この医務科壕も、中に入って、見学できるように
整備してもらっている壕です。
栗林壕(司令部壕)のように、途中で体をかがめて這うような姿勢にならないと
進めないような低い部分もありません。
最初に、この壕に入った時には、
「負傷、病気などの兵士を収容した壕なののに
こんなに暑いのでは、傷や病気を回復させたい傷病兵には劣悪な環境だな。」と
思いました。
当時も、同じような、壕の中の温度であったかは分かりませんが、
負傷兵をきちんと収容できる野戦病院などを望むべくもなく、
米軍の猛攻開始後は、島全体にわたって、壕にしか兵士がいることができないようにするという
島一つをまるごと過酷な戦場にする、作戦が取られ、そのために、そうぞうを絶するほどの規模の地下要塞が作られた島でした。
去年と、今年とでも、壕の温度や、入り口付近の蒸気の様子が違っている場所が
ありましたから、この島の各地が、今も変動を続けていることが
分かりました。
今年も8月、広島と長崎の式典の日が終わり、
もうすぐ終戦記念日です。
整備してもらっている壕です。
栗林壕(司令部壕)のように、途中で体をかがめて這うような姿勢にならないと
進めないような低い部分もありません。
最初に、この壕に入った時には、
「負傷、病気などの兵士を収容した壕なののに
こんなに暑いのでは、傷や病気を回復させたい傷病兵には劣悪な環境だな。」と
思いました。
当時も、同じような、壕の中の温度であったかは分かりませんが、
負傷兵をきちんと収容できる野戦病院などを望むべくもなく、
米軍の猛攻開始後は、島全体にわたって、壕にしか兵士がいることができないようにするという
島一つをまるごと過酷な戦場にする、作戦が取られ、そのために、そうぞうを絶するほどの規模の地下要塞が作られた島でした。
去年と、今年とでも、壕の温度や、入り口付近の蒸気の様子が違っている場所が
ありましたから、この島の各地が、今も変動を続けていることが
分かりました。
今年も8月、広島と長崎の式典の日が終わり、
もうすぐ終戦記念日です。