EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山眞之の立像と広瀬神社から贈られた記念の「護国の石」

2013年08月22日 | 伊予松山歴史散策
大分県竹田市に広瀬神社がある。同市出身で軍神第1号の海軍中佐、広瀬武夫命を主祭神とし祀られている。明治37年(1904)3月27日に日露戦争の旅順港閉塞作戦で戦死した広瀬中佐の人格と報国の精神を敬仰する人々により「広瀬神社創建奉賛会」が結成され、昭和10年(1935)5月に社殿が落成、同月25日に鎮座祭が行われた。
海軍中佐、広瀬武夫は、秋山眞之と海軍兵学校の先輩、後輩の間柄で、武夫は、海軍兵学校第15期生、眞之は、第17期生である。
先日、竹田市から現在、広瀬武夫顕彰を計画立案中で、その計画資料の一つとして、松山に広瀬神社からお贈りした石を秋山眞之立像を背景にした画像があればお送り願いたいと秋山兄弟生誕地に照会があり、今日(8月22日)松山市梅津寺町にある秋山眞之と石の写真を撮りに行って来た。

眞之立像の横にある石は、広瀬神社から贈られた「旅順口閉塞作戦の船に積んだ石」(護国の石)である。
有名な言葉が残っている。第2回旅順口閉塞作戦に参加した福井丸指揮官広瀬武夫少佐と杉野孫七上等兵が居た。杉野は爆破装置操作のため艦首に向かったきりだった。広瀬は「杉野!杉野!」と叫びながら捜し回り、敵弾の砲煙の中で、ボートと船内を三度も往復した。そして広瀬と杉野は帰らぬ人となった。


梅津寺町にある秋山眞之の立像と広瀬神社から贈られてきた「護国の石」。
秋山眞之の立像は、遥か彼方旅順方向に向いて立っている。


秋山眞之の立像で台座には「智謀湧如」と揮毫されている。揮毫者は、東郷平八郎で、その上には、戦艦三笠が描かれている。


広瀬神社から贈られてきた「護国の石」と秋山眞之の立像。


広瀬神社から贈られてきた「護国の石」


広瀬神社から贈られてきた「護国の石」・・大きさは、63cm×31cm


秋山眞之の立像裏面には砥部焼きで仕上げた関係者の氏名が埋め込まれている。


秋山眞之の立像説明板。


秋山眞之の立像左横に石碑が建立してある。
石碑、北面には、「皇国の興廃この一戦にあり 各位一層奮励努力せよ」


石碑、西面には「敵艦見ユトノ警報二接シ、聯合艦隊ハ直二出動、之ヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレド浪高シ」


石碑、南面・・梅が香や おまえとあしの 子規・眞之
子規と眞之は松山中学、大学予備門まで共に過ごすが、眞之は東京大学には入学せず、明治19年(1886)10月30日:海軍兵学校に入学する。大学予備門では、夏目漱石も同級生であった。


石碑説明版。


眞之の立像の少し下に兄、秋山好古の立像がある。


秋山好古は、奉天の方向を見るように立っている。奥に見える海は瀬戸内海。
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