EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

松山市日浦地区の川施餓鬼

2013年08月15日 | 伊予松山歴史散策
川施餓鬼は、水死者の霊を弔うために、死者の名を記した塔婆(とうば)や紙片を川に流すなどする施餓鬼供養で、全国各地で行われている。
松山市日浦地区では、毎年8月15日伝統行事として他の川施餓鬼と違った供養が行われている。
今から428年前、天正13年(1585)長宗我部元親は四国統一のため伊予国に侵攻、伊予国守護、河野通直の居城、湯築城(現、道後公園)の支城、奥之城がこの地域にあった。土州(長宗我部軍)との合戦時に石手川で激戦となり、同城7人の武将達は深手を負い石手川で戦死した。
この7人武将の魂を慰めるための供養行事が川施餓鬼である。その後、豊臣秀吉の四国平定の戦いに、小早川隆景を伊予国に配し平定後、伊予国守護は小早川隆景となる。

川施餓鬼は、明治天皇が崩御された時に中止されたが、平成4年に日浦公民館主催行事として復活、今年21回目の川施餓鬼、毎年お盆の8月15日に行われている。
川施餓鬼の見せ場は、7人武将が描かれた武者幟(高さ12メートル、重さ30キロ)を担ぎ、鐘や太鼓に合わせて石手川を練り歩き、五穀豊穣と無病息災を祈願する。また当日は、魚のつかみどり大会やお楽しみ抽選会も合わせて実施された。
地区には、両新田神社があり、鳥居にある社号額を秋山好古が揮毫している。


平成23年度の川施餓鬼の案内パンフの表。


川施餓鬼の案内パンフの裏面。


午後1時、川施餓鬼は地元日浦小学校の児童が打ち鳴らす陣太鼓で始まった。


7人大将の霊を供養する祈祷が行われ・・


川施餓鬼供養法要に津軽三味線の顕奏も行われた。


これが武者幟(高さ12メートル、重さ30キロ)。


武者幟(高さ12メートル、重さ30キロ)を担ぐために青竹を十文字に括り付ける。


供養の酒樽開き・・担手達はお神酒を頂、いよいよ武者幟を担ぎ石手川を練り歩く。


武者幟一番旗が川を登る。


高さ12メートル、重さ30キロある武者幟、バランスをとるのが大変。


武者幟を4本の引き縄でバランスをとる。・・担ぎ手とロープ引手の阿吽の呼吸が必要。


目標の上流地点まで無事練り歩いた。


出発点の下流地点まで3旗共に練り歩き全て終了。


次の行事は、子供たちのお楽しみである、マスのつかみ捕り。


日浦地区は、山間の集落で松山市の一番東方向に位置し、隣接は今治市となる。


武者幟を画像のように垂直に立てて練り歩きは難しい。


両新田神社の鳥居。
両新田神社は、新田義宗(南北朝時代の武将・新田義貞の3男)が各地転戦し、応永10年11月(1403年)当地山麓で卒・脇屋義治は応永10年8月当地にて卒・天文17年(1548年)3月18日河野通直は二廟を建立し、上新田廟・下新田廟社と称えたと言う、その後、二廟を合祀して両新田神社と改めた由緒ある神社である。


両新田神社の「社号碑・両新田神社」を秋山好古が揮毫した。
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明治期の愛媛の野球を人形で再現

2013年08月13日 | 伊予松山歴史散策
明治の野球をテーマにした創作人形点展「やろうぞな・ベースボール」が松山市一番町三丁目の松山全日空ホテルロビーで開催されている。正岡子規が広めた明治時代の野球の様子を程よく人形で表現している。展示会は8月25日なで。
松山が産んだ偉大な「野球人」の一人に正岡子規があげられる。上京して大学予備門に入学したが、この頃に野球に熱中しはじめたといわれている。子規は数々の野球用語の日本語訳を施したが、そのほとんどが現在でも使われている。それは「直球」「打者」「走者」「飛球」などである。幼名を「升」といったので、それをもじって「野球(のボール)」という雅号もあった。ベースボールを野球と日本語訳したのは中馬庚だが、正岡子規はそれ以前に「野球」という字を使っていたのである。
 大学予備門時代の同級生に、秋山眞之、夏目漱石が居るが、一緒に野球を楽しんだ。そして正岡子規は、平成14年野球殿堂入りした。
平成14年は、松山城築城四百年祭・正岡子規没後百年祭・四国で初めてのプロ野球オールスター戦が開催され、試合の前に・正岡子規は野球殿堂入りし、その記念式典が行われた。
それは、下記の理由である。
明治17年、東京大学予備門時代にベースボールを知り、野球に熱中したといわれる。22年7月には、郷里の松山にバットとボールを持ち帰り、松山中学の生徒らにベースボールを教えた。23年2月、『筆まかせ』の雅号の項に「野球」が初めて見られ、幼名「升」から(のぼーる)と読ませている。29年には「日本」新聞に連載された『松蘿玉液』の中で野球のルール、用具、方法などについてくわしく解説している。野球を詠んだ短歌、俳句も数多く見られ、新聞や自分の作品の中で紹介し、野球の普及に多大な貢献をした。「久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも」「今やかの三つのベースに人満ちてそヾろに胸の打ち騒ぐかな」

また東京都台東区では、 上野恩賜公園に、上野恩賜公園開園式典130周年を迎え130周年記念事業の一環として、正岡子規の句碑を、東京都による上野恩賜公園野球場の改修にあわせて、設置した。句碑には、正岡子規の野球に対する思いを表した句、「春風やまりを投げたき草の原」が刻まれている。また、同野球場の愛称が、東京都の協力により「正岡子規記念球場」となった。

松山市が管理する、松山中央公園野球場がある。愛称坊っちゃんスタジアムと呼んでいる。なぜ、正岡子規記念球場と命名しなかったのか不思議である。
参考までに
夏の甲子園で一番勝率がいいのは、愛媛県で以下の通り。
1位 愛媛県 .651 (114勝61敗)
2位 大阪府 .648 (153勝83敗)
3位 神奈川 .634 (116勝67敗)
4位 和歌山県.621 (118勝72敗)
5位 広島県 .617 (111勝69敗)
ちなみに全都道府県から出場校が出揃ったのは昭和53年(1978)の60回大会以降なので、各県の出場回数には差がある。但し記念大会時は各県の出場あり。「(1府県1代表制(但し北海道・東京都は2代表制))
成績は、
中京大中京(愛知県) 76勝19敗  優勝7回 準優勝0回
松山商業 (愛媛県) 60勝21敗1分  優勝5回 準優勝3回
龍谷大平安(京都府) 58勝28敗    優勝3回 準優勝4回


全日空ホテルロビーの一角に展示されている、案内板。


伊予松山城をバックに楽しげに野球を楽しむ風景。


球審は和服姿。


創作展での捕手は、野球に詳しく、頭脳的に配慮が出来る正岡子規を置き!!


投手には、愛媛の野球、戦前戦後を通じて最高の投手、安楽智大を配したと作者の森川真紀子さんは言っていた。度々安楽投手の試合を観戦し顔の表情を観察して創りましたと!!その安楽投手いよいよ明日甲子園に登場、頑張れ安楽投手。


画像は、今年の愛媛県大会で優勝したときの安楽智大投手で、森川さんは人形の投手を安楽君に仕上げた。


森川真紀子さんはこんな表示板を掲載している。


正岡子規は野球を愛し、松山の子供たちに教えたその詩を詠んでいる。・・これも会場に置いている。


地元紙に掲載された新聞記事。


松山全日空ホテルロビー。
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浄土時のお施餓鬼

2013年08月12日 | 伊予松山歴史散策
8月10日、我が家の菩提寺である、四国88ヶ所第49番浄土寺のお施餓鬼に行って来た。
幼少時代、夏休みの楽しみは、日尾八幡神社の夏越祭りと、浄土寺で行われるお施餓鬼に行くのが楽しみとしていた。当時は参道に夜店が並び賑やかであったが今年はなかった。
施餓鬼供養は、 私たちが亡くなると、仏教では因果応報と言われるように、生前行った功徳の結果において、六道世界に振り分けられると言いわれている。
 私達の先祖もまた、もしかすると餓鬼道に落ちて苦しんでいるかもしれない。私達は凡人だから、つい欲深い行いを知らず知らずの間のうちに行って、その結果によって餓鬼道の世界に落ちて苦しむかもしれない。
そうした多くの人々を救うためには、今生きている私達が、餓鬼道の世界で苦しんでいる人々の為に、代わって善行を積んで、仏様の慈愛でもって、餓鬼道の世界で苦しむ人々を極楽世界へと導いてもらうということを、施餓鬼と言います。・・とある。
 施餓鬼は字の如く、餓鬼に施すということですから、まず水や食べ物を供え、読経回向することは当然ですが、施餓鬼の最も大切なことは、普段から我々人間も含めたこの世に生きる全てのものに食べ物を分け与えるという心掛け気を配る優しさが必要ではないでしょうか。・・とも記述がある。
そうした普段からの、食べ物を大切にし、また他に施し、共に分け与えていくという日常の心掛けが、施餓鬼供養の本当の意味だと思われる。 ・・こんな思いを抱いて檀家の者たちが浄土寺のお施餓鬼に来ている。
浄土寺について調べてみると、孝謙天皇の勅願寺として、行基が創建し、建久3年(1192)に源頼朝の再興によって大いに繁栄し、寺域は八丁四方におよび、66坊の末寺をもつほどであった。創建当時は、興福寺系統の法相宗に属し、その後、天台宗となり、後に弘法大師がこの寺を訪ねて、荒廃していた伽藍を再興し、真言宗に改宗し四国霊場の札所となった。その始めは、真言宗小野派随心院末であったが、のち新義真言宗豊山派長谷寺末に転属した。
浄土寺松山市鷹子町にあり、山号は西林山(さいりんざん)、院号は三蔵院(さんぞういん)。本尊は釈迦如来。四国八十八箇所霊場の第四十九番札所である。・・久米村史より引用
同寺に、三輪田米山の墓がある。

各家庭では祖霊が、一年に一度、家の仏壇に還ってくるものとして、盆の期間中、盆供として毎日供物を供え迎え火焚きお迎えし、盆が終わると送り火を焚きお送りすりしていたが、核家族になってからはその風習もなくなりつつある。最近の人々は自分の家の宗派すら知らない人が増えてきた。結婚式は、神殿で行うが葬式は仏式で行うといった風習と変貌した。

8月10日は、松山祭り真っ最中、お施餓鬼に参加する人、町では松山踊りに熱中する俗世間で人それぞれおの思いでお盆を迎えた。


夕暮れとともに檀家諸氏が施餓鬼供養際に訪れだす。一昔前は参道に夜店が出ていたが今はない。


浄土寺本堂で、この日は本堂の中に入ることを許される。


本堂前には、各町の寺総代達がいろんなお世話をしていた。松山市久米校区には9つの町があり9名の総代が世話をしている。


本堂中央に作られた施餓鬼供養の祭壇。




本堂には、亡くなった祖先の名前が軸物仕様として表装され掲げられていて、嗣子達は、その名を探し供養をする。


午後7時今年の浄土寺の施餓鬼供養が始まった。


庫裏からお出ましになった僧侶9名が本堂にはいる。


8月10日の松山、最高気温34,8度、暑い中僧侶の長い読経が始まった。


浄土寺住職が心を籠めた供養をする。・・本堂の中は蒸し暑い中延々と読経が続いた。


闇夜の中、お施餓鬼にお参りをする家族連れ。
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一遍上人誕生の寺「宝厳寺消失・全焼」

2013年08月10日 | 伊予松山歴史散策
今日(8月10日)午後松山城ガイドで筒井門前にて広島県尾道市から来られた方をご案内していた所、火災発生のサイレンが鳴った。サイレンは、けたたましいものでなく、どこかの小火であったくらいに感じた。それから天守最上階に上がってみると、道後温泉方角に火災らしき煙が上がっており、直ぐにカメラを取り出し撮って拡大してみると、なんと宝厳寺の火災であることが判明した。松山市の古刹、宝厳寺、松山道後温泉の宝物を無くし残念。本堂には、「木造一遍上人立像」があり、早い火の回り方では運び出せなかったのではないか??

宝厳寺(ほうごんじ)は愛媛県松山市道後湯月町にある時宗の寺院で、時宗開祖一遍の生誕地。山号は豊国山。寺号は詳しくは豊国山遍照院宝厳寺と称する。愛媛県指定史跡である。
寺伝では天智天皇4年(665年)、越智守興が誓願院として創建したという。平安時代中期、天台宗寺院となる。往時は松ヶ枝町一帯に12の支院があったという。
正応5年(1292年)、寺は時宗の祖・一遍の弟にあたる仙阿によって再興され、時宗に改宗し、時宗十二派のうちの奥谷派本山となった。一遍は延応元年(1239年)、この寺の一角で誕生したとされている。一遍は、伊予の豪族、河野通信の第3子で、河野通広として誕生、その生涯は国宝『一遍聖絵』(一遍上人絵伝)があますところなく伝えられている。時宗の総本山は、神奈川県藤沢市の遊行寺(清浄光寺)で、寺紋は、河野氏の家紋と同じ、折敷に三文字である。
画像は、伊予松山城天守最上階からデジカメで撮った。


伊予松山城天守最上階(160m)からの画像。道後温泉方角の山手から煙が見えた。


拡大して見ると宝厳寺の本堂が燃えていることが判明した。以後の画像は連続画像である。


この画像が午後2時41分撮影。








午後2時43分撮影の画像で火柱が見えている。この時既に本堂の屋根は燃え落ちて写ってない。








午後3時48分撮影、宝厳寺の駐車場には、消防車の姿は見えない、道が狭いので大型の消防車は入ることは出来なかったのか??普段の初期消火活動が必要。


宝厳寺の本堂で、昨年5月8日に撮った画像。


本堂右手に庫裏があるがこれも燃えてしまったかも??


今朝の地元紙「愛媛新聞」の記事。

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68回目の愛媛県原爆死没者慰霊祭

2013年08月06日 | 伊予松山歴史散策
昨日の新聞を見ていたら「終わらざる夏、先の戦いで戦死した兵士達は、何を守るために、そして誰を守るために命を懸けて戦ったのか?この事は未だに何も国民に明らかにされていないし、日本国は何も総括していない。」こんな記事があった。・・その通りだと思う。
今年も8月6日午前8時15分広島原爆投下日が来た。その後、長崎原爆・第五福竜丸、先般の福島第一原発事故、核の悲劇を身にしみて知る日本国民は時間の経過と共に忘れられようとしている。日本人の悪い癖だ。
8月15日もやってくる政府要人が靖国詣でをするのか?職業軍人、志願兵はともかく、赤紙一枚で無理やり召集されて戦地最前線に送り込まれ戦死、残された家族戦後の苦しい生活、地方の遺族は靖国神社にお参りに行く旅費すらない家族もいた。半強制的に俄か兵士として使われ天皇陛下万歳と言って戦死した兵士の皆さん。皆さんは靖国神社に祀られているが、そこに戦争犯罪人として戦犯となり、極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯とされた中の刑死者等が靖国神社の祭神として合祀されている事が最もおかしな出来事である。
未だ可笑しな事がある。
大東亜戦争末期には日本の敗色が濃厚になるにつれて、さも戦況が有利であるかのような虚偽の情報が「大本営発表」として流され続けた。誰の責任か??天皇の命令とある。陸海軍の統帥部長(参謀総長・軍令部総長)、で内閣総理大臣や外務大臣ら、政府側の文官は含まれないとある。御前会議何を考えておったのか、大元帥に!!喝。
親父も戦死した。昭和20年4月28日、ニューギニア島サラワティにて敵情報斥候中戦闘戦死。未だ密林の中で眠っている。

今日、8月6日午後6時から松山市石手川公園左岸「松山市立花四丁目6、石手川緑地(児童遊園地)」で、原爆死没者慰霊碑前で被爆68周年愛媛県原爆死没者慰霊祭が行われた。主催は、原水爆禁止松山市民会議である。被爆68周年愛媛県原爆死没者慰霊祭に行ってみた。で、原爆死没者慰霊碑前で被爆68周年愛媛県原爆死没者慰霊祭が行われた。主催は、原水爆禁止松山市民会議である。被爆68周年愛媛県原爆死没者慰霊祭に行ってみた。

この慰霊碑は、伊予鉄道横河原線の石手川公園駅から下流100m程の所に建立されている。
毎夏、8月6日ここで慰霊祭を行っている。「松山市立花四丁目6、石手川緑地(児童遊園地)」


これが慰霊碑の下に埋め込まれている碑文。


伊予鉄道横河原線の石手川公園駅・・ここから下流100mの左岸堤防にある。
鉄橋の上に造られている駅舎で日本でも珍しい駅。


午後6時から慰霊祭は始まった。・・最初に参加者全員で「原爆を許すまじ」の歌を合唱して始まった。


今年の参列者は55名。


最初に主催者の、原水爆禁止松山市民会議代表者が挨拶。


続いて被爆して亡くなられた方々のご冥福を祈って黙祷。


原水爆禁止松山市民会議の委員が追悼の言葉を捧げる。


参列者一人一人が冥福を祈り献花。




慰霊碑に献花された真っ白な菊の花を捧げ、68周年愛媛県原爆死没者慰霊祭は終了した。代表者の方に伺うと、四国管内での原爆被爆者は愛媛県が一番多く、今年4月現在被爆者は994名の方が居るそうです。愛媛県調べ(被爆者手帳持参の方が)。
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