慰霊祭が行われた硫黄島旧島民平和祈念墓地公園にある碑です。
写真では、碑銘と島の位置をしめしていることしか分かりませんが、
碑文があります。(碑文が碑のどの位置にあるか確かめずに
撮影もしてきませんでした。)
硫黄島訪島参加者に配布していただける、小笠原村発行(平成12年 初版発行)のパンフレット「 硫黄島 -硫黄島島民平和祈念墓地公園開設15周年記念- 」に、碑文全体を掲載いただいていますので、引用させていただきます。
「硫黄島開拓之碑 (碑文)
硫黄島(いおうとう)は、父島の南約二八〇キロメートル、北緯
二四度四七分東経一四一度一九分に位置し、北硫黄島、南硫黄島と
ともに火山列島を構成する
十六世紀中頃にはスペイン船により望見されており、ブルカーノ
(火山島)と呼ばれた 十八世紀後半イギリスの探検隊に見出
され、サルファー・アイランド(硫黄島)と名づけられた
明治二十四年(一八九一)九月勅令により日本領土に編入、東京
都小笠原島庁の所轄となり、北硫黄島(洋名サン・アレッサンドロ
島) 硫黄島(洋名サルファー島) 南硫黄島(洋名サン・アグスティ
ン島)と命名された
これに先立つ明治二十二年(一八八九)六月、父島の住民田中栄次郎
が、父島で建造した帆船南洋丸にて十余名とともに、鮫漁と、硫
黄採取を目的として渡航したことから硫黄島の開拓が始まった
明治二十五年(一八九二)から本格的な硫黄発掘事業が開始され
たが、その後主産業は平坦な土地と地熱を活かした農業に重点が移
った 砂糖キビ、コカ、レモン草と情勢の変化に伴い主要な作物は
変わっていったが、農業の隆盛とともに人口も増加していった
昭和十五年(一九四〇)四月硫黄島に村制が施行されたが、北硫
黄島はなお小笠原支庁直轄であった
この年の住民、硫黄島一〇五一人、北硫黄島一〇三人
昭和十六年(一九四一)十二月八日太平洋戦争勃発
大戦の激化とともに、豊かで平和な地は本土防衛の最前線となり、
昭和十九年(一九四四)住民は強制疎開を余儀なくされ、父祖の地
は玉砕の島となった
硫黄島の日本領土編入百年にあたり、島の開拓に勤しんだ先人の
功績を讃えるともに、いまだかなわぬ帰島の夢を託し、この碑を
建立する
平成三年三月 小笠原村」
硫黄島訪島事業を主催して下さり、このパンフレットを発行配布して
下さっている小笠原村役場のホームページ
http://www.vill.ogasawara.tokyo.jp/
写真では、碑銘と島の位置をしめしていることしか分かりませんが、
碑文があります。(碑文が碑のどの位置にあるか確かめずに
撮影もしてきませんでした。)
硫黄島訪島参加者に配布していただける、小笠原村発行(平成12年 初版発行)のパンフレット「 硫黄島 -硫黄島島民平和祈念墓地公園開設15周年記念- 」に、碑文全体を掲載いただいていますので、引用させていただきます。
「硫黄島開拓之碑 (碑文)
硫黄島(いおうとう)は、父島の南約二八〇キロメートル、北緯
二四度四七分東経一四一度一九分に位置し、北硫黄島、南硫黄島と
ともに火山列島を構成する
十六世紀中頃にはスペイン船により望見されており、ブルカーノ
(火山島)と呼ばれた 十八世紀後半イギリスの探検隊に見出
され、サルファー・アイランド(硫黄島)と名づけられた
明治二十四年(一八九一)九月勅令により日本領土に編入、東京
都小笠原島庁の所轄となり、北硫黄島(洋名サン・アレッサンドロ
島) 硫黄島(洋名サルファー島) 南硫黄島(洋名サン・アグスティ
ン島)と命名された
これに先立つ明治二十二年(一八八九)六月、父島の住民田中栄次郎
が、父島で建造した帆船南洋丸にて十余名とともに、鮫漁と、硫
黄採取を目的として渡航したことから硫黄島の開拓が始まった
明治二十五年(一八九二)から本格的な硫黄発掘事業が開始され
たが、その後主産業は平坦な土地と地熱を活かした農業に重点が移
った 砂糖キビ、コカ、レモン草と情勢の変化に伴い主要な作物は
変わっていったが、農業の隆盛とともに人口も増加していった
昭和十五年(一九四〇)四月硫黄島に村制が施行されたが、北硫
黄島はなお小笠原支庁直轄であった
この年の住民、硫黄島一〇五一人、北硫黄島一〇三人
昭和十六年(一九四一)十二月八日太平洋戦争勃発
大戦の激化とともに、豊かで平和な地は本土防衛の最前線となり、
昭和十九年(一九四四)住民は強制疎開を余儀なくされ、父祖の地
は玉砕の島となった
硫黄島の日本領土編入百年にあたり、島の開拓に勤しんだ先人の
功績を讃えるともに、いまだかなわぬ帰島の夢を託し、この碑を
建立する
平成三年三月 小笠原村」
硫黄島訪島事業を主催して下さり、このパンフレットを発行配布して
下さっている小笠原村役場のホームページ
http://www.vill.ogasawara.tokyo.jp/