米国の集中治療医であるDr. Kellumは、イタリアで行われた敗血症性ショックに対するエンドトキシン吸着の多施設RCTのエディトリアルの中で(注1)、東京 - ニューヨーク間の飛行機の中でもし敗血症になったら、米国に着けばEarly goal-directed therapy(EGDT)と活性化プロテインCによる治療が行われるのに対し、東京に着けばそのかわりにエンドトキシン吸着が行われると、ユーモア混じりに日米の違いを描写した(注2)。
このコトバを借りれば、東京 - ニューヨーク間の飛行機の中でもしARDSになったら、 ニューヨークに着けば、6cc/kgの一回換気量を目指してA/C(VC)換気がおこなわれ、輸液が絞られ、あとは原疾患の治療、早期経腸栄養、VAP予防などの支持的療法が行われる。東京に着けば、APRVが行われ、シベレスタットが投与され、その他の部分は変わりがないかな。
さらに想像すると、もし急性膵炎になったら、ニューヨークに着けば、輸液、早期経腸栄養などの支持的療法、必要な時のみ内視鏡的、外科的、放射線科的介入を追加するのに対し、東京に着けば、蛋白分解酵素阻害薬の静脈内投与、予防的抗菌薬に加えて、それらの動注療法、血液浄化療法療法、経静脈栄養が行われる。内視鏡的、外科的、放射線科的介入に関しては日米でそれほど違いはないであろう。
さらに想像すると、もしICU入院中に心房細動になったら、ニューヨークに着けば、心機能が悪ければアミオダロン、心機能が良ければエスモロールやジルチアゼムが使われるが、東京に着けば、Ia、Ic群の抗不整脈薬やベラパミルなどが使用されるかもしれない。
あとすぐ思いつくものとしてはDIC(播種性血管内凝固症候群)か。米国では敗血症にともなうDICが治療対象とすべき独立した疾患概念と強く意識されていない。上記の活性化プロテインCは抗凝固薬の範疇に入るが、飽くまで適応は重症敗血症、敗血症性ショックであり、DICと診断して投与を開始する、という使用法はしない。経験上も、PT、APTT、血小板数以外のDIC関連検査を提出することも稀だった(肝移植ではfibrinogen、FDP出してましたか)。一方、日本では、蛋白分解酵素阻害薬、アンチトロンビン、リコモジュリンなど、“多種の特効薬”が存在する。
なぜ両者はこんなに違うのか。
まずは、日本 vs 欧米という二項が対立するものとして考えてみよう。その方が話が簡単だからだ。そして、容易に想像がつくように二項が対立すると、議論は平行線に陥り思考は停止する。民主党 vs 自民党、昔で言えば自民党 vs 社会党、あまり生産的な議論が行われた記憶がない。欧米派は「◯◯(薬剤名、治療名)は予後を改善し安全だとするエビデンスはなく、しかも高価である」と主張し、日本派は「しかし、◯◯はXXの△△に効果を現し(薬理学的、生理学的機序)、◯◯の有効性、安全性はという論文で有効性、安全性が確認されている(注3)。市販後調査でも明らかな有害作用は指摘されていない」、あるいは「生死の境を彷徨う重症患者なので何とかしてあげたい。エビデンス的には意味がないかもしれないが、お役人が効果があると認めた(保険適応がある)薬だし」と反論するかもしれない。
両者ともいつでも述べる主張は同じで、どこまで行っても平行線で、歩み寄るようには見えない。なぜか。一つ一つ考えてみたい。
その背景のまず第一は、多くの医療者が、(たとえばEBMの手順 [5ステップ] にしたがって)質の高い臨床研究で有効だと認められた治療を選択し、有効でないものは使用を避ける、わけではない、という紛れもない事実があるだろう。
少し立ち止まって自分の過去を振り返る。レジデント時代に染まった“自分色”を変更することは実は結構難しい。三つ子の魂百まで。どんなに説得力があり、論理的な説明を聞いても、一度スタイルが確立されてしまうとそうやすやすと自分の好みは変更できない(ここでは、転向できない、というコトバを使わせてもらいます)。治療は、エビデンスがあるから選ぶのではなく、それ以外の部分、たとえば先輩の言いつけにより、レジデント時代に条件反射的に覚えたことを引き出しの中から引っぱり出して選択することが多いからである。
おそらく米国の医師でさえ、EBMを何なく実践するのは、少なくとも刷り込み段階では、先輩の言いつけなどでその治療を選択し(注4)、あとでその過程の合理性を知って納得するからではないか。最初からEBMに目覚めて寝ても覚めても調べ尽くして、リスクとベネフィットを考えて妥当な結論を選択して選ぶ「生まれながらにEBMを身につけたレジデント」は多くないし(それを受け入れやすい土壌は子どもの頃から形成されますが)、比較にならないほど忙しいのでみんな要領が良く、かなりの省略スタイルで毎日をやり過ごす。逆に、みんながやる「当たり前のこと」としていったん習慣になってしまえば、それほど苦ではないだろう。
現に、それがきわめてEBM的に妥当なプロセスを経て得られた結論であっても、米国の医療の現場で「今までそうやったことがないから」受け入れようとしないこともある(注5)。ただ単純に「今までそうやってきたからやる」という根拠に乏しい習慣的医療も少なからず存在する(注6)。
そのほか、治療選択の重要な選択因子には、前述のように重症患者を診る臨床医が「生死を彷徨う目の前の患者に効く可能性があるなら、少しでもよいものをしたい」と思う気持ちもあるだろう。患者を何とか救いたいという誰もがもつ医師魂と言ってもよい。ただし、これも臨床医自身のココロに対する救いの部分(やれることはみんなやった、という満足感)もあるので、必ずしも患者の病態や、患者や家族のココロに対する救いにならない場合があることを十分に認識する必要がある。
さらなる治療選択要因にコネクションも上げられるか。コネクションは、メーカーとのそれはもちろんのこと、教授、指導医、先輩、ときに家族との結びつきであったりする。人間は一宿一飯の恩義を感じやすいのである。これも洋の東西を問わない(注7)。
このようにして、欧米派はエビデンスを尊重した診療が、“あたりまえだから”当然のようにその診療をつづけ、日本派はそうやってきたのが“あたりまえ”で、うまくやってきた自信がある(人間は大なり小なりみんなそう思いますよね)から、その診療をつづける。欧米派の言い分は論理的という意味ではどう見ても妥当であるのに、いつまでたても日本派に受け入れてもらえない。一方、日本派の言い分は、論理的という意味ではどう見ても不利なのに、その不利を解消するために、同じ土俵にあがろうとしてこなかった。果たしてこのような二項対立を解消する良い道はあるのだろうか。まだ長くなりそうなので、つづく。
注1: ちなみにこのエディトリアルのco-authorとは現在なぜか同僚である。Kellum JA, Uchino S. International differences in the treatment of sepsis: are they justified? JAMA 2009;301:2496-7.
注2:この文章を読んだ筆者の第一印象は、どちらに降りても高額な医療だな、と言う物であった。それぞれ1クール、フルに使用すると、活性化プロテインCは約$6,800(54万円)、エンドトキシン吸着は約70万円か。
注3:残念ながらその論文の多くはエビデンスレベルが低いとみなされてしまう。
注4:米国医療はかなり封建的ですからね、特に外科系は。屋根瓦式は教育だけでなく、組織としての命令系統、規律という意味も大きい。小児科インターンのときにインド系のきっつーい女性チーフレジデントに逆らって、プログラムディレクターに呼び出しを食らった経験がある。
注5:個人的経験でも、術後、低分子ヘパリンかつアスピリン投与患者の硬膜外カテーテル抜去について議論になり、悔しい思いをした経験がある。もちろん英語が下手だった(今でも)という部分は考慮に入れなければならないが。
注6:ルーチーンのポータブルX線写真、など枚挙に暇がない
注7:これも欧米の方が、医療ビジネスとして規模がデカイだけに根深い問題がある