松山市窪野町北谷地区に「彼岸花」の群生地がある。地元住民たちが大切に管理育成している。
この地区には、四国88ヶ所第46番札所「浄瑠璃寺」があり、四十五番札所・岩屋寺(上浮穴郡久万高原町)から巡礼する遍路道である。
お遍路さんと地元住民の見ず知らずの人同士が出会い、言葉を交わし、心を通わせ「(お・も・て・な・し)、お持て成し」の心でお接待をしている姿をみると心が和む。・・いい光景である。
「彼岸花」の群生地の上に一遍上人が修行をした窪寺跡の石碑がある。
昨年は、撮影時期を逸し、気が付くと開花が過ぎていた。今年は遅れることなく現地に行ってみると彼岸花群生地区は満開であった。
地元農家の方が彼岸花群生地区を、こまめに手入れをし気持ちよく鑑賞出きる様配慮しているのは、やはり、お・も・て・な・し、の心意気で、・・有り難いものです。
撮影に県外からも来ておられた。
近くに由緒ある 正八幡神社があり 秋山好古が揮毫した 注連石がある。
画像は、昨日「9月20日」撮った彼岸花群生地区(松山市窪野町北谷)。
一遍は鎌倉時代中期の僧侶で時宗の開祖。
延応元年(1239年)伊予国の豪族、河野通広の第2子として生まれる。幼名は松寿丸。生まれたのは愛媛県松山市道後温泉の奥にある宝厳寺の一角といわれ、元弘4年(1334)に同族得能通綱によって「一遍上人御誕生舊跡」の石碑が建てられている。本家の河野氏は、承久3年(1221)の承久の乱で京方について祖父の河野通信が陸奥国に配流されるなどして没落し、一遍が生まれた頃にはかつての勢いを失っていた。河野一族の極楽往生を願い全国遊行を行っていたが、父の死をきっかけに還俗して伊予に帰る。しかし一族の所領争いなどが原因で、文永8年(1271)32歳で再び出家、信濃の善光寺や伊予国の窪寺、同国の岩屋寺で修行する。窪寺は、一遍上人成道の地として極めて重要な所である。
一遍上人生誕750年・没後700年を記念事業として記念碑が建立してある。
先日、一遍上人御誕生の宝厳寺(松山市道後湯月町)が火災で全焼し、本堂の重要文化財「一遍上人立像」が焼失した。
彼岸花の分布は、北海道から琉球列島まで見られる。自生ではなく、日本には中国から帰化したものと考えられる。その経緯については、稲作の伝来時に土と共に鱗茎が混入してきて広まったといわれているが、土に穴を掘る小動物を避けるために有毒な鱗茎をあえて持ち込み、あぜや土手に植えたとも考えられる。また鱗茎は薬になり、救荒食でもある。そのような有用植物としての働きを熟知しての運搬の可能性も無視できない。
日本に存在するヒガンバナは全て遺伝的に同一であり、三倍体である。故に、雄株、雌株の区別が無く種子で増えることができない(遺伝子的には雌株である)。中国から伝わった1株の球根から日本各地に株分けの形で広まったと考えられる。
松山市窪野町北谷地区にある「彼岸花」の群生地、今が見頃。
彼岸花は、別名「曼珠沙華」とも呼び異名が多く、死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、捨子花(すてごばな)、はっかけばばあと呼んで、日本では不吉であると忌み嫌われることもあったが最近は趣が変わり活花として観賞するようになった。・・世も変わったものである・・・
季語・花言葉
秋の季語。
花言葉は「情熱」「独立」「再会」「あきらめ」
「悲しい思い出」[4]「想うはあなた一人」「また会う日を楽しみに」。
迷信
花の形が燃え盛る炎のように見えることから、家に持って帰ると火事になると言われている。
多くの人がカメラ持参で自分の好みのアングルで撮っていた。撮る人を撮りそれをまた撮る私。
彼岸花は、全草有毒な多年生の球根性植物。散形花序で6枚の花弁が放射状につく。
道端などに群生し、9月中旬に赤い花をつけるが、稀に白いものもある。その姿は独特で、夏の終わりから秋の初めにかけて、高さ30 ~ 50cmの枝も葉も節もない花茎が地上に突出し、その先端に包に包まれた花序が一つだけ付く。包が破れると5~ 7個前後の花が顔を出す。花は短い柄があって横を向いて開き、全体としてはすべての花が輪生状に外向きに並ぶ。花弁は長さ40mm、幅約5mmと細長く、大きく反り返る。
若い二人連れ、こんな群生初めて見たわ!!凄いねと、言葉を交わしながら鑑賞していた。
管理保護している人達の苦労も忘れないで下さいね。
群生地区には雑草も綺麗に除去され、鑑賞する小さな遊歩道も作ってある。
親子連れで鑑賞。・・花を傷めないようにとお母さんは子供に言い聞かせていた。これも道徳教育の一環、子供の躾。・・いい光景であった。
松山のTV局も取材に来ていた。私にも撮影している所を撮らせて下さいと頼まれた。
一遍上人生誕750年・没後700年を記念事業として記念碑が建立されている付近にも彼岸花が咲いていた。
8月10日、一遍上人生誕地である宝厳寺本堂と庫裏が火災で全焼した。そして国指定の重要文化財「一遍上人立像」が焼失した。
松山城天守最上階160mから撮影。780mm相当レンズで
群生地区近くに由緒ある正八幡神社があり、陸軍大将 秋山好古が揮毫した 注連石がある。「碑文:作善降之百祥」・左に「不善降之百殃」がある。
作善降之百祥は、「よいことをすれば百の嬉しいことがあり」」
不善降之百殃は、「悪いことをすれば百の災いがある」
画像は、右側の注連石、作善降之百祥。
この地区には、四国88ヶ所第46番札所「浄瑠璃寺」があり、四十五番札所・岩屋寺(上浮穴郡久万高原町)から巡礼する遍路道である。
お遍路さんと地元住民の見ず知らずの人同士が出会い、言葉を交わし、心を通わせ「(お・も・て・な・し)、お持て成し」の心でお接待をしている姿をみると心が和む。・・いい光景である。
「彼岸花」の群生地の上に一遍上人が修行をした窪寺跡の石碑がある。
昨年は、撮影時期を逸し、気が付くと開花が過ぎていた。今年は遅れることなく現地に行ってみると彼岸花群生地区は満開であった。
地元農家の方が彼岸花群生地区を、こまめに手入れをし気持ちよく鑑賞出きる様配慮しているのは、やはり、お・も・て・な・し、の心意気で、・・有り難いものです。
撮影に県外からも来ておられた。
近くに由緒ある 正八幡神社があり 秋山好古が揮毫した 注連石がある。
画像は、昨日「9月20日」撮った彼岸花群生地区(松山市窪野町北谷)。
一遍は鎌倉時代中期の僧侶で時宗の開祖。
延応元年(1239年)伊予国の豪族、河野通広の第2子として生まれる。幼名は松寿丸。生まれたのは愛媛県松山市道後温泉の奥にある宝厳寺の一角といわれ、元弘4年(1334)に同族得能通綱によって「一遍上人御誕生舊跡」の石碑が建てられている。本家の河野氏は、承久3年(1221)の承久の乱で京方について祖父の河野通信が陸奥国に配流されるなどして没落し、一遍が生まれた頃にはかつての勢いを失っていた。河野一族の極楽往生を願い全国遊行を行っていたが、父の死をきっかけに還俗して伊予に帰る。しかし一族の所領争いなどが原因で、文永8年(1271)32歳で再び出家、信濃の善光寺や伊予国の窪寺、同国の岩屋寺で修行する。窪寺は、一遍上人成道の地として極めて重要な所である。
一遍上人生誕750年・没後700年を記念事業として記念碑が建立してある。
先日、一遍上人御誕生の宝厳寺(松山市道後湯月町)が火災で全焼し、本堂の重要文化財「一遍上人立像」が焼失した。
彼岸花の分布は、北海道から琉球列島まで見られる。自生ではなく、日本には中国から帰化したものと考えられる。その経緯については、稲作の伝来時に土と共に鱗茎が混入してきて広まったといわれているが、土に穴を掘る小動物を避けるために有毒な鱗茎をあえて持ち込み、あぜや土手に植えたとも考えられる。また鱗茎は薬になり、救荒食でもある。そのような有用植物としての働きを熟知しての運搬の可能性も無視できない。
日本に存在するヒガンバナは全て遺伝的に同一であり、三倍体である。故に、雄株、雌株の区別が無く種子で増えることができない(遺伝子的には雌株である)。中国から伝わった1株の球根から日本各地に株分けの形で広まったと考えられる。
松山市窪野町北谷地区にある「彼岸花」の群生地、今が見頃。
彼岸花は、別名「曼珠沙華」とも呼び異名が多く、死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、捨子花(すてごばな)、はっかけばばあと呼んで、日本では不吉であると忌み嫌われることもあったが最近は趣が変わり活花として観賞するようになった。・・世も変わったものである・・・
季語・花言葉
秋の季語。
花言葉は「情熱」「独立」「再会」「あきらめ」
「悲しい思い出」[4]「想うはあなた一人」「また会う日を楽しみに」。
迷信
花の形が燃え盛る炎のように見えることから、家に持って帰ると火事になると言われている。
多くの人がカメラ持参で自分の好みのアングルで撮っていた。撮る人を撮りそれをまた撮る私。
彼岸花は、全草有毒な多年生の球根性植物。散形花序で6枚の花弁が放射状につく。
道端などに群生し、9月中旬に赤い花をつけるが、稀に白いものもある。その姿は独特で、夏の終わりから秋の初めにかけて、高さ30 ~ 50cmの枝も葉も節もない花茎が地上に突出し、その先端に包に包まれた花序が一つだけ付く。包が破れると5~ 7個前後の花が顔を出す。花は短い柄があって横を向いて開き、全体としてはすべての花が輪生状に外向きに並ぶ。花弁は長さ40mm、幅約5mmと細長く、大きく反り返る。
若い二人連れ、こんな群生初めて見たわ!!凄いねと、言葉を交わしながら鑑賞していた。
管理保護している人達の苦労も忘れないで下さいね。
群生地区には雑草も綺麗に除去され、鑑賞する小さな遊歩道も作ってある。
親子連れで鑑賞。・・花を傷めないようにとお母さんは子供に言い聞かせていた。これも道徳教育の一環、子供の躾。・・いい光景であった。
松山のTV局も取材に来ていた。私にも撮影している所を撮らせて下さいと頼まれた。
一遍上人生誕750年・没後700年を記念事業として記念碑が建立されている付近にも彼岸花が咲いていた。
8月10日、一遍上人生誕地である宝厳寺本堂と庫裏が火災で全焼した。そして国指定の重要文化財「一遍上人立像」が焼失した。
松山城天守最上階160mから撮影。780mm相当レンズで
群生地区近くに由緒ある正八幡神社があり、陸軍大将 秋山好古が揮毫した 注連石がある。「碑文:作善降之百祥」・左に「不善降之百殃」がある。
作善降之百祥は、「よいことをすれば百の嬉しいことがあり」」
不善降之百殃は、「悪いことをすれば百の災いがある」
画像は、右側の注連石、作善降之百祥。
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