いよいよ家康と一向宗徒の戦いが始まりましたね
お寺は、不入の権を逆手にとって富を蓄え、武具
や武器を揃え、城塞化した武力を伴った自治集団
と化していたようです
まるで国衆見たいですね。
自国領にこの様な勢力を抱えているのですから、
領主としてはたまったものではありません
どうにかして、自国での一向宗の力を削ぐしかな
さそうです
一向宗との対立は、避けて通れなかった争いだと
も言えます
とわいえ、武力では中々解決しないので、家康は
政治的な解決を模索したようです
反乱に加わった家臣はお咎め無し。
寺は元通りに戻すというものです。
表面的には一向宗側の要求を全てのんだ形ですね
しかし、この譲歩案には裏があります
武力解除後、直ぐに寺を破却し領内での一向宗を
禁じてしまいます
約束を反故にされた一向宗側は当然文句をつけま
すが、後の祭り。
元通りに戻すとは…寺が建つ前の原野に戻すとい
う意味だと嘯くのです
一向宗徒が集う場所さえ無くせば、自然と歯向か
う事が出来ないとふんだのでしょうね。
事実、その後、三河領内では一向宗の反乱は起き
ていません
信長でさえ一向宗との戦いにはかなりの年月を費
やしていますよね。
規模が違うとはいえ、家康の一向宗に対する対応
は中々のものです。
この時、家康20歳、やはり並の武将ではありませ
ん
難しい仏典を理解したり、厳しい修行を伴わない
一向宗は一気に広まったと言われています
念仏を唱えればすべからく救われるというもので
す。
現世に望みを託せないこの時代、文字も読めない
農民が殆どだったので、解り易く、善人も悪人も
南無阿弥陀仏を唱えれば誰でも救われるのです。
いわんや悪人をやですね
爆発的に広がったのも頷けます。
ところで
家康の家臣の中でも家康のそば近く仕えていた者
の殆どは一揆軍に加わる事は無かったと言われて
います
本多忠勝は浄土宗に改宗し家康と行動を共にして
いますし、石川数正も改宗しています
数正の父は本證寺の総代の様な立場だった為か?
一揆軍に加わっています。
父と子が戦った訳です
その為か、数正は一時家督を継げなかったとも言
われていますね
忠誠心と信仰心の狭間で家臣達は揺れ動いていた
のだけは間違いなさそうです