松山市城南地区歴史散策13 興聖寺
松山市末広町にあり、市指定の伊予松山藩第2代目藩主、蒲生忠知の供養碑がある。
初代藩主、加藤嘉明の会津40万石で移封に伴い、出羽上ノ山城主から24万石で伊予松山城主になった蒲生忠知は、在城わずか7年で寛永11年(1634年)参勤交代の時京都で病死し、世継ぎがなく名門が断絶し、安永7年(1778年)蒲生の子孫が供養碑を建立した。
供養碑と並んで、赤穂義士の大高源吾と木村岡衛門の墓がある。
伊予松山藩江戸屋敷で大石主税ほか9名が切腹したが、二人を介錯した宮原久太夫は、松山に帰った後、自家の菩提寺である興聖寺に供養のため大高・木村両士の墓を建立した。
終戦までは浪士の討ち入り当日赤穂義士供養が行なわれていたが戦後中断していたのであるが昭和39年から復活され、最近は盛大に行われている。
大高源吾は、子葉と号し辞世の句「梅でのむ茶屋もあるべし死出の山」は句碑となっている。
画像は、昭和39年から復活した義士祭で、平成14年12月14日松山一の商店街「銀店街」を義士行列した。毎年興聖寺では、義士にちなんだ日本そばを振舞い、俳句会等々が盛大に行われる。
松山市末広町にあり、市指定の伊予松山藩第2代目藩主、蒲生忠知の供養碑がある。
初代藩主、加藤嘉明の会津40万石で移封に伴い、出羽上ノ山城主から24万石で伊予松山城主になった蒲生忠知は、在城わずか7年で寛永11年(1634年)参勤交代の時京都で病死し、世継ぎがなく名門が断絶し、安永7年(1778年)蒲生の子孫が供養碑を建立した。
供養碑と並んで、赤穂義士の大高源吾と木村岡衛門の墓がある。
伊予松山藩江戸屋敷で大石主税ほか9名が切腹したが、二人を介錯した宮原久太夫は、松山に帰った後、自家の菩提寺である興聖寺に供養のため大高・木村両士の墓を建立した。
終戦までは浪士の討ち入り当日赤穂義士供養が行なわれていたが戦後中断していたのであるが昭和39年から復活され、最近は盛大に行われている。
大高源吾は、子葉と号し辞世の句「梅でのむ茶屋もあるべし死出の山」は句碑となっている。
画像は、昭和39年から復活した義士祭で、平成14年12月14日松山一の商店街「銀店街」を義士行列した。毎年興聖寺では、義士にちなんだ日本そばを振舞い、俳句会等々が盛大に行われる。