EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

浄土時のお施餓鬼

2013年08月12日 | 伊予松山歴史散策
8月10日、我が家の菩提寺である、四国88ヶ所第49番浄土寺のお施餓鬼に行って来た。
幼少時代、夏休みの楽しみは、日尾八幡神社の夏越祭りと、浄土寺で行われるお施餓鬼に行くのが楽しみとしていた。当時は参道に夜店が並び賑やかであったが今年はなかった。
施餓鬼供養は、 私たちが亡くなると、仏教では因果応報と言われるように、生前行った功徳の結果において、六道世界に振り分けられると言いわれている。
 私達の先祖もまた、もしかすると餓鬼道に落ちて苦しんでいるかもしれない。私達は凡人だから、つい欲深い行いを知らず知らずの間のうちに行って、その結果によって餓鬼道の世界に落ちて苦しむかもしれない。
そうした多くの人々を救うためには、今生きている私達が、餓鬼道の世界で苦しんでいる人々の為に、代わって善行を積んで、仏様の慈愛でもって、餓鬼道の世界で苦しむ人々を極楽世界へと導いてもらうということを、施餓鬼と言います。・・とある。
 施餓鬼は字の如く、餓鬼に施すということですから、まず水や食べ物を供え、読経回向することは当然ですが、施餓鬼の最も大切なことは、普段から我々人間も含めたこの世に生きる全てのものに食べ物を分け与えるという心掛け気を配る優しさが必要ではないでしょうか。・・とも記述がある。
そうした普段からの、食べ物を大切にし、また他に施し、共に分け与えていくという日常の心掛けが、施餓鬼供養の本当の意味だと思われる。 ・・こんな思いを抱いて檀家の者たちが浄土寺のお施餓鬼に来ている。
浄土寺について調べてみると、孝謙天皇の勅願寺として、行基が創建し、建久3年(1192)に源頼朝の再興によって大いに繁栄し、寺域は八丁四方におよび、66坊の末寺をもつほどであった。創建当時は、興福寺系統の法相宗に属し、その後、天台宗となり、後に弘法大師がこの寺を訪ねて、荒廃していた伽藍を再興し、真言宗に改宗し四国霊場の札所となった。その始めは、真言宗小野派随心院末であったが、のち新義真言宗豊山派長谷寺末に転属した。
浄土寺松山市鷹子町にあり、山号は西林山(さいりんざん)、院号は三蔵院(さんぞういん)。本尊は釈迦如来。四国八十八箇所霊場の第四十九番札所である。・・久米村史より引用
同寺に、三輪田米山の墓がある。

各家庭では祖霊が、一年に一度、家の仏壇に還ってくるものとして、盆の期間中、盆供として毎日供物を供え迎え火焚きお迎えし、盆が終わると送り火を焚きお送りすりしていたが、核家族になってからはその風習もなくなりつつある。最近の人々は自分の家の宗派すら知らない人が増えてきた。結婚式は、神殿で行うが葬式は仏式で行うといった風習と変貌した。

8月10日は、松山祭り真っ最中、お施餓鬼に参加する人、町では松山踊りに熱中する俗世間で人それぞれおの思いでお盆を迎えた。


夕暮れとともに檀家諸氏が施餓鬼供養際に訪れだす。一昔前は参道に夜店が出ていたが今はない。


浄土寺本堂で、この日は本堂の中に入ることを許される。


本堂前には、各町の寺総代達がいろんなお世話をしていた。松山市久米校区には9つの町があり9名の総代が世話をしている。


本堂中央に作られた施餓鬼供養の祭壇。




本堂には、亡くなった祖先の名前が軸物仕様として表装され掲げられていて、嗣子達は、その名を探し供養をする。


午後7時今年の浄土寺の施餓鬼供養が始まった。


庫裏からお出ましになった僧侶9名が本堂にはいる。


8月10日の松山、最高気温34,8度、暑い中僧侶の長い読経が始まった。


浄土寺住職が心を籠めた供養をする。・・本堂の中は蒸し暑い中延々と読経が続いた。


闇夜の中、お施餓鬼にお参りをする家族連れ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする