武器は戦う為だけの物ではなく、持つ事により抑止力になると
龍馬は言っていましたが、残念ながら一理ありますね
勝ちに乗じて一気に幕府を攻めたい木戸の気持ちも分かります
が、長州藩だけでは無理
反幕府の機運が盛り上がらなければ倒幕など出来ないのです。
たとえ薩摩が見方したとしても薩長だけでは幕府を倒す事は出
来なかったでしょうね
そういう意味では木戸の考え方はあさはかと言うほかありませ
ん
尤も、実際の木戸がそういう行動をとるとは考え難いのですが…
あくまでもドラマの中の話です。
着流しに三味線、都々逸を歌いながら戦場に立つ高杉晋作。
格好良すぎますよね
数年前に上杉謙信役をやったガクトを彷彿させます。
龍馬伝ではなく晋作伝といった感じでしたね

龍馬は兄・権平宛てへの手紙の中で晋作を『天下の人物』と評
しています
二人はよほど気が合ったみたいですね
晋作は半植民地と化した上海へ渡航していますが、この事が後
に攘夷運動へ邁進するきっかけになるのです。
日本もこのままでは上海と同じく列強の餌食になると…
第二次長州征伐にあたり晋作は龍馬に一緒に戦う事を以来して
います
龍馬は乙丑丸(ユニオン号)の船長としてこの戦いに参加するこ
とになります。
龍馬にとって最初で最後の大戦かも知れません
幕府軍に勝った晋作ですが、この戦いの翌年・四月に肺結核で
亡くなります
後を追うように龍馬も七カ月後暗殺

二人共あまりにも短か過ぎる生涯ですね
判断力・行動力・人望、どれをとっても申し分のない二人です
が、神様は明治維新へと変わる時代のきっかけだけを作る為に
二人をこの世に遣わしたのでしょうか??
おそらく二人に替わる人物はいなかったのでしょうね。
西郷も木戸も大久保も彼らの替わりは出来ないのです
彼ら二人だからこそ成し遂げられたと僕は固く信じて
います
ところで
15万の幕府軍1万の長州軍に何故負けたまでしょうか??
家茂が長州征伐を宣言してから1年後の戦いとなった為、士気が
上がらなかったのも一因でしょうが、幕府軍を構成していた諸
藩の戦闘意欲が極端に低くかった事が1番の原因のようです
幕府の中にも諸藩の中にも長州征伐に否定的な藩も多かったと
もいいます
戦闘が始まってからも長州との講和の道を探っていた藩も多数
いたと言いますからはなから戦いになりませんよね
藩同士の連携も無く軍隊の体を為していなかった烏合の衆では
勝てません
幕府軍の中にも浜田藩や小倉藩など徹底抗戦を貫いた藩もあっ
たようですが、同調する藩が出て来なかった為、両藩は孤立無
援の戦いをするしかなかったといいますから悲惨です
又、長州は同調する藩に対して徹底的な取り込みを図り無駄な
戦を極力避けたとも言われています

勝敗を決したのは幕府側(慶喜)と長州の外交、交渉術の差だっ
た訳です。
言い換えれば長州外交の勝利と言っても過言ではありません

中国問題で四苦八苦している菅内閣も長州外交に肖りたいもの
ですね
何れにしても、この戦いを境に幕府の凋落が決定的になったの
は間違いありません

機運は一気に倒幕へと向かうのです
龍馬は言っていましたが、残念ながら一理ありますね

勝ちに乗じて一気に幕府を攻めたい木戸の気持ちも分かります
が、長州藩だけでは無理

反幕府の機運が盛り上がらなければ倒幕など出来ないのです。
たとえ薩摩が見方したとしても薩長だけでは幕府を倒す事は出
来なかったでしょうね

そういう意味では木戸の考え方はあさはかと言うほかありませ
ん

尤も、実際の木戸がそういう行動をとるとは考え難いのですが…
あくまでもドラマの中の話です。
着流しに三味線、都々逸を歌いながら戦場に立つ高杉晋作。
格好良すぎますよね

数年前に上杉謙信役をやったガクトを彷彿させます。
龍馬伝ではなく晋作伝といった感じでしたね


龍馬は兄・権平宛てへの手紙の中で晋作を『天下の人物』と評
しています

二人はよほど気が合ったみたいですね

晋作は半植民地と化した上海へ渡航していますが、この事が後
に攘夷運動へ邁進するきっかけになるのです。
日本もこのままでは上海と同じく列強の餌食になると…
第二次長州征伐にあたり晋作は龍馬に一緒に戦う事を以来して
います

龍馬は乙丑丸(ユニオン号)の船長としてこの戦いに参加するこ
とになります。
龍馬にとって最初で最後の大戦かも知れません

幕府軍に勝った晋作ですが、この戦いの翌年・四月に肺結核で
亡くなります

後を追うように龍馬も七カ月後暗殺


二人共あまりにも短か過ぎる生涯ですね

判断力・行動力・人望、どれをとっても申し分のない二人です
が、神様は明治維新へと変わる時代のきっかけだけを作る為に
二人をこの世に遣わしたのでしょうか??
おそらく二人に替わる人物はいなかったのでしょうね。
西郷も木戸も大久保も彼らの替わりは出来ないのです

彼ら二人だからこそ成し遂げられたと僕は固く信じて
います

ところで
15万の幕府軍1万の長州軍に何故負けたまでしょうか??
家茂が長州征伐を宣言してから1年後の戦いとなった為、士気が
上がらなかったのも一因でしょうが、幕府軍を構成していた諸
藩の戦闘意欲が極端に低くかった事が1番の原因のようです

幕府の中にも諸藩の中にも長州征伐に否定的な藩も多かったと
もいいます

戦闘が始まってからも長州との講和の道を探っていた藩も多数
いたと言いますからはなから戦いになりませんよね

藩同士の連携も無く軍隊の体を為していなかった烏合の衆では
勝てません

幕府軍の中にも浜田藩や小倉藩など徹底抗戦を貫いた藩もあっ
たようですが、同調する藩が出て来なかった為、両藩は孤立無
援の戦いをするしかなかったといいますから悲惨です

又、長州は同調する藩に対して徹底的な取り込みを図り無駄な
戦を極力避けたとも言われています


勝敗を決したのは幕府側(慶喜)と長州の外交、交渉術の差だっ
た訳です。
言い換えれば長州外交の勝利と言っても過言ではありません


中国問題で四苦八苦している菅内閣も長州外交に肖りたいもの
ですね

何れにしても、この戦いを境に幕府の凋落が決定的になったの
は間違いありません


機運は一気に倒幕へと向かうのです
