これは私たちが硫黄島で宿泊する硫黄島平和祈念会館の写真です。6月15日の午後の日程の、出身集落への里帰り(その後、余った時間で、この近くに壁画に寄ってもらって見学をしました。)を終えて、ここに戻ってきました。
硫黄島の北西部にある壁画という場所の、壁画な彫られているところの右隣にあるのがこの岩です。かなりの高さがある岩の上の方にまで字が彫られています。となりの壁画の方に大きく彫られた「大沢」の二文字もかなりの高さのところにあります。かなり高くまで伸びる工事現場などで使うはしごを使ったのか、電気工事や電話線工事で使うゴンドラ昇降車のようなものを使ったのか分かりませんが、それぞれ大掛かりに苦労して彫ったのだと思います。
この壁画は、かなりの大きさがあります。壁画の土台の岩のいたるところに、文字が刻まれています。英語も日本語もあります。この地を訪れたことの記念に刻まれたものらしいです。摺鉢山の山頂の碑の入口のところにも米兵たちのドッグタグ(認識票)が多くかけられていますので、アメリカの兵士たちにとっては、先の大戦全体でも最も有名な戦跡の一つである硫黄島を訪ねた証として、ドッグタグをかけたり、この壁画の岩に自分の名前を刻んだりしているらしいです。そして、この岩には、日本人の名前も数多く刻まれています。硫黄島を何らかで訪問したりした人たちが刻んだものだと思います。この写真には写っていませんが、ひときわ大きな字で削られているのが「大沢」の二文字でかなり目立ちます。英語の名前がたくさん刻まれているのに対抗しようとしたのでしょうか。アメリカ人の風習として、この地を訪れた証を残したいということがあったのだは思いますが、戦争に関係する証や標である場所の岩を削って自分の名前を残すというのは感心できません。もっと、ひどいのは、日本語の文字を刻んだ日本人たちです。どんな思いで、何を考えてそんなことをしたのかは想像もできませんが、いずれにしても、後まで残るものなのですから、このようなことはしないで欲しかったです。特に日本人で、遺跡や観光地の名所などに自分の名前を書いたりするのは、ただの「落書き」に過ぎません。なんら、主張も、思いをこめた祈りも入る余地のない行為なのですから、この壁画の漢字の文字の数々を見るたびに、とても、恥ずかしく思います。
2014年6月15日、今年の硫黄訪問の日程の一日目は、上陸してから午前中に参加者全員での硫黄島島民平和祈念墓地公園での慰霊式典がありました。午後は、私たち旧島民枠で参加しているメンバーは、それぞれの戦前に在住していた出身集落への里帰りの時間でした。例年どおりです。私は祖父母が、硫黄島の中でも役場や学校、旅館、商店街などがあった元山集落で魚屋兼雑貨屋をやっていてそこで伯父たち、母、叔母達が生まれ育ちましたので、元山集落の里帰りグループに入りました。元山集落の中心だったあたりは、今は滑走路の下ですので、一番近い硫黄ヶ丘に行きました。毎年、硫黄ヶ丘のあたりを歩き回ったりしてその時間を過ごします。硫黄ヶ丘で過ごしても時間が余りましたので、今年は、メンバーの中に壁画に行ったことがない人がいてご希望なさったので、この壁画に行きました。私たちが宿泊する平和祈念会館から近い場所で徒歩でも行ける距離にあります。有名な摺鉢山の山頂にアメリカ軍が国旗を立てた様子が壁画に刻まれています。
硫黄島の硫黄ヶ丘の白い台地と森の間で見つけた、トケイソウの実です。このトケイソウがパッションフルーツの原種と言われていて、花もそっくりですが、実の形は、パッションフルーツとは、全く違っていて毛の生えた殻の中にほおずきの実のようになっています。これも、良く熟すと甘酸っぱくて、食べれるそうで、食べている人もいました。
これも硫黄ヶ丘横の森のがじゅまるの木です。ご覧のように、それほど地表が暗いうっそうとした森ではありません。この場所には、二日目にも皆で来た時にはいりましたが、外は真上からの日差しと地熱とでひどい猛暑ですが、一歩森に入ると、ひんやりと涼しく感じます。
硫黄島のほぼ中央に広がる硫黄の大地、硫黄ヶ丘から、戦前の学校の敷地だったといわれるあたりの森に入った場所のがじゅまるの木です。今は、すっかり森林になってしまっていて学校だった面影は見ることができません。かなり立派ながじゅまるなのですが、戦後に生えて成長したもののはずです。もう、戦後70年近くになりますね。