芭蕉がしたこと
芭蕉が山形の立石寺で詠んだ句、「閑さや岩にいみ入蝉の声」を作家の車谷長吉は文学だと述べている。なぜ、この句が文学なのか、車谷長吉は説明していない。
芭蕉の門人の土芳は著作『三冊子』の「しろさうし」の中で述べている。「むかしより詩歌に名ある人多し。みなその誠(まこと)より出て、誠をたどるなり。我師は誠なきものに誠を備へ、永く世の先達となる」。今から300年以上前に芭蕉が詠んだ句を現代に生きた車谷長吉が文学だと述べている。芭蕉は「誠なきものに誠を備へ永く世の先達と」なっている。「誠を備へ」たものが文学ということなのであろう。文学とは言えないものであった俳諧を芭蕉は文学にしたということなのであろう。
芭蕉以前の俳諧は文学とは言えない。芭蕉の門人去来はその著『去来抄』の「修行教」の中で述べている。「先師常に曰、上に宗因なくんば我々が俳諧、今以て貞徳の涎をねぶるべし。宗因は此道の中興開山也といへり」。貞徳の句には誠が備わっていない。宗因の句には誠が備わる可能性を秘めていたということなのであろう。「貞徳の涎」と芭蕉が言った句に次のものがある。「ゆき尽す江南の春の光かな」。松永貞徳は元亀2年(1571年)に生まれ、承応2年(1654年)に亡くなっている。芭蕉が10歳の時に貞徳は亡くなっている。書かれたものを通して、または人づてに芭蕉は貞徳の句を知ったのであろう。
「ゆき尽す江南の春の光かな」。この句について考えてみたい。「ゆき尽す」、この上五と下の「江南の春の光かな」とがどう結びつくのかが分からない。注釈が必要だ。この句には下敷きになった杜常の漢詩「華清宮」がある。
行尽江南数十程(ゆきつくすこうなんすうじってい)
暁風残月入華清(ぎょうふうざんげつかせいにいる)
華清宮というのは、唐の玄宗が楊貴妃と暮らした宮殿。詩は、『玄宗皇帝が安禄山の反乱のために南方の蜀へ数十日かけて逃れた。華清宮には暁の風、有明の月が訪れるのみ。
この注釈を読み、鑑賞ができる。「ゆき尽す」、歩き尽して、馬車に乗り尽して、舟に乗り尽して、「江南」へ、長江を越えた南の地に開放された春の光に喜ぶ気持ちが伝わってくる。
小西甚一は『俳句の世界』でこの貞徳の句を取り上げ、「句の姿が好き、みがきあげられた語感の美しさは、りっぱなものである」と絶賛している。芭蕉はこのような句を読み、「句の姿」とか、「みがきあげられた語感の美しさ」を学び、同じような句を詠み「貞徳の涎をねぶった」。「世の先達」になった書、『おくのほそ道』の中にも同じような句がある。「象潟や雨に西施がねぶの花」。「西施」が何を意味しているのかが分からなければ、鑑賞することができない。また「象潟」という土地が今から三〇〇年前には松島に匹敵する風光明媚な場所であったという知識がなければ鑑賞できない。
芭蕉の言葉に従い、「ゆき尽す江南の春の光かな」の貞徳の句に誠が備わっていないとするならば、同じように芭蕉の句、「象潟や雨に西施がねぶの花」にも誠は備わっていないことになる。確かに誠が備わった句「閑さや岩にいみ入蝉の声」のような句がある一方で誠が備わっていない句も芭蕉にはたくさんある。
芭蕉の句が生まれて三〇〇年、この間に何百万句が詠まれたに違いない。その中にあって誠を備え、文学になっている句が小数あるということなのかもしれない。