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小沢氏強制起訴…「陸山会」事件 国会の方は右往左往 マスコミは新制度の無理解

2011-02-01 12:59:20 | 政治
2011年2月1日(火)

 早くも2011年の2ヶ月目が始った。

 政治の方は一昨年来長きに亘って『小沢問題』で右往左往し続けている。

 国民にとっては、「いつまでゴタゴタやっているのか?早く決着せよ!」

というところだ。

 検察審査会の決定を経て、検事役の弁護士が昨日小沢氏を法律に基づき

「強制起訴」した。 それは当然の手続きである。

 何か「異例の措置」であるかのように報道するマスコミがあるが、

それはおかしいのではないか? 法の定める手順通りの流れである。

 また、検察審査会が「一部の国民の意見で起訴相当かどうかを決める場」

であるかのように言うメディアもあるが、そんなことを言い出せば

「裁判員制度」も成り立たないと言う話になる。

 いつも比較的真っ当な論陣を張っている【河北新報】が、この問題で

社説を書いているのだが、途中までは良いとして 最後の方で、

【検察審査会の強制起訴という新たな方式の悪影響を危ぶむ声も根強い。
   (中略)
検察がためらうのに一部の有権者の判断で起訴できるようにした
制度は、確かに危うい側面を持っている。】と書いている

 国民の常識や声を活かすと言う「検察審査会」制度や「裁判員」制度の

根幹を理解していない論調と言わなければならない。

 もっとも上記の論調は、その後に続く以下の論旨を特徴づけるための

前振りとして書いている処もあるのだが、曰く

【しかし、釈明の場を設定する力を十分に持ち、強く要請されもした
立場の側から、なぜ強制起訴に至ったかを無視して(上記の【 】内を)
強調されると、強い違和感を覚える。】

     **************

 一方で、検事役の大室俊三弁護士ら指定弁護士の3人は同日、記者会見し、
「(有罪立証に)不足のない補充捜査を尽くした。議決に従い、有罪判決を得られるよう努力したい」と述べた。(讀賣 他)

 という。

 これは、おかしいのではないか? どこがと言うと、

「有罪判決を得られるよう努力したい」という処である。

 これまでの検察は、村木厚子さんの冤罪事件でも明瞭になったように

被疑者を有罪とするためには証拠のでっちあげさえ行ってきたのである。

 市民的な常識と視線で判断するべき新しい制度において、「有罪」を

前提として検察官役を実行するのでは旧弊を引き継ぐものとならないか?

 TVドラマの女性検察官では無いが、被疑者の無罪を証明する証拠も

公平に扱い、当該の犯罪に対するあらゆる証拠と情報を法廷に提示する

のが本来の検察官の役割であり、推定無罪の前提で行動するべきである。

 「有罪判決を得られるよう努力したい」というのでは、

弁護士が検察官を務める新しい制度の意義が根本的に薄れてしまう。

 また多くのマスコミもこの制度への無理解で書いているように思える。

私は決して小沢氏を支持するものではないが、裁判の原則「推定無罪」は、

刑事事件はもとより政治的事件でも当然に前提とするべきである。


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以下、【河北新報】社説(2011/2/1付け)を引用する。 

小沢氏強制起訴
 /国会が制度つくるのだから


 国会は結局、何もしなかった。民主党の小沢一郎元代表が強制起訴されたことで明らかになったのは、政治の不作為である。

 なすべきことができなかったその訳を、一人一人の議員にあらためて尋ねれば、答えはさまざまであるに違いない。すべての責を小沢元代表の言動に求める声もあれば、そもそも検察の捜査が不当だったという冤罪(えんざい)説の立場もあるだろう。

 両極のようなそれらの意見がほぼ2年、この間、政権交代があったにもかかわらず、かみ合うことなく放置され続けてきた。「政治とカネ」の旧弊を断ち切ろうとする議論は一歩も進まなかった。

 政治が政治の手で、捜査とは別に自ら調査、解明する能力を示せなかったばかりか、その場を設定することさえできなかった。政治倫理審査会の今の仕組みでは無理だと思うのなら、変えればいいではないか。

 検察審査会の強制起訴という新たな方式の悪影響を危ぶむ声も根強い。ならば、無実を主張する議員に国会での十分な釈明を促す場をつくり直せばいいではないか。制度をつくるのは自分たちだという自覚を忘れたかのような振る舞いは、もう本当に見たくないし、聞きたくない。

 資金管理団体「陸山会」の収支報告書虚偽記入事件で元秘書3人が逮捕されたのは昨年1月。今回の起訴状によると、3人と共謀して陸山会に貸し付けた4億円を2004年分の報告書に記載しなかったなどの疑いを持たれている。
 西松建設の巨額献金事件で秘書が逮捕されたのはおととし春。党代表から幹事長へ、代表選候補者から「一兵卒」へと立場を変え、釈明の仕方も変転させながら、結局、国会招致の拒否という一線は譲らなかった。

 検察審査会の起訴相当議決には、有権者のいら立ちが幾重にも反映されている。秘書は起訴されても、政治家の責任は問われないのか。検察がためらい、国会が何もしないなら、裁判での決着しかないではないか。

 国会会期中の不逮捕特権をはじめ国会議員の身分保障は厚い。有権者の負託に応えられるよう議員活動の自由を尊重したいからである。その意味合いに対する自覚が足りなすぎる。いら立ちの源はそこにある。
 衆参両院の政治倫理審査会は1985年の設置以来、ほとんど機能してこなかった。今回もまた同じだった。常任委員会にして審査開始の用件を緩め、対象議員への出席要請に強制力を持たせれば、少しは変わる。

 検察がためらうのに一部の有権者の判断で起訴できるようにした制度は、確かに危うい側面を持っている。しかし、釈明の場を設定する力を十分に持ち、強く要請されもした立場の側から、なぜ強制起訴に至ったかを無視して強調されると、強い違和感を覚える。

 公判はもちろん全面対決になるだろう。審理はおそらく長期化する。その行方とは全く別に、無実を主張する政治家にしっかり説明させる場をどうつくり直すかを考えるのが、制度を設計する国会の責務だ。

    河北新報 2011年02月01日火曜日 社説


「パワーブローカー」小沢一郎氏の強制起訴について英語メディアは(gooニュース・JAPANなニュース)

小沢氏を強制起訴…「陸山会」規正法違反事件(読売新聞)

陸山会土地取引事件を巡り、小沢元代表を強制起訴(朝日新聞)

小沢「被告」最大の危機、求心力低下は必至(読売新聞)

小沢氏強制起訴 「4人組」結束陰り 首相も“終わりの始まり”?(産経新聞)


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