣勢」という客観的な情報を軽視していました。樋口中将は、それを「主観が客観を制した」と表現し、「危険きわまりなきしだいである」と批判しています。

樋口 その言葉は、我々に対する祖父の遺言だと思います。とにかく日本という国は、主観が客観に優先する。だから、なかなか決断もできない。でも、これからの日本はそれじゃいけないよ、というね。

岡部 本当に正鵠を得ています。それはまさに、今日もなお続いている日本の最重要課題ですからね。

▲「決断のできない日本」のままではいけないと語る樋口氏
〇【北海道占領計画】スターリンの野望を止めた祖父の意志を残したい! 樋口隆一さんの思い


⚫︎プロフィール 樋口 季一郎(ひぐち・きいちろう)
ナチス・ドイツの迫害から逃れてきた大量のユダヤ人難民を満州(中国東北部)で救った陸軍将校(最終階級は中将)。満州国ハルビン特務機関長だった1938年3月、ソ連を通過してソ連・満州国境のオトポール(現ザバイカリスク)で立ち往生していたユダヤ人難民に食料や燃料を配給し、満州国の通過を認めさせた。その功績から、「樋口季一郎」の名前はユダヤ民族基金がユダヤ民族に貢献した人物を讃える「ゴールデンブック」に記載されている。また、1945年8月には、ポツダム宣言受諾後に北海道へ侵攻してきたソ連軍を独断で阻止し、日本が分断国家となるのを防いだ。
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⚠️ 地震活動度の「地下天気図」を解析 “地下の異常”が発生しているエリア 202205

2022-05-13 23:43:00 | ¿ はて?さて?びっくり!

地震活動度の「地下天気図」を解析 “地下の異常”が発生しているエリア
 Newsポストセブン より 220513


 東海大学海洋研究所客員教授で静岡県立大学グローバル地域センター客員教授の長尾年恭氏が解析する「地下天気図」とは
「21世紀はこれから大地揺乱の世紀に入ります。日本列島で地震も火山活動も増えていくでしょう」

【図解】地震活動度の地下天気図解析で判明した“地下の異常”が発生しているエリア


 そう語るのは、東海大学海洋研究所客員教授で静岡県立大学グローバル地域センター客員教授の長尾年恭氏だ。長尾氏は気象庁が公表する地震の震源データ(一元化カタログ)をもとに、独自開発したアルゴリズム(RTM法)で地震活動を解析し、地殻変動の異常を「地下天気図」として知らせている。

「地震学界では、発生する日時、場所、規模を高精度で予測する“地震予知”は現在の技術ではできないと結論づけています。しかし、地下でどんな異常が起きているかを把握することはできる。地下の異常現象を、天気図の『低気圧』『高気圧』になぞらえて視覚的に表現したのが地下天気図です」

 地図上に青色で示したのは地震活動が「静穏化」した地域、赤色は地震活動が「活発化」したエリアだ。

「地震学では、特に“嵐の前の静けさ”である『静穏化』の異常を注視します。一般的に、静穏化の異常が解消された後に地震が発生するケースが多いと考えられています。
2016年4月に発生した熊本地震は、その半年ほど前に静穏化のピークを観測し、
1995年の阪神・淡路大震災も静穏化の異常が見られなくなってから発生しています。また、
2018年6月にM6.1を観測した大阪府北部地震のように、静穏化の真っ最中に地震が発生することもあります」

 静穏化を示す4エリアのうち、長尾氏がとりわけ注意を促すのは九州地方南部だ。このエリアでは今年1月22日、宮崎・日向灘を震源とするM6.6、震度5強の地震が発生した。

「ここは南海トラフ地震の想定震源域に含まれ、M6.8以上を観測すれば、気象庁が『南海トラフ地震臨時情報(調査中)』という形で情報発表することになっています。
 マグニチュードは0.2違えばエネルギー量は約2倍違うのですが、想定震源域内で規模の大きな地震が起きたので専門家に緊張が走りました」

 2011年の東日本大震災の震源に近い東北沖エリアにも静穏化の異常が発生。その他の静穏化エリアの注意点は地図上に示した。

 一方、活発化の異常が顕著に出ているのが、石川県・能登半島だ。半島の先端に位置する珠洲市は2020年12月頃から隆起し続けており、約3cmも隆起した観測点もあるという。

「ものすごく広域的に地面が隆起しており、何らかの異変が起きていることは間違いない。異変の正体はまだ分かりませんが、地下水かマグマのような何らかの液体が溜まっているのだろうと考えられています。北陸地方では今年に入ってからも地震が頻発しています」

 こうした異常を把握し、どう向き合えば良いか。長尾氏はこう指摘する。

「地下天気図は『地下の異常』を示すもので、ただちに地震が起きることを予測するものではありませんが、該当地域の住民の方は、これを機に防災意識を高め、備えに役立ててほしい。該当しない地域では、高所の工事計画などにおける“安全情報”として活用いただきたい」

※週刊ポスト2022年5月20日号
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「神道」が1300年も生きのびてきた本当の理由 202205

2022-05-13 23:22:00 | なるほど  ふぅ〜ん

「神道」が1300年も生きのびてきた本当の理由
  東洋経済 onlain より 220513  島薗 進:宗教学者、東京大学名誉教授


⚫︎「神道」のイメージはどのようなものでしょうか?
 現在の私たちが知っている「神道」のイメージはどのようなものでしょうか。たとえば村や町の地域に必ずある鳥居と社殿。これが古代からあったもので、お寺と神社はまったく別のものというイメージではないでしょうか。
 しかし、その実際はかなり違います。このたび『教養としての神道:生きのびる神々』を上梓した神道研究の第一人者・島薗進氏が、その歴史を通して、神道の実像を解き明かしていきます。
⚫︎神仏習合によってこそ神々は生きのびてきた
 神道は日本で生まれ育った宗教だ。多くの日本人がそう思っている。だが、「神道とは何か?」と聞かれると、うまく答えられない。この問いへの答えを集めてみても、その中身は思い思いであり、立場ごとにバラバラという感じだ。

 試みに「神道はいつからあるのか?」という問いを投げかけてみよう。「神道の起源」についての問いである。農業が進む以前の縄文時代、列島の広い地域が森で覆われていた時代だ、という答えがある。
 神社には森(鎮守の森)が伴うこと、社殿ができる前の、自然の神秘のなかでの神々の祭りにこそ神道の原型があるという考えだ。いやいや、稲作農耕の儀礼とそれを代表する朝廷の祀りこそが神道の原型で、それが確立したのは7世紀の終わり頃だという議論がある。

 それらに対して、朝廷の祀りは全国の神祇祭祀に受け入れられたわけではなく、神道とよべるようなまとまりができてくるのはせいぜい平安時代だという議論もある。さらに、平安時代はもちろん鎌倉時代になっても、神道が自立した宗教となるには至っていない、室町時代になってはじめて教義や組織も備えた神道が成立する、といった議論もある。

 このように「神道とは何か」について意見が多様になる大きな理由の1つは、明治維新後に神道がどう変わったかが、わかりにくくなっていることにある。
 神仏分離が起こったために、それまでの神祗信仰のあり方がわかりにくくなってしまっていることが大きい。神仏習合によってこそ、神々は生きのびてきたという一面がある。

 祇園祭で知られる八坂神社は、かつて祇園感神院とよばれていた。「祇園」はお釈迦様が説法をした祇園精舎から来ている。人々は仏教の守護神、牛頭(ごず)天王のご利益を求めて参詣していた。スサノオノミコトが祭神というのはまったく新しいわけではないが、牛が頭に乗った牛頭天王の像が親しみ深かった時代が長かった。

 天竜川上流の秋葉神社は火伏せ(火災防止)の神として知られる三尺坊大権現を祀る施設として参拝者を集めていた。三尺坊というのは平安時代初期に実在したとされる密教的な行者だという。神仏分離後、秋葉神社には三尺坊大権現はいなくなり、迦具土神を祀っている。記紀神話に記載されているが、民間にはあまり知られていなかった神を祭神としたのは明治維新後のことだ。

 この例のように山岳信仰は神道の歴史で大きな役割を果たしてきた。その山岳信仰は神仏習合の修験道が導き手だった。明治維新後の神仏分離で、これらの礼拝施設から仏教色が排除された。儒学を学んだ武士が江戸時代にいくつかの藩で行ったことを維新政府が旗を振って強引に推し進めたのだ。

⚫︎神仏習合で生きのびた神々
 では、八坂神社や秋葉神社の神道信仰の歴史は、明治維新後に始まるのだろうか。もちろんそんなことはない。八幡信仰、稲荷信仰、山岳信仰などの歴史は奈良時代、あるいはそれ以前までさかのぼる。
 神道の歴史を語るとき、奈良時代の神仏習合の傾向が強い八幡信仰や稲荷信仰を語らないわけにいかないだろう。その頃からすでに神仏習合が始まっており、それによってこそ、八幡や稲荷は、霊威ある神祇として崇敬を集めてきた。今でも稲荷神(ダキニ天)を祀って参詣者が多い豊川稲荷妙厳寺のようなお寺もある。

 しかし、さらにそれ以前はどうか。たとえば、宗像大社、大神神社、出雲大社、諏訪大社などの神祇信仰には古代国家以前の信仰の面影がうかがえる。社殿のない聖地や訪れる神の面影が後代にも残ってきた。沖縄やアイヌの信仰とも、縄文時代の信仰にも通じるのではないかと考えられている。

 こんな古代国家や文字文明以前の信仰が、神祇信仰を通して古代、中世、近世、近代と生きのびて、現代にまで大きな力を及ぼしてきている。古代国家以前からの神々がこのように生きのびてきたのは、世界のなかでもあまり例がないことだ。
 自然のなかの霊や霊的な力、また死者の霊を身近に感じる日本の文化はアニミズム的とよばれることもある。アニミズム的な文化と、古代以前の神々が生きのびてきたことには深い関わりがある。

⚫︎神仏習合と朝廷・国家祭祀
 では、どのようにして神々は生きのびてきたのか。仏教の力を借りて、神仏習合の形をとることによってという要因を考えなくてはならない。神仏習合は神祗信仰の歴史の一部だし、神道の歴史の一部でもある。

 だが、神道が長い歴史を生きのびてきたもう1つの大きな要因がある。それは古代において、国家と朝廷の祭祀が組織化されたということだ。この組織化の画期と言えるのは、7世紀の末、天武・持統朝であり、中国にならって律令制度が組み立てられたときだ。

 太政官と並んで神祇官が設けられ、朝廷の稲作儀礼の祭祀を軸に全国の神祇への班幣(幣帛の班給)の制度が作られ、天照大神の下での天皇による国家統治を説く記紀が編纂され、皇室の祖先神を祀る伊勢神宮の祭祀と国家の連携が堅固なものとなった。
 古代国家が神道儀礼と神道の神話を備えたシステムを作ったのだ。

 この古代の律令国家の神道システムは、「天」を祀る中国の国家体制にならったが、遠い「天」よりも「土」の匂いがする神々をも祀ったのは日本風だ。ただし、当時は朝廷や国家の儀礼が多くの人々の生活に影響を与えるようなものではなかった。
 だが、祭祀システムと神話的な伝承が王権を支え、政治体制の背後で神聖な国家秩序の基礎にあるという意識は続いてきた。

 このように考えると、7世紀末以来、神道には国家祭祀と神仏習合の信仰という2本の大きな柱があって、双方はしばしばまるで別個のもののように展開し、対立することもあったが、実は影響し合い、支え合うような関係にもあったと捉えることができる。

(6月24日(金)に島薗進さんの『教養としての神道:生きのびる神々』刊行記念オンラインイベントを実施します。)

 興味深いことは、すでに記紀神話にこの2本立ての体制が自ら描き出されていることだ。王権の神的起源を描くことに主眼がある記紀神話だが、それにしては出雲神話に多くのスペースがさかれている。アマテラスよりも、スサノオやオオクニヌシのほうが活躍し、心に焼き付くキャラクターなのだ。
 つまり、記紀神話は天津神よりも国津神のほうに親しみがもてるように描かれており、その両者がともに主役というような構成になっている。

 実際、古代律令体制の下の国家的な神道祭祀は、ややさえない出発だった。幣帛を全国の神祇に班給する制度は長続きしなかった。
 記紀神話が人々の生活に影響を及ぼすような事態も少なかった。だが、後代にいくつかの大きな転機を経て、記紀神話や朝廷や国家の神道祭祀は強化され、影響力を強めていく。

⚫︎儒学者らが育てた国体論
 本地垂迹説や中世神話とよばれるような記紀解釈の新たな展開があり、やがて国家の枠の外での神道独自の組織や思想の展開があり、15世紀には吉田神道のような政治力をもった組織も形成される。
 他方、中国の儒学思想の影響を受けながら、日本の国家秩序の神聖性について理論化する試みも起こる。14世紀の北畠親房はその早い例だが、江戸時代には儒家神道や水戸学を尊ぶ歴史研究が進み、やがて神権的国体論が形成されていく。

 織豊政権から江戸時代の初期に至る時期、そして明治維新と、2つの大きな転機を経て、国家祭祀と国家中枢の神聖性は強化されていった。神道はじわじわと力を付けていき、近代の国家神道や神権的国体論に至る。
 ついには小学校に教育勅語や天皇の肖像を収めた奉安殿ができ、子どもたちが毎日、礼拝するまでに至ったのだ。水戸学のような儒学思想の影響が大きかったが、万世一系の天皇統治を裏付ける「天壌無窮の神勅」は記紀神話に由来するものだ。

 日本の宗教文化の特徴を語るには、国家神道とアニミズムに触れざるをえない。そして、そのどちらも、神道の歴史を振り返り、仏教や儒教にも言及しないとなかなか説明しにくいのだ。しかし、神道史の大きな流れを捉えるとぐっと視界が開け、説明しやすくなるだろう。
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☂️🚶‍♀️…伏見区向島農地… 220513‘

2022-05-13 17:33:00 | 🚶 歩く
☂️🚙↔︎🚉
☂️🚶‍♀️…右岸河川敷…隠元橋…左岸堤防道…同:47km碑+…伏見区向島区向島(鷹場町↑藤ノ木町↑鷹場町⇄↓清水町↓渡シ場→左岸堤防道47.4km碑…隠元橋…右岸河川敷…>
🚶‍♀️12496歩2kg

☂️:隠元橋22℃〜21℃

小雨模様の醍醐山系がかすみたなびくというか立ち上りなかなか幻想的景観

向島農地でいよいよ田植え始まる
 渡シ場町農地で初🐸の声!


醍醐山系

同上

同上

向島農地やっと田植え始まる(藤ノ木町)



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IBMのクリシュナCEO、「AIは重要な転換点に近づいている」  

2022-05-13 03:24:00 | 気になる モノ・コト

IBMのクリシュナCEO、「AIは重要な転換点に近づいている」
Stephanie Condon (ZDNet.com) 翻訳校正: 編集部 220513


 米国ボストンで開催された「IBM Think」カンファレンスに先立ち、最高経営責任者(CEO)のArvind Krishna氏は取材陣に対して、グローバル市場は人工知能(AI)の重要な転換点を迎えようとしており、大幅な生産性拡大を実現する可能性があると語った。

 この主張を裏付けるように、IBMは、「2022 Global AI Adoption Index」(世界のAI導入状況2022年)を発表した。意思決定権を持つ上級管理職7502人を対象とした調査だ。これによると、現在事業にAIを取り入れている企業は35%で、前年から4ポイント増加している。また、企業の30%は、AIや自動化関連の最新ソフトウェアやツールを導入することで、従業員の時間節約につながったと回答した。

 Krishna氏は、これらの数字は今後も着実に伸び続け、「50%前後で転換点を迎えるだろう。その後は90%まで急上昇する。つまり、今はこの転換点まであと少しの地点で、それはこうした生産性を引き出すものになる」と述べた。

 同氏はPWCのレポートに言及し、AIの導入がこのレベルまで拡大すれば、2030年までにおよそ16兆ドル(約2000兆円)規模の経済効果が期待できると述べている。

 IBM Thinkカンファレンスでは、IBMがマクドナルドといった顧客と連携し、どのように実用的なAIユースケースを展開しているかが紹介された。Krishna氏は、急成長するAI市場で、IBMがどのように存在感を維持するかを顧客、パートナー、投資家に示す狙いがあるようだ。同社は2022年に入り、かつて「戦略的インペラティブ」の1つと位置付けていた「Watson Health」事業の一部を売却すると発表している。

 Krishna氏は取材陣に対し、IBMはAI業界のリーダーポジションを狙っていることに変わりはないものの、壮大な「ムーンショット」プロジェクトに注力するつもりはないと語った。

 「今年、来年、そしてその翌年、顧客に価値を提供することに取り組まなければならない」と同氏は言う。「さらに、ムーンショットと位置づけているいくつかに取り組むかもしれない」

 さらに同氏は、「(AIにおける)ヘルスケアの例は実現しうると考えている」と述べた。「しかし、これらの問題がいかに困難かを考えれば、成果を得るには数年あるいは10年以上を要するかもしれない。問題は生死にかかわるものだ」

 Krishna氏は、究極のムーンショットともいえる汎用化されたAIの開発について、実現には遠く及ばないと考えていると述べた。科学者を対象に行った各種調査によると、そのようなAIが実現するのは2050~2075年あたりになるというのが大方の見方だという。

 当面、IBMなどの企業は顧客の主要なプロセスの自動化を支援できるとKrishna氏は言う。実際に、マクドナルドはIBMのAIを導入して、顧客から注文を受けるプロセスを自動化している。IBMは顧客企業と協力し、ITプロセスにAIを導入しようとしている。

 「AIが急速に成長している理由は、現在250京バイトのデータが毎日生成されている現状にある」とKrishna氏は言う。「どれだけの人がいても処理できる量ではなく、古いアナリティクスやデータベース技術では不十分だ。AIはそのデータを活用し、インサイトを得ることができる唯一のツールだ」

この記事は海外Red Ventures発の記事を朝日インタラクティブが日本向けに編集したものです。
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