これが、硫黄島の釜場の写真です。大きな鉄のなべが並んでいます。軍属として硫黄島に残った、島民は、このあたりにいたらしいのですが、最後をどこで迎えたのかは、ほとんどの人が分かっていなくて、私の親戚で犠牲になった方々についても分かりません。当時18歳だった、私の祖父の甥(母のいとこたち)が二人、戦没したのですが、最後まで仲良く二人で一緒であったのかどう、分かりません。
硫黄島での戦いでは、日米、合わせて、非常に多くの軍人が戦死しました。沖縄との一番の違いは、済んでいた住民は、戦争の激化の前に、強制疎開で島を離れていたために、硫黄島戦の犠牲にはならなかった点です。私の母や親戚たちも船で硫黄島から本土に来ました。住民を巻き込んだ戦争にはなりませんでした。 しかし、戦前の人口の約1000人のうちの、82人は軍属として島に残らされて犠牲になりました。軍属で残って戦死したうちの多くが配属させられたのが204設営隊という部隊だったそうです。その隊が炊き出しをしていたのに使っていた場所である釜場というところの近くの、森林がこの写真です。今はうっそうとしたこの森を抜けた場所に釜場があります。
この写真は、前回紹介の写真と同じ場所、今は厚生館などがある飛行場滑走路の南側から、北側にある硫黄が丘の船見岩を撮影したものです。
この写真を撮影したあたりが戦前の南で、船見岩の右側あたりが、役場や学校、商店などがあった島の中心、元山だったあたりです。私の祖父母は、元山で魚と食料品などを扱う商店をやっていたそうです。その場所は、現在は滑走路の北側にかかってしまっているのか、ぎりぎりでかかっていなくて今はギンネムの森になっているあたりなのかは、いろいろな方々に教えてもらった情報からも、どちらか判然としていません。
この写真を撮影したあたりが戦前の南で、船見岩の右側あたりが、役場や学校、商店などがあった島の中心、元山だったあたりです。私の祖父母は、元山で魚と食料品などを扱う商店をやっていたそうです。その場所は、現在は滑走路の北側にかかってしまっているのか、ぎりぎりでかかっていなくて今はギンネムの森になっているあたりなのかは、いろいろな方々に教えてもらった情報からも、どちらか判然としていません。
昨年の6月の硫黄島訪問の写真の紹介も、途中のままで、
いよいよ、今年の訪問まで、3週間になりました。
硫黄島の水不足も解消したという情報が入ってきていて、天気、天候に恵まれますようにと
祈るばかりです。
この写真は、現在は自衛隊の施設や構成館などの建物がある戦前は南だった辺りから、
飛行場の滑走路越しに撮影した、天山慰霊碑の方角です。遠くに、天山の建物が見えます。
いよいよ、今年の訪問まで、3週間になりました。
硫黄島の水不足も解消したという情報が入ってきていて、天気、天候に恵まれますようにと
祈るばかりです。
この写真は、現在は自衛隊の施設や構成館などの建物がある戦前は南だった辺りから、
飛行場の滑走路越しに撮影した、天山慰霊碑の方角です。遠くに、天山の建物が見えます。