
伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 9 松平定功(第7代藩主)
第7代藩主を継承した、松平定功(さだかつ)は第5代藩主定英の次男である。
定功の時代も久万山騒動の影響で苦慮の時代であったが、藩の教育の必要性も鑑み推進している。
明和2年(1765)33歳で逝去、藩主は第8代松平定静に継がれる。
画像は、松山城本壇一ノ門で、本壇入り口の虎口に西面して建てられた最初の門で、脇戸付高麗門、門戸は非常に珍しい造りで、上下が格子造りとなっていて、これは攻勢防御の築城思想から、出撃帰塁時の兵員数を計る仕組みとされている。
建造時期は、安政元年に再建される天守に先駆けて本壇再建最初に建築された城門である。
建築時期は、嘉永期の再建で、第12代藩主松平勝善の建造である。
昭和10年5月13日国宝に指定されたが、昭和25年5月、文化財保護法の制定により重要文化財に指定された。
第7代藩主を継承した、松平定功(さだかつ)は第5代藩主定英の次男である。
定功の時代も久万山騒動の影響で苦慮の時代であったが、藩の教育の必要性も鑑み推進している。
明和2年(1765)33歳で逝去、藩主は第8代松平定静に継がれる。
画像は、松山城本壇一ノ門で、本壇入り口の虎口に西面して建てられた最初の門で、脇戸付高麗門、門戸は非常に珍しい造りで、上下が格子造りとなっていて、これは攻勢防御の築城思想から、出撃帰塁時の兵員数を計る仕組みとされている。
建造時期は、安政元年に再建される天守に先駆けて本壇再建最初に建築された城門である。
建築時期は、嘉永期の再建で、第12代藩主松平勝善の建造である。
昭和10年5月13日国宝に指定されたが、昭和25年5月、文化財保護法の制定により重要文化財に指定された。
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