小さな政府論の黄昏
二十世紀後半の時代は「小さな政府論」が世界的に広がっていたように思う。国税局主催の財形セミナーに参加して日本政府の経済政策の中心は「小さな政府論」にあると思った。私は当初「小さな政府論」がどのような政策を意味しているのかを理解することができなかった。
自由放任主義時代の国家観、夜警国家観と「小さな政府論」とがどのような関係にあるのかが理解できなかった。安上がりの政府、夜警国家は産業革命後成立した国家だと思っていた。そのような政府論を二十世紀後半の時代になってなぜ唱えるようになったのかが分からなかった。
外敵からの防御、軍事力の行使と国内秩序の維持のための警察機能が主な国家の役割だと主張する人々に対して社会主義者ラッサールが自由放任主義的な市民国家はブルジョア的私有財産を夜警することを任務としているにすぎないとして19世紀に批判している。
第二次世界大戦後、イギリスにおいては「揺りかごから墓場まで」と、イギリス労働党はこのようなスローガンを掲げた。このスローガンが日本を含め、西側諸国の社会福祉政策の指針となった。英国の社会福祉サービスは、国民全員が無料で医療サービスを受けられる国民保健サービスと国民全員が加入する国民保険を基幹とすることが特色であった。日本にあっても皆保険制度が充実していき、現在においても皆保険制度は維持されている。皆保険制度の充実が社会を安定させた。第二次世界大戦後、先進資本主義国の指導者層の人々は日本が社会主義化するのではないかと心配していた。日本の社会主義化を阻止するためには社会福祉制度の充実が求められていた。そのような時代意識を自覚した日本の指導層の人々は安上がりの政府から社会福祉を充実する政府を実現していった。それは同時に日本社会の経済成長でもあった。経済成長と社会福祉が両立した時代でもあった。
1970年代になるとイギリスにおいて「英国病」といわれる事態が生まれて来た。労使紛争の多さと経済成長不振のため、他のヨーロッパ諸国から「ヨーロッパの病人(Sick man of Europe)」と呼ばれるようになった。1960年代になると、国有化などの産業保護政策はイギリス資本による国内製造業への設備投資を減退させることとなり、資本は海外へ流出し、技術開発に後れを取るようになっていった。また、国有企業は経営改善努力をしなくなっていき、製品の品質が劣化していった。これらの結果、イギリスは国際競争力を失っていき、輸出が減少し、輸入が増加して、国際収支は悪化していった。 特に多くの労働者を抱えていた自動車産業は、ストライキの慢性化と日本車の輸出が活発化した時期(1970年代)が重なったことで壊滅的な状況となり、2000年代には外国メーカーのブランド名としてのみ名前が残っている状況になった。
ここに登場してくるのがサッチャーである。彼女のやろうとしたことは、まさしく産業主義を現代に取り戻し、意識改革を起こそうというものである。
①国営企業の民営化、非効率企業への国家援助を取り外し、国際競争に耐え得ない企業は倒産させる。
②最高所得税を 83%から 40%に減税し、豊かな層の企業活動を一層活発化させる。
③慣行の上にあぐらをかいて働かない労働組合に対して、労働法を改正して労働組合活動を制限するとともに、国営企業をはじめとして企業から多くの失業者を作り出し、失業の恐怖の下、働くことを強制する。
④労働者に公営住宅を払い下げ、所有意識を持たせるとともに、国営企業を民営化する際、株式を払い下げ、900 万に及ぶ株主を作り出し、企業の業績に関心を持たせる。
このような変革政策は相当程度成功し、比較的停滞した社会が相当に活発化した。それでは本当にサッチャリズムはイギリスの基本構造を変革することに成功したのだろうか。結論を先取りして言えば、サッチャー政策は自由市場政策をとり、国際競争に生き残れる企業が生き残ればいいという政策をとった。この結果、伝統的な産業部門は長期間にわたって多くの部分が衰退することになった。これは、イギリスの経済政策に対する国際指向性の再主張でもあった。保護されたのは防衛産業と農業であった。一方、この政策で恩恵を受けたのはシティを中心とする金融、商業会社に加えて既に多国籍企業に支配されている部門であった。
しかし、一国経済の発展は製造業が担っており、イギリスの相対的衰退を止めることはできなかった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます