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製造業の国内回帰始まる、建材受注増加、人件費安が魅力-東製鉄  202205

2022-05-16 23:41:00 | 気になる モノ・コト

製造業の国内回帰始まる、建材受注増加、人件費安が魅力-東製鉄
 Bloomberg より 220516 菅磨澄、佐野七緒


(ブルームバーグ): 製造業が今後急速に国内に戻り、「プチ建設ブーム」が来る。東京製鉄の今村清志常務は、歴史的な為替のドル高・円安推移や地政学的なリスクなどの高まりから、すでに製造業の国内回帰が始まっているとの見方を示した。

  9日のブルームバーグのインタビューで答えた。建材商品の受注が今年に入り前年比1割増となっており、「国内回帰という動きが新たに出てきている」ことが需要増の主因だと話した。

  生産拠点を国内に戻す動きは自動車部品や家電、化粧品、食品などさまざまな業界で始まっているという。受注は今秋からさらに増えるとみており、この傾向は「3━4年は続くのではないか」と予想する。

  今村氏は、新型コロナウイルスの感染拡大を受けた供給網の混乱やロシアのウクライナ侵攻への懸念に加え、円が対ドルで約20年ぶりの安値水準にある中で国内の「人件費が安い」ことが国内回帰を後押ししているとみる。国内で海外よりも安く製品を製造できるようになるため、「円安は少なくとも製造業にとっては、戻ってくる人たちにとってはチャンス」だと強調した。

  国内の製造業の多くはこれまで、長引くドル安・円高傾向の下で海外へと生産拠点を移転させてきた。一方で、国内生産の空洞化が懸念され、日本政府は近年、国内回帰の動きを支援してきている。国際協力銀行(JBIC)によると、2001年に25%だった海外生産比率は18年には37%まで上昇。その後、33%台に下落している。

  経済産業省の国内投資を促進する事業に対する補助金制度では昨年7月発表分までで、供給途絶リスク解消のための国内生産拠点整備で100社以上が採択されている。

  住友商事グローバルリサーチ経済部の担当部長・チーフエコノミスト、本間隆行氏は「国内回帰につながる状況ができていたところで円安になった」と指摘。こうした状況下で今後「国内生産の能力を増強する企業が増えてもおかしくない」と説明した。

  一方、国内回帰の動きがどれぐらい浸透し、国内全体の建材需要をけん引していくかは未知数だ。世界的な資源高を背景に国内でも鋼材など資機材の価格が高騰し、建設コストを押し上げている。

止まらない鋼材価格の高騰ー異例の主原料高で4月以降更なる値上げへ

  立花証券の入沢健アナリストは、国内全体でみると建設向けの鋼材需要はそれほど強くないと指摘。回帰の動きは国内の建材需要を支える要因にはなるが、鋼材価格がこれだけ高くなっていると製造拠点移転を決断させる上で制約要因となる可能性があり、「円安が即プラスという形にはなりづらい」との見方を示した。

  また、野村アセットマネジメントの石黒英之シニア・ストラテジストは、長期目線で経営するのであればグローバルな販売網、物流網を含めて最適なコストを追求していくべきで、いつどうなるか見通しにくい為替の動きだけで国内回帰を判断するのは難しいのではないかと指摘した。

©2022 Bloomberg L.P.
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🍱 日清、33の栄養素を摂取できる「完全メシ」。カレーやラ王 202205

2022-05-16 23:33:00 | 気になる モノ・コト

日清、33の栄養素を摂取できる「完全メシ」。カレーやラ王
 ImpressWatch より 220516  加藤綾

 日清食品は、栄養素をバランスよく摂取できる新ブランド「完全メシ」を立ち上げ、「欧風カレー」「豚辛ラ王 油そば」など5品を、5月30日に日清食品グループ オンラインストアで発売する。
 213円から429円。全種類が試せるセットも、1,623円で販売する。

 日清食品では、見た目やおいしさはそのままに、カロリーや塩分、糖質、脂質、たんぱく質などがコントロールされ、「日本人の食事摂取基準」で設定された33種類の栄養素をバランスよく摂取できる食事の開発に取り組んでいる。
 完全メシブランドでは、このコンセプトにのっとった商品を展開する。

 ラインアップは、
「完全メシ カレーメシ 欧風カレー」「完全メシ 豚辛ラ王 油そば」
「完全メシ グリーンスムージー」「完全メシ バナナスムージー」
「完全メシ 大豆グラノーラ 60g」。
「たんぱく質、脂質、炭水化物の三大栄養素のバランスがパーフェクト」としており、ビタミン、ミネラル、必須脂肪酸もバランスよく摂れるという。

 完全メシでは、
※栄養素のエグみや苦みを感じることなくおいしく食べられるようにする「おいしさの再現技術」、
※少量の塩でもおいしく感じられるようにする「減塩技術」、
※米本来のおいしさはそのままに栄養摂取も可能にした「米の加工技術」、
※麺の中心層の一部に栄養素を配合した「三層麺製法技術」、
※肉本来のおいしさはそのままに大豆たん白や野菜などを混ぜてフリーズドライした「肉の加工技術」など、
 日清食品の最新フードテクノロジーが活用されている。

 ラインアップについては、“栄養バランスを考えるのがめんどくさい”“健康的にダイエットしたい”など、様々なニーズに応える狙いで、カップ麺、カップライス、スムージー、グラノーラのバリエーションを取り揃えている。

 欧風カレー、豚辛ラ王 油そばについては、全国の医療機関に従事する管理栄養士291名を対象に実施したアンケート調査において、9割から「食事の選択肢の一つとして活用してほしい」との回答を得られたという。

 価格は、
欧風カレーと豚辛ラ王 油そばが各429円、
グリーンスムージーとバナナスムージーが各375円、
大豆グラノーラが213円。
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🚞 近鉄生駒線・旧東信貴鋼索線開業100周年記念イベント、臨時急行も 2022/05〜

2022-05-16 23:24:00 | 〽️ 行事・新案内等 控え

近鉄生駒線・旧東信貴鋼索線開業100周年記念イベント、臨時急行も
 マイナビニュース より 220516 新田浩之


 近畿日本鉄道は16日,王寺駅にて生駒線•旧東信貴鋼索線開業100周年記念イベントを実施。
 当日は王寺駅から生駒線を経由し、大阪上本町駅へ向かう臨時急行も運行された。

近鉄、西信貴ケーブル車両リニューアル - 試乗会開催、貨車も連結

 生駒線は王寺駅(奈良県王寺町)と生駒駅(奈良県生駒市)を結ぶ全長12.4kmの路線。1922(大正11)年5月16日、近鉄の前身である信貴生駒電気鉄道により、王寺~信貴山下間の鉄道線と信貴山下~信貴山間の鋼索線が開通した。
 1927(昭和2)年に王寺~生駒間が全通し、後に近鉄が事業を継承した。
 1983(昭和58)年、東信貴鋼索線(信貴山下~信貴山間)が廃止され、現在に至る。

■臨時急行が王寺駅から大阪上本町駅まで往復
 記念イベントでは,最初に近畿日本鉄道執行役員鉄道本部大阪統括部長の大内敬弘氏が挨拶。多くの沿線利用者や鉄道ファンらが集まったこともあり、「生駒線が皆さんに愛されているということ」と感想を述べた。
 続いて沿線自治体である王寺町長の平井康之氏が挨拶し、王寺駅にJR大和路線(関西本線)・和歌山線と近鉄生駒線、新王寺駅に近鉄田原本線が集うことから、「交通インフラを活用し、地域の活性化につなげることが王寺町のミッション」と決意を新たにした。

 テープカットが行われた後、開業100周年に際して日本郵便が販売したオリジナルフレーム切手が近鉄へ、王寺町・三郷町と地元沿線高校がデザイン制作した記念ヘッドマークのレプリカが自治体2町・高校2校へ贈呈された。
 なお、オリジナルフレーム切手は簡易郵便局を除く奈良県 香芝市、平群町、王寺町、河合町、三郷町、上牧町、広陵町、斑鳩町の全郵便局(計27局)にて、1シート(84円切手×10枚)1,470円で販売される。
 ネットショップでは5月25日の午前0時15分から販売される。

 10時40分、大阪上本町行の臨時急行が王寺駅を発車した。使用車両は1021系4両編成。復路も大阪上本町発王寺行で運行され、途中の生駒駅でスイッチバックが行われた様子だった。
 生駒線では6月30日まで、線内の列車に記念ヘッドマークも掲出。
平日は王寺駅7時35分発から同駅17時47分着までの計28本、
土休日は王寺駅7時54分発から同駅17時44分着までの計28本を対象に掲出するとのことだった。

■信貴山下駅に旧東信貴鋼索線のケーブルカーも
 記念イベントの後、筆者は生駒線の列車に乗車した。
 生駒線のダイヤは王寺~生駒間の線内を走る普通を基本とし、日中時間帯は1時間あたり3本を運転。
 朝のラッシュ時に東山~生駒間の区間列車(普通)も運転される。
 列車は4両編成で、2004(平成16)年からワンマン運転を実施している。

 王寺駅から大阪市中心部へ向かう場合、難波まで30~35分程度でアクセス可能なJR大和路線の利用が一般的と考えられる。
 生駒線経由の場合、王寺駅から生駒駅だけでも約25分を要する。

 王寺駅で生駒行の列車に乗り、次の信貴山下駅で下車。旧東信貴鋼索線の始発駅だった同駅の駅舎の横に、東信貴鋼索線で活躍したケーブルカー「コ9形9車両」が美しい姿で保存されていた。 現在は駅前からバスで信貴山へ行くことができる。

 信貴山下駅から再び生駒行の列車に乗車。
日中時間帯の車内は、各車両に10~20人程度が乗車しており、学生の姿が目立った。
 生駒線の中間地点に近い元山上口駅を発車すると、車窓に見える木々が増え、スピードを落としながら列車はトンネルを通過する。

 次の東山駅は近大奈良病院の最寄駅。ここで初めて乗車客が降車客を大きく上回った。
沿線に一戸建てやアパートが増え、生駒駅へ近づくにつれて乗客も増え、車内も6割ほど埋まった。
 終点の生駒駅は近鉄奈良線・けいはんな線との接続駅で、生駒線の乗客の多くが難波方面に向かう奈良線へ乗り換えた様子だった。

 普段、生駒線では急行などの優等列車は運行されないが、沿線住民にとって欠かせない足となっていることがうかがえた。
 信貴山朝護孫子寺のある信貴山と組み合わせて生駒線を訪れることで、有意義な小旅行になるかもしれないと思った。
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コロナが浮き彫りにした、西洋と日本の「死生観」の違い 日本人に求められる「価値観」とは 202205

2022-05-16 21:03:00 | なるほど  ふぅ〜ん

コロナが浮き彫りにした、西洋と日本の「死生観」の違い 日本人に求められる「価値観」とは
  デイリー新潮:新潮社 より 220516


 得体の知れないウイルスが襲いかかってきた時、我々は遠ざけようとし、しかし決して避けられない現実を思い知らされた。「死」。受け入れ難(がた)くも受け入れざるを得ないこの不条理とどう向き合うべきなのか。「ポスト・コロナ」論。日本人の死生観を問う。【佐伯啓思/京都大学名誉教授】

 ***

 コロナ禍が始まってすでに2年超が経過した。この疫禍は我々に何をもたらしたのであろうか。

 社会は混乱して、閉塞感が覆い尽くし、経済は停滞した。しかし、これらはいずれもコロナ禍の「現象」であって、「本質」ではあるまい。

 感染症とは、つまるところ自然による人間への襲撃である。それを前にして我々はほとんど無力だった。マスクをし、手洗いを徹底する程度のことはできたものの、実態としてそれ以上はどうすることもできなかった。ワクチンは一定の効果を上げたが、また次の変異ウイルスが出てくる。このような感染症は、営々と築き上げてきた近代文明の力をもってしてもいかんともしがたく、科学技術の進歩によって解決できるものでもない。

⚫︎突然の「死」という厳然たる事実
 だが、考えてみれば当たり前のことだ。自然災害、戦争、飢餓、そして疫病。我々は常にこれらの不条理に囲まれて生きているのである。にもかかわらず、近代社会において我々は、不条理を視界から消し去ろうとした。万事、科学と技術によって合理的に解決できると信じ込もうとした。それこそが、近代の近代たるゆえんなのだと。

 ところが新型コロナウイルスは、この考え方が大間違いであったことを白日の下にさらした。不条理は合理的に解決することはできない、だからこそ不条理なのだという至極当然の事実へと我々を連れ戻した。

 コロナ禍の不条理、それは突然の「死」という厳然たる事実である。もちろん、コロナでなくとも、最終的に我々は死から逃れることはできない。結局のところ、できることといえば死という不条理をどのように受け入れるかという準備と覚悟を持つことしかない。そのことに我々は改めて気付かされた。そうであれば、現在、我々は死への覚悟の決め方、すなわち死生観を今一度問われていることになる。

〈社会思想家である京都大学名誉教授の佐伯啓思氏は、近年、日本人の死生観についての思索を深めてきた。大きなきっかけは2011年の東日本大震災だったというが、コロナ禍もまた、我々が死生観を問い直す“奇貨”であったのではないかと説く。まずは、この2年超の日本社会のあり様を佐伯氏が振り返る。〉

 コロナ禍により日本社会は大きく動揺した。無論、揺れ動いたのは日本だけではなかったが、西洋社会とは様相を異にしていた。

⚫︎「個体の死」より「集団の生」が優先される西洋
 西洋のコロナ対応が成功したとは必ずしもいえないが、少なくとも「覚悟の仕方」が日本よりも激しいものだったとはいえよう。まず政府はロックダウンで全ての動きを止めてしまう。それを仕方のないこととして市民も受け入れる。一方で、ひとたび感染者が減少に向かうと、ロックダウンを解除し、あとは基本的に市民の自由に任せる。そこから先は自分で身を守るよう、市民の側に責任が委ねられたのである。あるところまでは政府が責任を持つが、それ以降は自己責任で動いてくれということだ。

 良い悪いの判断はおくにしても、少なくともこうした対応は方針としては分かりやすい。そこには多分に西洋の価値観が反映されていたといってよかろう。

 第一段階として、まず国家があり、政府は国民の安全保障への強い責任を負い、国民もそれに協力する。その前提のもとで市民社会の自由が確保される。

 つまり、市民の自由は無条件ではなく、社会の維持のためには個人の自由や経済活動が制限されることも、また個人の生命が犠牲になることもやむを得ないという考え方がまずある。これは「個体の死」よりも「集団の生」が優先されることがあり得るという西洋的な思想の表れであろう。

⚫︎「コロナとの戦争」という捉え方
 この考えは、基本的に陸続きであり、戦争によって常に国の存立が脅かされてきた西洋で、歴史的に作られてきた政治思想に基づいたものといえよう。だから、今回の疫禍も「コロナとの戦争」なのであり、覚悟の仕方が違った。

 個人の自由よりも、社会が壊れるのを防ぐという強権的なロックダウンを市民に要求するのは、生存が脅かされる「戦争」の発想があるからだ。そうやって彼らは、個体の生存よりも種の生存、つまり現代では国という社会共同体の維持を優先した。

 それが一定の成果を上げると今度は一転して、自己責任で個体の生を個人の手に委ねたのである。繰り返すが、それが奏功したのかは分からない。ただ、そこに彼らの死生観が垣間見られたのである。

君たちはどう生きるか

⚫︎どちらの派閥からも批判される政府
 翻って日本はどうだったか。コロナへの対処は極めて曖昧だった。「自粛」がその象徴である。ロックダウンで縛るのでもなく、かといって市民に完全なる自由を許すわけでもない。「生命尊重派」と「経済優先派」のはざまで、世論・メディアから突き上げられた政府はその都度調整を図り、結果、中庸的な対策をとる。そして、どちらからも批判される。

 これは、いかにも能率が悪いし、分かりにくい。少なくとも、集団が生き残るための戦いなのだという発想は日本には全くなかった。しかし、それが日本のやり方なのである。我々はそういう文化を育んできた。その限界の中で、日本政府はそれなりにやれることをやったというべきであろう。

⚫︎日本のやり方は、社会に寛容さが求められる
 ただし、日本のやり方がうまくゆくには、社会に寛容さや成熟が求められる。経済的な補償に関して言えば、例えばひとりで居酒屋を経営していれば店を閉めて協力金をもらったほうが普段より潤うこともあり、どうしてもアンバランスが生じる。それを、致し方のないこととして許容する寛容さがなければ、日本の中庸的な対策は功を奏さない。

 現代の日本においてはその寛容さが失われてしまった。だから、政府は常にどちらからも批判され続けることになったのである。だがどうして寛容さが失われたのか。

 第一に、戦後民主主義なるものが過度なまでの形式的平等主義に陥り、結果として寛容さを認めなくなったからであろう。「中庸型」のやり方がうまくゆくには、権利や利益の主張よりも、相互の配慮や、自ら身を引くという自制が必要である。
 もともと日本にはこうした自動調整機能が存在した。しかし戦後、誰もが自分の権利を主張し、それを戦わせることこそが正義だとされ、自動調整機能が働かなくなってしまった。

⚫︎結論が出ぬまま2年超が経過
 第二に、1980年代以降のグローバル資本主義がある。あくなき成長、進歩、開発を強いる新自由主義的なグローバル競争により、誰もが疲弊した。ギリギリのところでの競争を余儀なくされ、今のポジションを失えば待っているのは転落だけだというような過酷な状況に追い込まれていった。
 端的に言えば他人のことなど考えている余裕はなくなってしまったのだ。そこに、得体の知れない新型コロナウイルスが襲来し、恐怖、不安に苛まれてますます余裕が失われた。

 コロナ禍を前にして、西洋型の国家観念や死生観に依拠するのか、あるいは中庸的で自動調整的な日本型を寛容さのもとで受け入れていくのか。結局、結論が出されることなく、2年超が経過した。そしてここにきて、重症化率が下がり、有り体に言えば「まあ、コロナにかかっても死にやしない」という状況に至って、何とかこのままやり過ごそうという雰囲気が生まれたのである。

⚫︎不条理と向き合う覚悟が必要
 しかし、いずれ必ず新たな疫禍は襲ってくるし、巨大な自然災害も起きる。戦争の脅威も他人事ではない。我々がまた不条理に直面するのは確実だ。そうなった時に、どこまで政府が介入し、どこまで個人の自由に委ねるのか、また相互の信頼や寛容の気質をどのように醸成するのか。
 それを今から議論しておかなければ、「新・新型コロナウイルス」が現れた時に、日本社会は今回と同じ混乱を繰り返すに違いない。不条理とどう向き合うのかという覚悟のあり様が求められているのだ。

 では、覚悟とは何か。それは、突き詰めれば死生観にたどり着く。誰もが死にたくない。ましてや得体の知れないウイルスになど侵されて死にたくない。

 しかし、コロナ禍で我々は、否応なく生物体の「死」を再認識させられた。それは結局のところ、死に直面した際、それを受け入れる覚悟をどう持つのかという話になる。逆に言えば、今さらながら死生観をうんぬんしなければならないほどに、我々は「死」を遠ざけてきたといえよう。

⚫︎死を隠してきた近代文明
 近代文明は科学や技術を発展させてきたが、それは医学にしろ生命科学にしろ、「死の脅威」との戦いであった。そうやって、不条理な死を遠ざけようとしてきた。裏返せば、「生」を無限に欲望してきたということでもある。「生きること」「生の楽しみの享受」のみに価値を置き、死を社会の表層から隠そうとしてきた。

 しかし、人間とは死すべき存在であるという自明の理へと我々は戻された。我々の生が死に取り囲まれていることを改めて知らされたのである。なにしろ、人間が作り出した壮大な文明は、目に見えない微小なウイルスの前でほとんど力を持たなかったのだ。

 そして「死」が「生」の最終段階である以上、「生き方」は「死に方」と相関している。そうであるならば、死を前提とし、そこから逆算して各自が生き方を自問自答しなければなるまい。これが死生観が問われているというゆえんだ。

 思い返せば、一昨年、初めて緊急事態宣言が出された際、それでもパチンコ屋に群がる人たちが話題となった。ひたすらパチンコに興じて死んでいくのでいいのかどうか――。いずれにせよ、死の受け入れ方が各々に問われているのである。

⚫︎なぜ墓参りという習慣がずっと続いているのか
 では死生観、すなわち死を受け入れる価値観をどうやって我が物とすることができるのか。ごく簡単に言えば、そこには霊性、広い意味での宗教観が求められるであろう。宗教とは、死に臨んでも安らげるように、死に向かう覚悟を与える「装置」である。
 永遠の魂を信じるのか、先祖を信仰するのか、死後はいっさい「無」だと割り切るのか、形はさまざまであろう。だがそれぞれが何らかの宗教観や霊性への意識を持たなければ、「死に方」すなわち真の「生き方」を見つめ直すことはできまい。

 霊性などというと、ややもするとオカルト的に受け取られがちである。しかし、例えばお盆を考えてみる。先人たちは、死者によって生者は見守られていると考えた。だから死者が戻ってくるための祭祀を行った。

 確かに祖霊などに何の科学的根拠もない。しかし、あえて、死者に見つめられているというストーリーを共有することで、生者の側にある程度の倫理観が保たれた。また生者の心に死を刻むことができた。

 なによりもそう考えることで、生を意味付けたり、楽にしたりすることができる。これは一例であるが、我々はなぜお墓参りをするのか、どうしてこうした習慣がずっと続いているのかを考えれば、今日でも我々は決して霊性を失ってしまったわけではない。

⚫︎窮屈なまでの潔癖主義
 そもそも科学的根拠を絶対視する、すなわち合理的であることのみに価値を置く思想は、西洋的近代精神によって大きく開花した。極東に位置しているにもかかわらず、日本は戦後、この近代合理主義を妄信してきた。その結果、死という受け入れ難いものをうまい具合に抱え込むといった先人からの知恵が見えなくなってしまった。
 例えば、世界を超越した絶対神を信仰の基盤とするユダヤ・キリスト教と異なり、現世を「生々流転」「万物一体」といった世界とみるような価値観が日本にはある。

 こうして「借り物」として西洋の近代合理主義を受け入れた日本は、不必要に、そして過剰なほどにそれを奉り、今日、ある種の窮屈なまでの潔癖主義に陥っている。曖昧さをうまく残すことを許容できなくなってしまった。すべて性急に白か黒か断定しなければ気がすまなくなっている。

 これでは我々の精神の自由は失われる。合理的には処理できない曖昧さや不条理にも何らかの意味を見出し、うまく対処するという柔軟な態度こそが本来の意味での精神の自由であり、現下の潔癖主義はその逆ではなかろうか。

⚫︎伝統的な自然観、死生観
 ウクライナの情勢を見てもそうだが、世界中で不確実性と不条理が顕在化している。限りなく自由や富を欲し、合理的科学や技術を推し進めれば、無限に進歩できるなどと信じられる時代は終わった。

 今日、求められるのは、自然を脅威とみなして管理しようとする西洋発の近代的価値観ではない。そうではなく、日本文化のなかで育まれてきた価値観、すなわち我々は常に不条理に囲まれた限定された存在であり、人間の理解を超えた領域があるという自然観や死生観ではなかろうか。

 元来、日本には身の程を知り、欲望を抑えるという考え方があった。それは、科学の進歩によって死の脅威を抑え込み、もっぱら生の快楽を追求する近代的な「生の無限欲望」とは対極のものであったはずだと私には思えるのである。


⚫︎佐伯啓思 京都大学名誉教授。1949年生まれ。東京大学経済学部卒業。
専門は社会経済学、社会思想史。サントリー学芸賞や読売論壇賞、正論大賞などの受賞歴がある。『近代の虚妄 現代文明論序説』(東洋経済新報社)、『死と生』(新潮新書)『死にかた論』(新潮選書)等、著書多数。

「週刊新潮」2022年5月5・12日号 掲載
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🚶‍♀️…槙島:奈良街道…城陽宇治線…なか卯… 220516

2022-05-16 20:20:00 | 🚶 歩く
🚶‍♀️…右岸堤防道…太閤堤跡公園…宇治橋…JR線沿…JR宇治駅:駅越え…駅北側…宇治小倉引込線…作業池西沿…奈良街道…近鉄奈良線踏切前…奈良街道1本南沿道…城陽宇治線…丸亀製麺😔…城陽宇治線北へ…京滋バイパス沿西へ…なか卯🍱…バイパス側道沿東へ…宇治川高架橋…Alp沿…右岸堤防道…>
🚶‍♀️12245歩2kg+166歩

⛅️:宇治川高架橋22℃:陽射しがちょっとで今宵も月見だめか…

朝から昼迄:低体温不調35.4℃
 散歩コースは夕食によって決まる⁈

 夕食はうどんと決めるも丸亀かなか卯かで丸亀メニューの狙いの品:持帰り不可で結局なか卯(親子うどん,肉皿,鶏天,玉子プリン)美味
丼もいいがうどんも!

夜)🚙~右岸側~観月橋Std~24号線~🚉〜>

月の出からずっと見えずだったが深夜にやっと!

奈良街道1本南で

同上



24:26十六夜月🌕月齢15.8 朧月。不知夜月








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