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松山の偉人伝 その1 井上 要&秋山 好古

2023年12月13日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

井上要は、実業家、政治家で、教育分野にも理解のあった愛媛県政財界の中心人物であった。

慶応元年、伊予国喜田郡菅田村(現・大洲市)庄屋の有友平衛の長男に生まれ、同村士族井上家の養子となる。その後松山市大字豊坂町2丁目(現・柳井町3丁目)に居を設け活動した。

明治39年伊予鉄道の社長となり、伊予水力電気、松山電気軌道などを合併して伊予鉄道の基盤をつくり、松山商工会議所会頭などを歴任した。

四国初の松山高等商業学校(現・松山大学)の創立にも尽力した。昭和8年、伊予鉄道電気会社会長と、松山商工会議所会頭を辞職、退職金を県立図書館建設資金に寄贈し、松山の発展に貢献した偉人三傑の一人と言われ、

伊予鉄道を創立したのは小林信近であったが、小林は同社の生みの母、井上は育ての父であると言われた。

また、道後にグラウンドを建設してスポーツ振興に大きく貢献し、伊予教育義会会長でもあった井上要は、各分野に於いて卓越した手腕から四国の渋沢栄一とも言われたた。(渋沢栄一とも親交があった。)

昭和18年3月18日、三津浜町新浜の別宅で逝去、享年79歳であった。

晩年の井上 要

四国で初めての創立、松山高等商業学校(現・松山大学)開校、北豫中学の運営、愛媛県立図書館の開館等々教育に貢献した晩年の井上要。当時の指導者たちは私利私欲をすて郷土の発展のために心身財ともに献身的な働きをされた。

下記の事項は、井上要の功績の一部である。

北豫中学校長、加藤彰(あき)廉(かど)が松山高等商業学校(現・松山大学)初代校長として就任することになり、北豫中学では理事会を開催し、後任の校長に何方にお願いするかが議論された。井上代表理事は、後任の校長には、秋山好古陸軍大将しかないと考えていた。理事会では、予備役とはいえ陸軍大将を田舎の中学校長にお願いするのは大変失礼な事であるからと就任依頼をしないことで一致した。しかし井上要代表理事は他の理事の反対を押し切って、東京四谷に居た秋山好古を訪ねて次のように要請したのである。

「いま、北豫中学校の校長の適任者がいないのでこまっております。暫しの間、名前だけで結構ですので出して頂き、将軍が松山にお帰りになった時、学校に来て生徒達と遊んで頂くだけで結構です。どうかお名をお貸し下さい。」・・と願い出た。

すると好古は、それではいかんだろう!!私は中学校の事は何も知らんが、外に人がいなければ校長の名前は出してもよい。何でも奉公するよ・・との言葉を頂いた。応答は10分で好古校長就任の金的を撃ち落とし使命を果たした。井上は、鼻高々と松山に帰りこれを報告した。好古は、井上理事に「大正13年2月20日頃松山に帰るからと伝えた。」

新年度に入る前に、秋山大将は、親友の新田長次郎氏と連れだって期を違えず北豫中学校に登校したのであった。時まさに、大正13年3月の事であった。

秋山校長が就任した初年度の卒業証書。(秋山兄弟生誕地所蔵)

大正12年、元帥に推薦されるも秋山大将はこれを辞退した。大元帥(大正天皇)は大変驚かれた。(元帥を辞退したことは謎である。)

大元帥は、特旨として官位従二位を与えた。陸軍大将がそれも元帥を辞退して、肩書である、官位従二位を持つ校長は全国に誰も居なかった。

伊豫の松山、田舎の中学校校長に就任することは考えられぬ出来事で、当時日本の大きな話題になり珍事で、各新聞に大きく報道された。暫くのあいだそして松山に帰られた時学校に来て頂き、生徒と触れ合ってくださるだけでいいのが、なんと大正13年3月から昭和5年3月31日までの6年間、それも無遅刻無欠勤(公務で主張以外)で登校し校長を努めた。

担任の教師が休むと休講自由時間となるが、秋山校長は、自ら教壇に立ち授業を進め、休講にしなかった。

明教館(伊豫松山藩藩校)で基礎教育を身に付け、大阪高等師範学校で、陸軍士官学校で、陸軍大学校で学んだ知識を駆使して授業をした。(校長が教壇に立ち授業をする・・前代未聞である。)

当時こんな各種の学校で学んだ人物は秋山好古だけで、凄いことは元帥に推薦されるもこれを辞退、その人物が北豫中学校長である事であった。(軍人時代教育総監に抜擢されている。)

この様な事態なので、北中に入学する生徒が多くなり、校舎を増築伊豫松山の青少年教育のそれも文武両道の教育振興に尽力したのであった。

北中校長時代、教師からそして生徒達から、軍人時代の話をせがまれても一切話しはしなかった。私は、教育者であって軍人ではないときっぱりと断ったそうだ。

好古校長は、足の具合が悪くなり昭和4年3月31日付で北豫中学校長の辞任届けを提出するも井上要代表理事は受理せず、辞任は1年延期となった。

約束通り、昭和5年3月31日をもって校長を辞任した。

上記の事は、全て井上要氏が計画した方針に載せられて秋山好古が歩んだ晩年の出来事であった。母の教えも大きかった「大きくなったら、世のため・人のため・そして故郷のため」に尽くせる人となるように」と躾育てられた。その通りに生き抜いた好古の人生であった。
 その原点は、親友である新田長次郎と共に熟読した「福沢諭吉の学問のすゝめ」であった。

有名な一文に『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』二人の座右の銘は「独立自尊」で、そして秋山好古の信条は「簡単明瞭・質素・倹約」男系の子供・孫達は慶應義塾大学で学んでいる。

追記:

全国中学校長会議は、東京で開催されていたが、何時も上京し会議に列席、その時は常に謙虚な態度で、少しも大将などという顔おせず、会議次第に従え、他の校長達に対しても終始同僚として相接したので他の校長たちは、将軍を敬慕し、その人格に非常な尊敬を感じていた。

会議は、常に日比谷の府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)で行われ、休憩時や昼休みには他の校長たちと一緒に運動場に出て生徒達と過ごした。

生徒達は、「あれ誰だ」「あれは秋山大将だよ」と生徒達にささやかれた。

東京の新聞には、次の事が報じられた。「元帥を辞退し、錦をステテ故郷の中学校長となった秋山大将、三日にして第一中学生と化す。」「若い学生のあの純眞さが尊い。あれはそのまま成長させねばならぬ。私の学校には千人ほどの学生がいますよ」・・とさも心地よく語ったと新聞は報じた。 

井上 要は、多種多様にわたり松山の発展に尽力した偉人である。

北豫中学校長在任6年間、文武両道の教育を行い伊豫松山の青少年教育に多大なる尽力をした。

東京に帰る時大阪の新田長次郎氏宅を訪ね一夜を語り明かし、そしてその夏新田長次郎が経営する北海道の牧場を訪ね飼育指導をした。

同年11月4日、東京の陸軍軍医学校病院に於いて逝去、享年72歳であった。

 この事を知った新田長次郎は、信さんは私に別れの挨拶をしに大阪に来てくれたのであったか!!もっといろんな話をしたかったと号泣されたそうだ。

画像は、秋山兄弟生誕地所蔵

北豫中学校長時代の秋山好古。(秋山兄弟生誕地所蔵)

画像は、秋山好古、昭和5年3月31日付で、北豫中学校長を辞任し東京に帰る時、同年5月親友の新田長次郎宅を訪れた。・・大阪の新田長次郎宅で永久の二人の最後の写真である。

秋山好古は、同年11月4日逝去 享年72歳であった。新田長次郎、昭和11年7月17日逝去80歳であった。

愛媛県立松山北高等学校(旧・北豫中学)正門傍に建立されている井上要像。

題額「井上要君像」の揮毫者は不明であるが、銅像の彫刻家は、横江 嘉純の作で、銅像裏面に「昭和13年11月 元社團法人 北豫中學會 建」と揮毫されている。

昭和11年1月11日 井上要が銅像建立委員長となり道後公園内に秋山好古騎馬像が建立されたがこの像も横江 嘉純の作である。

参考事項:

横江嘉純は、富山県出身の彫刻家で明治20年5月3日生まれ、東京美術学校(現、東京芸術大学)卒、有名な彫刻家である。

井上要翁頌徳碑

昭和17年12月19日県立図書館前に建立、除幕式が行われた。

昭和50年図書館が堀之内(松山城三ノ丸)に新設移転時に梅津寺パーク入口に移設された。「井上要翁頌徳碑」の揮毫は、徳富蘇峰で徳富蘆花の兄である。

道後公園の西側に建立したあった秋山好古の騎馬像と、その前に、秋山眞之の立像があった。しかし残念に昭和19年、大東亜戦争の金属供出で秋山兄弟の銅像は供出された。左奥に見えるのが秋山眞之の銅像。

秋山好古は、生前「銅像創るな・石碑もいらぬ・家も要らない・墓も創るな」と言い残し昭和5年11月4日:東京陸軍病院で逝去 72歳の大往生、教師で社会人となり、教師で世を終えた。・・軍服と言う甲冑を着ていた時期が長かったが中身は、大阪高等師範学校仕込の筋金入りの教育者であった。

画像の騎馬像は、昭和11年松山の関係者がもうそろそろ銅像を創っても好古さん、許してくれるだろうとの事で道後公園の西側に建立した。しかし残念に昭和19年、大東亜戦争の金属供出で潰された。画像は、建立当時の秋山好古騎馬像である。

井上要は、秋山好古騎馬像建立委員長となり銅像製作をした。

道後公園にあった好古騎馬像である。

秋山将軍を北豫中学校長に迎え入れた井上要は将軍の死後、生前の高徳を慕い同志とはかり自ら建立委員長となり銅像製作を東京の彫刻家、横江嘉純に依頼設計共々一任した。

像は最初立像の予定であったが、「騎兵の秋山か」「秋山の騎兵か」と言われた将軍の銅像を馬から下ろす事は、好古の真面目と真骨頂とを失うものとの意見多く遂に騎馬像に改められた。横江氏は、深く好古の人格と偉勲に感銘し物資の報酬を超越し芸術的良心を将軍の性格行跡を極め特に馬に関しては専門家に就いて熱心に研究、好古の副官であった山内少将を度々乗馬モデルとしてその努力は驚くものであり、風貌姿勢等は好古の近親者の詳細綿密な注意と指導とにより度々改更修整を経て一つ一つ実物とほぼ同じ銅像が出来たのである。

昭和11年1月11日近親者をはじめ、北豫中学校職員生徒600名、松山連隊兵500名、地方官民有力者多数参列、銅像建設委員長式辞・陸軍大臣・第11師団長、県知事・市長の祝辞、遺族代表秋山信好氏の答辞、銅像の台石には、同郷の後輩、陸軍大将川島義之の筆による頌(しょう)功(こう)分が刻まれてあった。

(川島義之は2・26事件当時の陸軍大臣)

秋山兄弟生誕地にある秋山好古騎馬像は、昭和11年(1936)道後公園「中世の城郭跡・湯築城」内に騎馬像が建立されたが、先の大戦中に金属供出でつぶされた。幸いそのレプリカの一つが県立松山北高等学校に保存されていたので其れを参考に原作者の子孫の監修も受けて当時と同じ大きさに復元した。

 製作地は、富山県高岡市で、重さ:800Kg、高さ:3m、台座巾:2,5mのブロンズ像である。

 好古の乗馬姿は、ヨーロッパ諸国を視察の際フランスに立ち寄った、山形有朋に直訴し、その後日本の騎馬隊の原型となった、フランス式の乗馬姿勢である。(ドイツ式は、見た目には綺麗な姿勢だが、長時間乗馬すると非常に疲れるし日本人の体型に合わなかった。)

秋山兄弟生誕地の建造物は、昭和20年7月26日、松山大空襲により焼失されたが、井戸と秋山両将遺邸之石碑が残った。なお、松山に対する空襲は、昭和20年3月18日から15回に渡り攻撃された。(海軍松山航空隊には、源田実大佐率いる第三四三海軍航空隊精鋭部隊がいたから)

画像は、平成18年1月18日復元された秋山兄弟生誕地である。

秋山両将遺邸之碑

昭和12年7月、秋山両将遺邸保存会 代表者:井上要が秋山兄弟と深い関わりのあった人たちが後世の人々にその功績を伝えるために建立した。

この石碑は、本来生家の表にあったが、この度の整備事業で、秋山好古騎馬像、秋山眞之胸像を生家前に建立するため、石碑は裏側に移設した。石碑に罅があるのは、平成13年3月24日、15時28分に発生した芸予地震、震度5強の揺れで倒壊し、その時に出来たもので、修復し再建立したものである。この石碑は、花崗岩で熱に弱く、松山大空襲の時周囲の火災の熱をかぶり、石の組織が弱くなっていて、芸予地震で倒壊した時に罅割れを起こした。

では、秋山両将遺邸之碑をご紹介いたしょう。

 

秋山両将遺邸之碑 

1.碑   文 :  別途説明(碑文の要約等参照)

          撰文、井上 要

2.所 在 地:  松山市歩行町二丁目3番地6、秋山兄弟生家裏

3.揮 毫 者:  題額、陸軍大将 南次郎

4.建 立 者:  記載無し

5.建立年月日:   昭和12年7月 秋山両将遺邸保存会 代表者:井上要

6.碑石大きさ:   高さ2m70㎝ 横幅1m50㎝  厚さ30㎝

7.石碑の由来:   井上要他秋山兄弟と深い関わりのあった人たちが後世の人々にその功績を伝えるために建                                 立した。

  8.題額を陸軍大将 南次 郎に揮毫依頼した。その経緯は不明である。

                        秋山両将遺邸之碑  陸軍大将 南 次郎

                        昭和十二年七月 秋山両将遺邸保存会 井上 要撰幷書

碑文
陸軍大将従二位勲一等功二級秋山好古君海軍中将従四位勲二等功二級秋山眞之君兄弟生誕ノ地タル松山城東中歩行町ノ邸宅ハ天保年間考久敬翁ノ構築ニ係リ環堵蕭然トシテ素朴ヲ極ム大将ノ晩年帰リテ北予中学校長ノ任ニ就クヤ旧屋中ニ起臥シ僅ニ墻壁ヲ修治セシノミ今ヤ両将既ニ館ヲ捐ツ遺邸ノ漸ク朽廃ニ帰セントスルヲ憂ヒ同志ノモノ其保存ヲ計ラントスルニ際シ久松伯爵及ヒ山下亀三郎新田長次郎氏等資ヲ投ジテ之ヲ助成シ旧邸ヲ購ヒ修補ヲ施シ且両将ノ遺品ヲ蒐集シテ永ク其徳風ヲ傳ヘントス而シテ其保護管理ハ挙テ松山同郷会ニ託シタリ同会ハ青年教養ノ為メ中将ノ創設セル所ニシテ大将モ亦曾テ舎長タリシヲ以テナリ是ニ於テ同会ハ更ニ其西隣ノ地ヲ求メテ会館ヲ移シ以テ旧邸管理ノ任ニ便スルコトヽセリ若シ夫レ両将ノ人格勲業ハ赫々トシテ人ノ耳目ニアリ復タ縷説ヲ要セザルナリ

 昭和十二年七月 秋山両将遺邸保存会 井上 要撰幷書

秋山両将遺邸之碑・題額揮毫:陸軍大将南次郎

秋山両将遺邸之碑の説明

秋山両将(あきやまりょうしょう)遺邸之碑(いていのひ)    陸軍(りくぐん)大将(たいしょう)南次郎書(みなみじろうしょ)

陸軍(りくぐん)大将(たいしょう) 秋山(あきやま)好古(よしふる)君(くん) 従(じゅう)二位(い)(官位十六階中、上から四番目)勲(くん)一等(とう)(国に尽くした功績の等級)功(こう)二級(きゅう)(軍人に対する勲章の等級)海軍(かいぐん)運中将(ちゅうじょう)秋山(あきやま)眞之(さねゆき)君(くん) 従(じゅう)四位(い)(官位十六階中、上から八番目)勲(くん)二等(とう)(国に尽くした功績の等級)功(こう)三級(きゅう)(軍人に対する勲章の等級)秋山(あきやま)真之(さねゆき)君(くん)兄弟(きょうだい)生誕(せいたん)ノ地(ち)タル松山(まつやま)城東(じょうとう)中(なか)歩行(かち)町(まち)ノ邸宅(ていたく)ハ天保(てんぽ)年間(ねんかん)考(こう)(亡父)久敬翁(ひさたかおう)ノ構築(こうちく)ニ係(かか)リ環堵(かんと)蕭然(しょうぜん)(狭い住居が貧しくてもの寂しいさま)トシテ素朴(そぼく)ヲ極(きわ)ム大将(たいしょう)ノ晩年(ばんねん)帰(かえ)リテ北豫(ほくよ)中学(ちゅうがく)(現松山北高等学校の前身)校長(こうちょう)ノ任(にん)ニ就(つ)クヤ旧屋(きゅうおく)(古家)中(ちゅう)ニ起臥(きが)(生活)シ僅(わずか)ニ墻壁(しょうへき)(囲いの壁)ヲ修(しゅう)治(じ)(修理)セシノミ今(いま)ヤ両将(りょうしょう)既(すで)ニ館(やかた)(立派な屋敷)ヲ捐(す)(すてる、)ツ遺邸(いてい)(のこる住宅)ノ漸(ようや)ク(だんだん)朽廃(きゅうはい)(荒廃)ニ帰(き)セントスルヲ憂(うれ)ヒ同志(どうし)ノモノ其(その)保存(ほぞん)ヲ計(はか)ラントスルニ際(さい)シ久松(ひさまつ)伯爵(はくしゃく)久松定謨(ひさまつさだこと)及(およ)ヒ山下亀三郎(やましたかめさぶろう)  新田長次郎氏(にったちょうじろうし)等(など) 資(し)(資金)ヲ投(とう)シテ之(これ)ヲ助成(じょせい)(シ)テ旧邸(きゅうてい)ヲ購(あがな)(買う)ヒ修補(しゅうほ)(つくろいおぎなう)ヲ施(ほどこ)シ且(かつ)両将(りょうしょう)ノ遺品(いひん)ヲ蒐集(しゅうしゅう)シテ永(なが)ク其(その)徳風(とくふう)(立派な心がけや功績)ヲ傅(つた)ヘントス而(しこう)シテ其(その)保(ほ)護(ご)管(かん)理(り)ハ挙(あげ)テ松山同郷會(まつやまどうきょうかい)(財団法人常盤同郷会の前身)ニ託(たく)シタリ同會(どうかい)(松山同郷会)ハ青年(せいねん)教養(きょうよう)ノ為(た)メ中将(ちゅうじょう)(秋山眞之)ノ創設(そうせつ)セル所(ところ)ニシテ大将(たいしょう)(秋山好古)モ亦(また)曽(かつ)テ舎長(しゃちょう)(常盤舎の監督、東京都文京区本郷四―一〇―一)タリシヲ以(も)テナリ是(これ)ニ於(おい)(碑文の字は俗字)テ同會(どうかい)(松山同郷会)ハ更(さら)ニ其(その)西隣(にしどなり)ノ地(ち)ヲ求(もと)メテ會舘(かいかん)(松山同郷会の道場、建物)ヲ移(うつ)シ以(もっ)テ旧邸(きゅうてい)管理(かんり)ノ任(にん)ニ便(べん)スルコトトセリ若(も)シ夫(そ)レ両将(りょうしょう)ノ人格(じんかく)勲業(くんぎょう)(功績)ハ赫々(かっかく)(光り輝くさま)トシテ人(ひと)ノ耳目(じもく)ニアリ復(ま)タ縷説(るせつ)(こまごまと説明すること)ヲ要(よう)セザルナリ

昭和十二年七月 秋山(あきやま)両将(りょうしょう)遺邸(いてい)保存會(ほぞんかい) 井上(いのうえ) 要(かなめ)撰(せん)(著)并(へい)書(しょ) 

碑文の要約

秋山好古、秋山眞之両将軍の旧邸は、天保年間、父久敬翁がこの地に建立したと伝えられる。
兄弟はこの質素な家に生まれ育ち、好古将軍は退役後ここに住み北豫中学校の校長として子弟の教育に尽した。
秋山兄弟はすでに亡くなられたので、兄弟とゆかりの深い伯爵久松定謨、山下亀三郎、新田長次郎らが資金を集め西隣地も購入し、その管理を常盤同郷会に委嘱した。
両将軍の功績は、あらためて記す必要のない程偉大であり、誰もが知るところである。
昭和12年7月 秋山両将遺邸保存会 井上 要

 

秋山両将遺邸之碑に記載してある人物紹介

1,陸軍大将南次郎:(1874年8月10日~1955年12月5日、81才没、大分県豊後高田市生れ、陸相、朝鮮総督、貴族院議員、A級戦犯となる)

2,陸軍大将秋山好古:(1859年1月7日~1930年11月4日、71才没、松山藩士秋山久敬三男、北予中学校校長は1924年4月~1930年7月、墓所は青山霊園(松山市鷺谷共同墓地は分骨)

3,海軍中将秋山眞之:(1868年3月20~1918年2月4日、49才没、松山藩士秋山久敬五男、1887年松山同郷会を結成、1890年海軍兵学校を首席で卒業、1905年連合艦隊首席参謀)墓所は鎌倉霊園

4,久松伯爵(定謨(さだこと):(1867年9月9日~1943年2月19日、75才没、松山藩最後の藩  主(定昭)の嗣子(しし=あとつぎ)、 陸軍少将、 東京に学生寮「常盤舎」を設立、1921年松山城の麓に萬翠荘を建築、模範農園を設置)伊予松山城存続に尽力 久松家第17代当主

5,山下亀三郎:(1867年4月9日~1944年12月13日、77才没、元宇和郡河内村出身、1882年上京し明治法律学校に学ぶ、実業家、山下汽船創設者、参議、山下実科高等女学校(現吉田高校)、第二山下実科高等女学校(現三瓶高校)を設立)

6,新田長次郎:(1857年5月29日~1936年7月17日、79才没、元温泉郡山西村出身、実業家、1885年製革業を創業、1902年緑綬褒章を受章、1911年大阪市難波に私立有隣尋常小学校(現、大阪市立栄小学校)を設立、1923三年私立松山高等商業学校(現、松山大学)を設立、温山と号す)

7,井上要:(1865年5月5日~1943年3月18日、77才没、元喜多郡菅田村出身、実業家、有友兵衛の長男として生る、1883年井上コンの養嗣子となる、1885年独学して代言人試験に合格、1888年東京専門学校(現早稲田大学)に留学、1906年元伊予鉄道社長、1890年県会議員、同年12月同議長1902年衆議院議員、1903年11月愛媛進歩党を結成、1913年伊予水力電気会社社長を兼務し

て1916年伊予鉄道会社と合併、1927年松山商工会議所会頭、1933年69才で伊予鉄道電気会社会長と松山商工会議所会頭を辞職、退職金を県立図書館建設資金に寄贈、伊予教育義会会長、北予中学校理事、松山高等商業学校理事、道後グランドを造成、伊予史談会を援助、高浜不去庵で悠々自適の生活、徳富蘇峰の撰になる頌(しょう)徳(とく)碑(ひ)は梅津寺公園にある)秋山好古を北豫中学校校長に就任以来した。

                                         以  上

 

平成18年1月18日復元された秋山兄弟生家の座敷である。

参考事項

千葉県船橋市にある「東邦大学習志野キャンパス(薬学部・理学部)」に陸軍大将 南次郎揮毫の立派な石碑が建立されている。

平成24年10月31日、東邦大学習志野キャンパス事務局の許可を得て撮影した。

陸軍大将 南次郎揮毫の石碑で、「武勇・信義・質素・忠節・禮儀」の文字が刻まれている。

東邦大学習志野キャンパス(薬学部・理学部)は、陸軍最初の“快速兵団”として 騎兵第1・第2旅団が創設され, 第13~第16騎兵連隊が置かれた。

南次郎は、騎兵13連隊第6代目の連隊長で歴代連隊長の中で一番厳しい連隊長であった。

特に礼節に厳しかった。また、騎兵連隊の中で一番の精鋭部隊で、平時の時は近衛師団に編入され、有事となれば騎兵第1旅団の配下となった。

騎兵隊は、昭和17年になって戦車部隊に改編された。

現在、騎兵第13連隊跡~騎兵第16連隊跡は下記の通りとなっている。

騎兵第13連隊跡:東邦大学習志野キャンパス(薬学部・理学部)

騎兵第14連隊跡:日本大学生産工学部

騎兵第15連隊跡:東邦大学付属東邦中学校・東邦大学付属東邦高等学校

騎兵第16連隊跡:現在空地

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1 コメント

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Unknown (越智真紀子)
2023-12-25 15:34:07
ブログが再開されてとてもうれしいです。内容が詳しく情報が多いにもかかわらず、写真と文章が的確、簡潔で読みやすく、しかも愛情が伝わります。これからも楽しみにしています。先日はお返事をありがとうございました。
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