
伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 13 松平定通(第11代藩主)
第11代藩主となった定通は、兄定則が文化6年(1809)7月5日に逝去したので、年僅か6歳で第11代藩主となる。
定通は幼少の頃から松平定信(第11代将軍徳川家斎のもとで老中首座を務め将軍補佐となる)の教育を受けた。定通が行った藩政改革は定信が実施した寛政の大改革そのものであった。
松山藩の改革は
1、倹約の励行
2、殖産の興業
3、備荒貯蓄
4、文武の奨励と藩学明教館の創設
伊予松山の教育の原点は、伊予松山藩第10代藩主松平定則が文化2年(1805年)に現松山市二番町に興徳館を設け、また文化6年(1809年)に江戸屋敷、愛宕藩邸に三省館を設けた。第11代藩主松平定通は、文政11年(1828年)2月に、これ等の施設を拡充して明教館を創建しここに本格的な藩学が誕生した。
また、定通は父の遺志をついで松山城郭の復興計画を練り再興に着手した16年後天保6年(1835)6月定通が逝去した事と、本丸作事場が失火でその成果はならなかった。
城郭再興は第12代定穀に引き継がれる事となる。
定通は、天保6年(1835)32歳で逝去、藩主は第12代松平定穀に継がれる。
従四位 侍従 隠岐守
画像は、松山城ニノ門で、脇戸付薬医門形式で、鏡柱・控柱の冠木上に梁を載せ、その上に板蟇股(いたかえるまた)・斗束(とづか)を置いて棟を受ける。軒は一重である。薬医門というのは、もともと武家や公家の屋敷に用いられ。また扉をなくして医家の門として用いられたのでこの名がある。
建造時期は、嘉永期の再建で、第12代藩主松平勝善の建造である。
昭和10年5月13日国宝に指定されたが、昭和25年5月、文化財保護法の制定により重要文化財に指定された。
第11代藩主となった定通は、兄定則が文化6年(1809)7月5日に逝去したので、年僅か6歳で第11代藩主となる。
定通は幼少の頃から松平定信(第11代将軍徳川家斎のもとで老中首座を務め将軍補佐となる)の教育を受けた。定通が行った藩政改革は定信が実施した寛政の大改革そのものであった。
松山藩の改革は
1、倹約の励行
2、殖産の興業
3、備荒貯蓄
4、文武の奨励と藩学明教館の創設
伊予松山の教育の原点は、伊予松山藩第10代藩主松平定則が文化2年(1805年)に現松山市二番町に興徳館を設け、また文化6年(1809年)に江戸屋敷、愛宕藩邸に三省館を設けた。第11代藩主松平定通は、文政11年(1828年)2月に、これ等の施設を拡充して明教館を創建しここに本格的な藩学が誕生した。
また、定通は父の遺志をついで松山城郭の復興計画を練り再興に着手した16年後天保6年(1835)6月定通が逝去した事と、本丸作事場が失火でその成果はならなかった。
城郭再興は第12代定穀に引き継がれる事となる。
定通は、天保6年(1835)32歳で逝去、藩主は第12代松平定穀に継がれる。
従四位 侍従 隠岐守
画像は、松山城ニノ門で、脇戸付薬医門形式で、鏡柱・控柱の冠木上に梁を載せ、その上に板蟇股(いたかえるまた)・斗束(とづか)を置いて棟を受ける。軒は一重である。薬医門というのは、もともと武家や公家の屋敷に用いられ。また扉をなくして医家の門として用いられたのでこの名がある。
建造時期は、嘉永期の再建で、第12代藩主松平勝善の建造である。
昭和10年5月13日国宝に指定されたが、昭和25年5月、文化財保護法の制定により重要文化財に指定された。
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