EEKの紀行 春夏秋冬

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松山観光コンベンション協会所属 松山観光ボランティアガイドの会・研修講演会

2023年11月28日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

松山の城下町は、関ヶ原の戦いで武勲を挙げた加藤嘉明が、徳川家康から伊豫の地20万石を拝領し、慶長7年(1602)1月15日勝山城(現、松山城)の建設を起こした。嘉明が旧松前城(正木城)から慶長8年10月家臣及び住民とともに居を新城下町に移しこの地を「松山」と言う名称が公にされた。これが松山市の始まりで、現在の50万都市に発展して、中四国で3番目の人口を抱える都市に発展した。(広島市・岡山市・松山市)

現在(令和5年11月1日)人口は、502,197人である。

松山市の観光地は、松山城と道後温泉の二ヶ所で、松山城は、現存12天守の一つ、江戸時代最後に創建された一番新しい天守である。

道後温泉は、日本書紀にも出てくる、日本最古の温泉といわれて(日本三古湯:道後温泉・有馬温泉・白浜温泉)いる。

そして、西暦596年10月、聖徳太子が道後に来浴され、明媚な風光と良質の温泉を推賞され、その感動を文章に表し、湯の岡(現在の道後公園辺り)に石碑を建てたことが

「伊予国風土記逸文」に記述されている。その石碑は現在不明となっており道後温泉別館 飛鳥乃湯泉の中庭に、聖徳太子の石碑を復元建立されている。

さて、松山市の観光拠点は、公益財団法人・松山観光コンベンション協会が、松山市内に5ヶ所観光案内所を設置しており松山の観光について、外国語パンフレット等もご用意しておりますので、ぜひ観光案内所をご利用ください。

なお、道後観光案内所には、観光業務担当で、道後温泉界隈は初め、市内観光の豊富な知識だけでなく観光者に案内をする言葉遣い、態度その仕草に温かみを持つ女性職員が携わっている。観光者の接客に温もりを感じ、楽しい旅を続けられる雰囲気が醸し出ている。

旅人も道後松山に来てよかったな!!と思う。

この態度は、幼少時に培わった躾で、人間3歳までに性格が殆決まると言われる。昭和の時代家庭教育学級が各自治体の教育委員会で開催されていた。この女性のご両親は良い家庭教育をされて育てられたと私は感じている。

(教育の三本柱:学校教育・家庭教育・社会教育で、家庭教育の専門家は両親である。)

なお、

道後観光案内所の所在は、伊予鉄道道後温泉駅前にあるビル「道後温泉観光会館」の1階にある。(カラクリ時計の直ぐ隣のビル)

松山観光コンベンション協会所属の松山観光ボランティアガイドの会ガイドも駐在しており希望者には、ガイドが現地に赴き観光案内をしている。

松山観光コンベンション協会所属の一組織として松山観光ボランティアガイドの会がある。

同会には、7つの部会があり(道後ガイド事業部・松山城ガイド事業部・FMG事業部・交流事業部・研修事業部・広報事業部・当番表作成チーム)各部は部長、副部長が事業に携わり取り扱う事務は全て奉仕活動である。

同会の現在の会員数は、108名が在籍しており、活動全て奉仕で主な活動は、観光ボランティアガイドである。

私もその一人で、松山城観光ガイドを行っている。(先日まで道後温泉ガイドを担当していたが現在活動休止している。)

先日、研修事業部会から、令和5年9月より「明治松山の偉人」と題して研修会(勉強会)を開催することになった。第3回目の研修会の講演を、11月13日(月)午後1時30分から演題は「秋山好古揮毫の石碑」に付いて話をするよう依頼があり講話をした。

公聴対象者は、松山観光ボランティアガイドの会員限定で、20名の会員があり私の拙い話を聞いていただいた。

時間は、1時間の予定が40分超過して1時間40分の話をした。

この講演会目的は、松山観光ボランティアガイドの会員がガイド活動をする一助になればとの趣旨で始めたことである。

画像は、その時のものである。

平成17年1月18日秋山兄弟生誕地整備事業が完成し、当日NHK朝の大型ニュース番組「おはよう日本」で現地から中継で全国放送された。

秋山兄弟生誕地所在地:〒790-0801 松山市歩行町二丁目3番地6

東京都世田谷区池尻にある石碑で秋山好古揮毫の石碑は現在全国に53基発見されている中で一番古い石碑である。

明治29年6月30日建立で、秋山好古が騎兵第1連隊長として日清戦争に出征、優秀な隊員15名が戦死した。その哀悼の意を表すために好古が揮毫し好古自身が石碑を建立した。

建立地は、国有地で国は関知しないと言っている。現在は世田谷区が管理している。

民間に土地が譲渡されるとこの石碑は撤去命令が出る。

53基の内一番新しい石碑。

平成21年5月17日千葉県習志野市大久保商店街に建立された秋山好古の顕彰碑である。

建立者は、習志野騎兵連隊史跡保存会である。

好古は、騎兵第1旅団長として習志野から出征し、この地に凱旋した。

除幕式には、森田千葉県知事も参列された。

平成21年5月17日、千葉県習志野市大久保商店街に建立された秋山好古の顕彰碑である。

建立者は、習志野騎兵連隊史跡保存会である。

石碑の形は、日本騎兵の育ての親と言われた秋山好古なので馬の形をしている。

日清戦争で第1騎兵連隊隊員として出征、そして戦死した15名の一人、添田賢次郎隊員の実父、添田保吉が建立した哀悼碑で、石碑上部の篆書と碑文は秋山好古の揮毫である。

石碑の所在地は、神奈川県平塚市広川。

秋山好古が明治29年6月30日建立した世田谷区池尻にある石碑裏面に、添田賢次郎隊員の名前が揮毫されている。

日清戦争で第1騎兵連隊隊員として出征、そして戦死した15名の一人、内田與作隊員の実父、が建立した墓で墓石名を秋山好古が揮毫した。

石碑の所在地は、長野県安曇野市豊科。

秋山好古が明治29年6月30日建立した世田谷区池尻にある石碑裏面に、内田與作隊員の名前が揮毫されている。

石碑の所在地は、千葉県船橋市薬円台三丁目20番1号、陸上自衛隊習志野駐屯地にある。

この地は、陸軍騎兵学校の前身である陸軍乗馬学校があった。明治21年東京市麹町区元衛町に創立、同24年に東京府荏原郡目黒村上目黒(現在の目黒区大橋二丁目)に移転、明治31年陸軍騎兵実施学校となり大正5年12月千葉県千葉郡二宮町(現在地船橋市)に移転、翌6年9月陸軍騎兵学校と改称された。習志野は、日本騎兵の中枢だったため軍馬慰霊碑が騎兵学校に建立された。日本騎兵の父と言われた第2代目騎兵学校長・秋山好古大将が揮毫して建立された。

題字は、好古が入院直前、昭和5年10月5日の筆で此れが秋山好古の絶筆である。石碑は、昭和5年11月に建立された。

軍馬慰霊の碑の前にある「軍馬慰霊の塔」

203高地は、当初あまり重要視されなかったが、旅順港停泊中のロシア海軍太平洋第一艦隊(通称旅順艦隊)に砲撃しようとする際、着弾を観測する兵を配置するのに最適な場所であると気づいた日本海軍連合艦隊の作戦参謀であった秋山眞之少佐が、この高地を攻略することを進言し日露戦争を決する重要な鍵を握る場所になった。

明治37年9月20日の総攻撃戦闘に新潟県中蒲原郡横越村の大町助作一等兵士も参加、露軍鉄條網切断の任に当たり目的は達成したがそのあと敵弾に当たり戦死した。

第8中隊所属の斉藤源次郎上等兵は、奉天に前進中盛京省田義屯地点に於いて露軍と激戦奮闘したが敵弾を受け壮烈な戦死を遂げた。

また清田幾平伍長は、ローゼンガルトフカの激戦で戦死した。

三名の陸軍兵士は、新潟県新潟市沢海地区(当時・新潟県中蒲原郡横越村)から出兵し名誉の戦死をされ村葬として明治37年12月3日に葬儀が行われた。

神田又一横越村長、阿倍浩新潟県知事、第15旅団長斉藤徳明大佐、他多数の関係者が参列し壮大に行われた。

大正2年7月に沢海地区の戦死者の英霊を祀り、後世に残して行くために忠魂碑を建立した。

揮毫は、当時高田市に駐屯していた第13師団長秋山好古中将に横越村長神田又一氏、横越村会議員大町為作氏が碑文「忠魂碑」を依頼したものである。現在も忠魂碑の前で慰霊祭が行われており、以上建立の経緯に付いては、当時横越コミュニティ協議会会長(現在北方文化博物館館長)・神田勝郎氏の詳細なる調査により判明した。

日本海側に秋山好古揮毫の石碑発見で一躍大きな話題となりNHK松山放送局も取材に新潟市に行った。

1.碑   文 :  忠魂碑

2.所 在 地:  新潟県新潟市江南区沢海二丁目15番30号 日枝神社

3.揮 毫 者:  陸軍中将 秋山好古

4.建 立 者:  賀表講

5.建立年月日:  大正2年7月 

6.碑石大きさ:  高さ 2m70cm 横幅 1m48cm 厚さ 42cm

秋山好古揮毫石碑「忠魂碑」新潟市市民文化遺産に認定される。

新潟市民文化遺産制度は下記の通りです。

「新潟市の郷土の宝を再認識を促す」 を目的で、認定基準は「郷土の歴史や文化を象徴しているもの「世代を超えて地域で 受け継がれ、今後も保存すべき貴重なもの」とする・・が対象です。

 対象となる文化遺産は「建造物・旧跡・記念碑・芸能・有形・無形文化財の等々」だそうです。

特記事項として、新潟市江南区横越地区遺族会の皆さんは、現在も忠魂碑の前で毎年慰霊祭を開催されており、私も平成22年9月6日の慰霊祭に参列させて頂きました。

平成26年当時、市民文化遺産制度を制定していた自治体は、岩手県遠野市・京都市・新潟市の3市のみであった。
松山市にある秋山兄弟生誕地の関係者の一人としてこの度の市民文化遺産認定は本当に嬉しい事であります。

昭和3年清水小学校開校記念と御大典記念に建立された天壌無窮の石碑が校庭に建立された。

GHQ(連合軍最高司令部・日本の戦後処理をする最高機関)が行った⇒5代改革の一つ、教育改革の中で、教育施設内及びその周辺にある軍人が揮毫した石碑・扁額・軸物の撤去命令が各都道府県に通達された。

これに該当した好古揮毫の石碑が2基、扁額が2枚ありました。 

この石碑は、松山市立清水小学校が昭和3年に開校され、奇しくも同年、昭和天皇即位の御大典が行われた。この事を記念して、同校の20数名の先生方が醵金をして校庭に建立した。昭和20年11月GHQの命令を受けた松山進駐軍第24師団司令官・トーマスD、ドレーク陸軍大佐から撤去指示が出され撤去された。

同校の用具室に保管してあった石碑を、平成7年10月、渡部校長の許可を得て愛媛懸護國神社・波(は)爾(に)荘(さかえ)宮司の努力で護國神社境内に再建立された。石碑が割れているのは、撤去作業時に破損したものである。秋山好古は当時、北豫中学校長在任中で、清水小学校の直ぐ近くにあった。醵金建立した先生方の名前は石碑裏面に刻印してあったが、風化が激しく殆ど読み取る事が出来ない。

平成7年10月、愛媛懸護國神社境内に再建立された「天壌無窮」の石碑。

天壌無窮とは、天地とともにきわまりのないこと。永遠に続くこと。(広辞苑)古が揮毫した

宇和島市吉田町・安楽寺に再建立された「忠魂碑」

旧、愛媛県北宇和郡喜佐方村立喜佐方小学校(現、宇和島市立喜佐方小学校)前に建立されていた石碑。

日清・日露戦争で名誉な戦死をされた方々の忠魂碑である。昭和20年11月、GHQの命令で石碑が撤去されることになった。安楽寺・奥山住職は、身の危険もかえりみず「私が罪を被るから、我が寺に引き取り保存する」と断言されそれ以来、安楽寺がこの石碑を守り現在に至っている。

安楽寺の奥様に聞きました。・・

「好古にこの忠魂碑の揮毫依頼をしたのは、亀三郎さんですか」と、安楽寺奥山住職の奥様曰く、「そうでしょうね」と答え、さらに「現代の人々は、この時代のことなど関心がなくなりました。

NHKで坂の上の雲が放映されるので、時代を振り返り、良いものはどしどし取り入れて立派な国づくりの一助になればいいですね」と述べられた。

昭和48年5月27日、喜佐方公民館傍に、日清・日露・大東亜戦争で戦死された英霊を祭る忠霊塔が建立され、関係者の一人が、安楽寺住職に、忠魂碑はもういらないのではないかと言葉を漏らすと、奥山住職は激怒されたそうだ。忠霊塔と、この忠魂碑は訳が違うのだ、貴方は忠魂碑の意味が分かってないと言われたそうです。

大正14年12月6日、第一女子・昭宮(てるのみや)成子(しげこ)内親王御誕生記念に愛媛県立松山農学校(後の、愛媛大学農学部付属農業高等学校・現、愛媛大学付属高等学校)から揮毫依頼を受け秋山好古が揮毫した「質実剛健」の扁額である。

この扁額は、職員室に掲示されていたが、昭和20年11月、GHQの命令で扁額は撤去されることになった。

撤去された扁額は、額から外され箱に入れられ保管していたが、平成17年10月、私の知人である愛媛大学農学部付属高等学校の久山副校長先生から、秋山兄弟生誕地に寄贈しますが如何されますかと連絡があり、寄託の形で譲り受け、新たに額を新調し、現在、秋山兄弟武道場に掲示し来館者に閲覧してもらっている。

注:愛媛県立松山農学校は、現在の愛媛県警松山東警察署にあった。

研精而不倦、途中でやめることなく、何処までも勉強し尽くす・・の意味の扁額で、愛媛県立伊予農業高等学校の職員室に掲示してある。

この扁額も、昭和20年11月、GHQの命令で扁額は撤去されることになった。

平成25年3月20日、愛媛県立伊予農業高校の日山先生から秋山兄弟生誕地経由で私に連絡があった。大洲市長浜の三島神社に秋山好古揮毫の石碑がありますがご存知ですかと、日山先生も個人的にいろいろな石碑の調査をされているようでした。この石碑未調査であったので同年4月4日、現地に行った。そしてその後、伊予農業高等学校にお礼に行くと、職員室に秋山好古揮毫の扁額が掲示してあった。

私が伺った当時の校長、岩村校長先生曰く、校長先生も代が変わりどの様な経緯で秋山好古さんに揮毫を依頼したのかは不明ですが、GHQの命令で撤去され、当時の校長先生が、自宅に持ち帰り保管され、日本の主権が回復したあと、もとあった学校に掲示し現在に至っていますと伺った。

いろんな方々が廃棄するのでなく、その時の関係者が心を籠めて揮毫し、建立し、掲示され大切に保存されていたものを、それを引き継ぎ、現在も存続しているこの気持ちが大切であり、これぞ日本人魂であると感じた。

終戦後、日本を占領下にしたGHQの一番の目的は、「日本人から愛国心を奪い、日本人の精神を弱体化させる事」 が重要な使命任務で、よくGHQの洗脳政策とも言われた。

GHQは、いろんな大きな改革を行い連合軍最高司令長官・マッカーサー元帥は、戦後日本の処理を行った。

最高司令長官「マッカーサー元帥」は朝鮮動乱での作戦面でトールーマン大統領と意見が衝突し、昭和26年4月11日、最高司令長官・マッカーサー元帥は解任され、昭和26年4月16日、羽田から日本を去った。日本在籍6年8ヶ月であった。

昭和39年4月5日逝去84歳であった。

昭和26年4月19日、米国上下議会で退任演説「老兵は死なず ただ消え去るのみ」有名な言葉である。

そして、最後の言葉に「戦後日本国民は、近代史に記録された中では、最も大きな改革を体験してきた。私は占領軍の4個師団を朝鮮に送りましたが、日本に生じる”力の空白”については何の不安もありませんでした。結果は、まさに、私が確信していた通りでした。

日本ほど穏やかで秩序のある勤勉な国は知りません。

また、日本ほど将来人類の進歩に貢献することが期待できる国もないでしょう。・・と退任演説で語られた。

 

 

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