森崎映画の魅力
社会の底辺に生きる人間に人間の本質を森崎映画は見ている。宣言に感動して小説「橋のない川」を書いたと住井すえ氏は述べている。この宣言の精神が森崎東の映画には生きていると私は感じている。宣言とは次のようなものである。
「長い間虐(いじ)められて来た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、 多くの人々とによってなされた吾等の為めの運動が、何等の有難い効果を齎らさなかつた事実は、夫等のすべてが吾々によつて、又他の人々によつて毎に人間を冒涜されてゐた罰であつたのだ。そしてこれ等の人間を勦(いたわ)るかの如き運動は、かへつて多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際吾等の中より人間を尊敬する事によつて自ら解放せんとする者の集団運動を起せるは、寧ろ必然である。
兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰者であり、実行者であつた。陋劣なる階級政策の犠牲者であり男らしき産業的殉教者であつたのだ。ケモノの皮剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥取られ、ケモノの心臓を裂く代価として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの世の悪夢のうちにも、なほ誇りうる人間の血は、涸れずにあつた。そうだ、そして吾々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が来たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が来たのだ。
吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ。 吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行為によつて、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦はる事が何んであるかをよく知つてゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。
はかくして生まれた。
人の世に熱あれ、人間に光あれ。」
大正十一年三月
お座敷ストリップの仕出しをしている新宿芸能社は大都市の繁華街、新宿の場末にある。そこには食い詰めた若者が生きる糧を求めて集まってくる。現代に生きる「」の一群である。これらの人々を一般社会に生きる人々は賤視するむきがある。その差別の中に生きる人々の物語が森崎東の映画である。私はそのように森崎東の映画を見た。森崎東の映画には宣言の精神が表現されていると私は理解した。その精神とは次のようなものだ。
長い間、我々を虐(いじ)めてきた者たちもまた虐められてきた人々なのだ。弱い者が更に弱い者だと見なされた者たちを虐めて来たのだ。人間としての尊厳を受けることのなかった者たちが更に弱い立場の人間の尊厳を打ち砕いて来たのだ。こうたし人間の哀しみの歴史の中に我々は生きているのだ。人間として尊重されることなく生きることを強いられてきたので、堕落してしまい、人間性を獲得することができなかったのだ。人は人を敬うことによって人間性を獲得することができるのだ。人は人を敬うことによって自分もまた人間性を獲得することができるのだ。
人間は誰でも、自由、平等を心の底から願う者であり、自由、平等を実現しようとする者である。身分差別が当たり前である社会によって人間性を奪われた犠牲者が我々なのだ。人の嫌がる仕事を強制され、人の嫌がる仕事をしていることによって我々は差別され、貶されてきたのだ。暖かい心臓を引き裂かれ、その上に嘲笑の唾まで吐きかけられてきたのだ。このような悪夢の中にあっても、人間の心には誇りうる温かな血が流れているのだ。この血を受け継ぎ、人間が神に代わろうとする時が来ている。人間性を奪われた人々がその荊(いばら)の冠を祝福する時が来たのだ。
新宿芸能社に寄り集まって生きる人々が誇り得る時が来たのだ。我々は新宿芸能社に寄り集まる人々を辱しめるようなことがあってはならない。そこに生きる人々を冒涜してはならない。人の世がどれほど冷たいのか、その冷たさを知っているからこそ新宿芸能社に寄り集まって生きる人々を労わることを知っているのだ。
社会の底辺に生きる者であるからこそ、社会の底辺に生きる人々を敬うことができるのだ。すべての人間を敬うことのできる人間こそが真の人間なのだ。
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