戦前は南集落だった場所が、今の自衛隊の施設が集まっている場所で、硫黄島滞在の二日目の昼食の厚生館もそこにあります。今年は昼食後の午後の行程の集合時間までの間に、厚生館から南に下がって散歩をしてみました。初めて硫黄島に行った十数年前にジャングルで遭難しかけたのもその辺りでしたし、昨年は、大先輩の方に案内されて、パパイヤを探しに入ったのも同じあたりでした。今年は一人で、歩いてみました。この写真は、自衛隊施設が集まっている場所から降りた場所にある鹿島の施設の近くにある、米軍機B29のプロペラの残骸です。硫黄島で墜落した機体の一部のようです。
硫黄島滞在の二日目のお昼には、自衛隊の施設などの建物が集まっている場所の中心にある厚生館でお弁当を食べます。厚生館には、売店もあって自衛隊員の方のための洗剤などの日用品が売られていますが、私たちが行く時には、Tシャツやクッキーなどのお土産も置いて売ってくれます。
厚生館を出てすぐの所がこの写真の場所で、弾痕痕が残る壁面の当時の建物の跡です。この碑石には、「第一御楯特攻隊出撃前夜の会議室」とあります。太平洋戦争での特攻隊というと鹿児島が有名で、こちらはあまり知られていませんが、戦中にはここ硫黄島からも特攻隊が出撃していて、摺鉢山の山頂にも特攻隊の碑があります。
厚生館を出てすぐの所がこの写真の場所で、弾痕痕が残る壁面の当時の建物の跡です。この碑石には、「第一御楯特攻隊出撃前夜の会議室」とあります。太平洋戦争での特攻隊というと鹿児島が有名で、こちらはあまり知られていませんが、戦中にはここ硫黄島からも特攻隊が出撃していて、摺鉢山の山頂にも特攻隊の碑があります。
今年の6月の硫黄島は、6月15日と16日でした。私は、戦前の祖父母や母が住んでいた場所が硫黄島の中心部の元山集落だったので、1日目の午後の出身集落への里帰りの時間にも、元山集落の隣のこの写真の場所、硫黄ヶ丘に来ていました。二日の16日の班毎に島内の各所をまわって見る時にも、この場所を訪れました。この写真は、硫黄ヶ丘の入り口あたりから船見岩の方角を撮ったものです。黒く焦げた倒木は、タマナの木だそうです。堅くて丈夫な木で、燃えきらずに残ったそうです。
天山慰霊碑です。中央の碑の石の真上の部分は天井の石の構造物が四角く切り取られていて雨水が直接あたるようになっています。戦時の兵士の皆さんが水が無いのが一番苦しかったので、せめて今は水が多く直接降り注ぐようにという設計になっているそうです。
この高台のようになっているのが天山慰霊碑のある場所の全体です。小さいトンネルを通って登っていきます。この登る道の両側に小さい池があります。登った正面が天山慰霊碑。左側には学徒出陣の碑などの墓碑石。右側は下ると天山壕の入り口があります。
これも、今年の6月に慰霊墓参で行った時の、硫黄島の天山慰霊碑の入り口の横に咲いていた花です。ここは、きちんと整備した慰霊碑がある建造物で入り口への道の両横に池が作られていて、今年は水もたっぷりあって水の上にこれが咲いていました。
ここは硫黄島の北部にある兵団司令部壕の入り口です。別名、栗林壕とも呼ばれていて、硫黄島戦をリードした栗林中将が最後に指揮を執った時にいた壕と言われています。
例年ですとこの壕の中にも入って見学することができるのですが、今年は壕の入り口まででした。
この写真は壕の入り口の上の岩の上に小さな仏像があるのを撮ったものです。
この壕は、まわりの何かにつかまらないと降りられないほど急な下りです。しばらく進むと、途中でかなり低い箇所があって、しゃがんだぐらいでは背中がぶつかってしまうので、手とひざをついた方が進みやすい場所が、数メートル続きます。それから、栗林中将がいたという高さもあって広い場所に出ます。
例年ですとこの壕の中にも入って見学することができるのですが、今年は壕の入り口まででした。
この写真は壕の入り口の上の岩の上に小さな仏像があるのを撮ったものです。
この壕は、まわりの何かにつかまらないと降りられないほど急な下りです。しばらく進むと、途中でかなり低い箇所があって、しゃがんだぐらいでは背中がぶつかってしまうので、手とひざをついた方が進みやすい場所が、数メートル続きます。それから、栗林中将がいたという高さもあって広い場所に出ます。