EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

伊予松山城 天守沿革 

2010年05月03日 | 往年の名車 メグロ
伊予松山城 天守沿革 

GW中の2日・3日に天守内部の撮影に行きましたが今年は好天に恵まれその上に6月から四国に掛かる橋の通行料金が高くなるからこの機会に四国に来ました。と遠来の観光者が大勢で松山城は、観覧者が殺到し札止めをしながら観光者を天守に誘導していた。
そのため撮影不能でGW開けに撮影に行きご紹介します。

今日は、伊予松山城天守の沿革を記載します。
1600年(慶長5年)9月15日関ヶ原の戦いで東軍として松前城から参加、徳川の覇権が確立し、武勲を挙げた加藤嘉明は家康から伊予の国を二分し20万石を拝領した。(残り20万石を藤堂高虎が拝領)

1601年に嘉明は家康に勝山に築城の事情を具申し許可を受けて1602年1月15日の吉日に築城の工を起こし新たな城の築城に取り掛かかり、先ず本丸・二ノ丸・三ノ丸の位置を決定し荘厳な天守の造営に着手した。(嘉明の築いた天守は5層の天守であった。)

本丸の位置が決定するに従い、まず石塁の完成に全力が集中された。(本丸の石塁は、屏風折れの石垣を築きあげた。全国で唯一の本丸の石垣)

武家屋敷の地割り、ついで商家町、寺町の形成等々城下町の概要が整い1603年10月に嘉明は、家臣、住民とともに居を松前(当時は正木と言っていた)から新城下に移し、この地を松山と名称が公にされた。

伊予松山城本丸は、二つの山を切り開き膨大な石塁を築き天守、櫓、城門、渡り塀の建築に26年の歳月を費やし建設費の捻出には農民から厳しい年貢の取立てでこれに当てた。この苦労の賜物が現在の城郭で観光資源として松山市を支えている。
未だ沢山記載する事があるがまたの機会にする。

参考に松山城の年譜を紹介する

1602年(慶長7年) 1月15日:築城開始
1603年(慶長8年) 10月:新城下に移転・・公に松山となる
1627年(寛永4年)  2月:幕府の命を受け会津に転封
1628年(寛永5年)  6月:出羽国上ノ山城主の蒲忠知が24万石で入封
蒲忠知が松山城を完成する
1634年(寛永11年) 8月:参勤交代途中京都で病死
1635年(寛永12年) 7月:伊勢国桑名城主の松平定行が15万石で入封
                明治維新まで親藩となる、定行の父、定勝は家康の異父同母弟
1639年(寛永16年) 7月:5層の天守を3層に改築(改築に3年を要した)
1784年(天明4年)1月元旦:落雷で天守焼失
1820年(文政3年)  4月:天守復興に着手
1835年(天保6年)  6月:本丸作事場から失火工事中断
1848年(嘉永元年)2月7日:本丸普請再開
1854年(安政元年)2月8日:天守完成(天明4年天守焼失から71年経過していた)
註:現在の天守はこの時復元されたもので、現存12天守の一つである。

GW開け内部撮影を行い数回に分けて松山城天守内部を画像で紹介しよう。


画像は、伊予松山城天守で安政元年に復元された。
    現存12天守で一番新しい天守。

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