いよいよ頼朝の挙兵ですが、順風満帆とはいかない様です
頼朝の乳母だった山内尼の息子・山内首藤経俊にまで拒絶
される有様
いつでもポジティブな宗時とは対照的に強気にはなれない
義時でしたね
兵の数24人と聞いた頼朝「まるで年寄りの寄り合いじゃ」
とほぼ戦意消失状態になるのも仕方ありません
北条だけで30人の兵数だと言われていますので、挙兵に
参加した兵数は100人前後とみるのが妥当です
いかに強気の宗時だとしても24人の兵では流石に挙兵を
自重せざるを得せんよね
三浦で1000人、大庭と伊東で3000人と言われていますので、
石橋山の戦いに三浦軍が間に合えば頼朝軍が惨敗する事は
なかったかもしれません
結果的には大敗し安房まで逃れ、その後見る見るうちに大軍
となるのですから分からないものです
頼朝が大軍を得たのは三浦軍が間に合わなかったお陰なのか
も知れません。
人の運というのは本当に分からないものですね
ところで
頼朝の誘いを辛らつな言葉で拒絶した山内首藤経俊ですが、
経俊の父と兄は平治の乱で義朝軍として戦い討ち死にしてい
ます
経俊にすればトラウマがあったのでしょうか?
源氏についてもろくな事が無いと思ったとしても不思議有り
ません
石橋山の戦いの後、経俊は捕まり斬首が決まっていましたが、
源家累代に対しての山内家の忠誠心を盾に尼の必死の説得が
開始
尼の哀願に対し頼朝は石橋山の決戦の際、経俊に射られた兜
を見せると尼はそれ以上何も言わなくなったと言われていま
す
兜に矢が刺さったと 言う事は、頼朝が死んでいたかも知れな
い事を意味します。
言葉を無くした尼は助命を諦めるしかありません
斬首決定と思われましたが、結局、経俊は許されています
猜疑心が強く冷徹な頼朝でも、自分の乳母だった山内尼を悲
しませたくなかったのでしょうかね