気が付いた時にはもう、僕にはお父さんがいなかった。
死んだのか、家を出たのか。思い出もなく、気配すら覚えていない。
お母さんは、優しい人。
いつも穏やかに微笑んで、僕を守ってくれる人。
お金はあんまりなかったけれど、お母さんの料理は美味しかったし、
誕生日には好きな玩具を買ってくれた。
――何一つ、不満なんてないのに。
どうして僕は、家出なんかしたのかな?
朝、いつも通り目が覚めて。
ご飯を食べて、ランドセルを背負って。
行ってきますと手を振って。
僕は、学校の前を通り過ぎ、そのまま通学路とは別の道を歩いて行った。
平日の道路は、いつもより車も少なくて、人も少なくて、何だかとても不思議な気分。
ふざけて道端で拾った木の棒を振り回しても、誰にも怒られない。誰にも迷惑をかけない。
少し楽しくて、少し胸が痛くなった。
頭の奥がザワザワした。
雀の声が、妙に響いた。
おまわりさんみたいな格好をした大人から見付からないように、こっそりと、急ぎ足で回り道。
息を吐いたら、何だか喉が渇いた。
バス停のベンチに座ってみた。
隣には知らないおばあさんが一人。
あんまり動かないから寝てるのかと思った。
でも、バスが目の前に止まったら、当たり前に立ち上がって乗り込んで行った。
そして僕は、また一人。
公園で少し水を飲んだ。
陽射しが強かったから、何だかいつもより美味しかった。
鳩が、変な声で鳴いていた。
もう、どこをどう歩いてきたのか分からなかった。
随分歩いたから、結構遠くまで来たと思う。
少なくとも、今までで一番の遠出だ。
右を見ても、左を見ても、誰も知らない。どこも知らない。何も知らない。
あぁ、僕は一人だ。
――ザワザワ。
鼓動が早くなるのを、僕は確かに感じた。
お腹が空いた。
今何時なのか正確には良く分からないけれど、多分給食の時間くらいだと思う。
僕は、公園のベンチに座って、知らないお店で買ったパンを一つ食べた。
一緒にラムネも欲しかったけど、今月のお小遣いは、もうない。
そういえば、お母さんはどうしてるだろう?
僕が家出して、買い食いしてるのを知って怒ってるだろうか?
うちにはあまりお金がないから、やっぱり怒ってるかも知れない。
給食だったらタダなのに、って。
ああ、でも給食だってタダじゃないんだった。
毎月、お金を払っているから食べられるんだ。
そんなことを考えていたら、何だか少し眠くなった。
幸いここは日陰だし、少しだけ眠ってもいいかな。
目が覚めたら、お母さんの膝の上。
おかしいな。
僕は家出したのにな。
いつの間に、家に帰ってきたのかな。
きょろきょろと、寝転がったまま辺りを見回す。
そこは、確かに僕の家ではなく――知らない公園。
カラスが鳴いていた。
トンボが飛んでいた。
お母さんの顔が、少し赤かった。
・・・どうして。
「おはよう、よく眠れた?」
「・・・お母さん」
「もう夕方よ。お家に帰らなきゃ」
「お母さん」
「今日は――シチューにしましょうか。
大きなじゃがいもと綺麗なほうれん草を入れて。
きっと、美味しいわ」
「お母さん。どうして」
どうして、ここが分かったの。
僕は、何だか悲しくなってしまった。
「だって、探したもの。お母さん、心配したのよ。
学校の先生から、授業が始まっても登校してこないって電話があったから」
「だけど、僕は。僕はいっぱい歩いたのに。
知らない道を、いっぱい、遠くまで、たくさん歩いたのに」
「ここ、隣町よ。そんなに遠くないわ。
それに、学校の先生やおまわりさんにも探してもらったから・・・
すぐ、見付かったわよ」
お母さんは、僕を見下ろしながら微笑った。
そっと、僕の額の髪を掻き分けながら。
ああ。
僕は、すごく遠くまで来たと思っていたのに。
誰も、何も知らない、別の世界まで歩いてきたと思っていたのに。
結局、出ることは出来なかった。
いや、出た先の世界も、所詮小さなものだっただけだろうか?
「かくれんぼは、楽しかった?」
首を振る。涙が、零れそうだった。
そんな僕を見て、お母さんはもう一度微笑った。
「遠くまで――絶対に見付からないくらい、遠くまで来たと思っていたのに」
「どうして、遠くに行きたかったの?」
「どうしても。分からないけど、何故か急に・・・家出したくなったんだ」
自分でも分からない。
お母さんは優しいし、ご飯は美味しいし、お母さんと同じ布団で寝るのは気持ち良かった。
暖かくて、何も不自由なくて。
全部、与えられていて。
それなのに、どうして僕は、家出なんかしたのかな?
「男の子だから?」
――お母さんの声が、少し、乾いた。
男の子だから。
意味が良く分からない。
男の子だったら家出するのだろうか?
僕は、お母さんの顔を見上げる。
お母さんは、何だか、悲しそうな、痛そうな顔をして。
僕の向こうを、見詰めていた。
「貴方も、男だから? 男だから家を出たくなるの?」
「お、かあ、さん?」
お母さんの目は、もう僕を見ていない。
その視線は、僕を突き抜けて。
口元は、歪に吊り上って。
頬と肩を、痙攣させて。
「どうして?
何も足りないものなんかないでしょう?
いっぱい、愛してあげてるでしょう?」
僕の頭を乗せた足が、ガクガクと揺れる。震える。
僕の額に乗せた手に、不自然な力がこもる。
「痛い、おかあ、さん。痛いよ」
「どうして? 立派なお家もあるでしょう?
どうして外に出たがるの?
どうして?
どうして?
どうして!?
どう、して!?」
ああ、ああ。お母さん。おかあさんの、
おかあさんの、かおが、ひどく、こわれて。
「貴方も! お父さんも! どうして外に出たがるの!?
ご飯もあげてるでしょう? 好きにさせているでしょう?
何不自由させていないでしょう?
お母さんが嫌いなの?
そうなのね、おかあさんがキライなのね?
こんなにアイしてあげてるのに、オカアサンがキライなのね!?」
爪が。お母さんの爪が、僕の額に食い込んで。
「痛い、痛いよ」
だけど、訴えは、届くはずもなくて。
そこにいるのは、まるで違う人みたいだった。
不意に、頬に暖かい雫が落ちた。
半狂乱のお母さんは、僕の頭を押さえつけたまま、ぼろぼろと泣いていた。
「ねえ、答えなさいよ。どうしてなのよ。どうして、出て行くの?
私の傍から、いなくなるの?
どうしてよッ!?」
「おかあ、さん」
僕は――どう答えれば良いんだろう?
何を言ったら良いんだろう?
お母さんは、きっと、寂しかったんだと思う。
お父さんがいなくなって、僕まで、いなくなって。
女の人は、サミシガリヤさんだから。
すごくすごく、セツナかったんだと、思う。
悲鳴を上げたくなるくらい。
「ごめんね、お母さん」
僕は、そっと手を上げて。
お母さんの頬を、小さく撫でた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔は、やっぱり別人じゃなくて。
優しい、僕の、お母さん。
「僕は、ずっと傍にいるからね」
囁くような約束に、お母さんは驚いた顔をした。
「ずっと・・・?」
「うん、もう家出もしない。ずっと、僕はお母さんの傍にいるよ」
「嘘よ。男の人は、絶対、いなくなるんだから。
貴方も、今は一緒にいても、いつか結婚してどこかにいってしまうんだわ」
「大丈夫、だよ。その時は、僕のお嫁さんと、お母さんと、3人で暮らすんだ」
「・・・本当、に・・・?」
細い細い、その声に。
「うん、約束、する」
そう言って、僕は微笑った。
いつものお母さんほど、優しい笑顔じゃなかったかも知れないけれど。
できるだけゆっくり、優しく微笑った。
膝の震えが少しずつ治まって。
額に食い込んだ爪も、ゆっくり解けて。
お母さんも、優しく微笑った。
そして、お母さんは、僕の手を引いて。
二人で家へ帰っていく。
もう一度、僕を、閉じ込めるために。
僕を、飼育するために。
甘い棘のトリカゴへ、帰っていく。