醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  1033号  白井一道

2019-03-22 06:47:13 | 随筆・小説



   徒然草の時代



句郎 ヨーロッパ中世世界は楕円形の世界だと堀米庸三は著書『正統と異端』の中で述べている。楕円形は二つの中心を持つ図形だ。二つの中心を持つ世界が中世ヨーロッパ世界だ。ローマ・カトリック教会教皇と神聖ローマ帝国皇帝という二つの中心を持つ世界がヨーロッパ中世世界だとヨーロッパ中世史の泰斗は述べている。同じように日本の中世世界もまた二つの中心を持つ世界のようだ。京都御所に住まう天皇と鎌倉幕府将軍という二つの中心をもつ世界であった。
華女 日本の中世世界とヨーロッパの中世世界とは共通する性格を持つ社会だったのかしら。
句郎 ローマ・カトリック教会教皇は権威を有し、神聖ローマ帝国皇帝は権力を握っていた。
華女 日本の場合は京都の天皇が権威を持ち、鎌倉幕府将軍が権力をもっていたということなのね。
句郎 そのようだ。人民を統治するには権威と権力とが必要だということなのかな。
華女 今でも日本人の天皇崇拝のようなものは強く残っているように思うわ。天皇代替わりに伴って元号を変え、存続を希望する国民は80%近くいるというニュースを見たわ。
句郎 西洋の古代世界の中心は地中海世界だった。古代ローマ帝国の世界が同時に地中海世界だった。この地中海世界、ローマ帝国がイスラム世界に奪われると古代ローマ帝国は崩壊し、ゲルマン民族がガリアの地に建国した世界が中世ヨーロッパ世界だった。その地域はアルプス山脈以北の地域、ガリアだった。どこまでも広がる針葉樹林の森の中だった。青空が広がる地中海周辺地域に比べて空はいつも灰色の雲が覆っている痩せた地域だった。
華女 政治や文化の中心が古代はイタリア半島のローマだったとしたら中世ヨーロッパの政治や文化の中心はアルプス以北の地になったということなのね。
句郎 日本の場合も奈良・平安の古代世界の中心は奈良や京都であったのが中世鎌倉時代になると近畿から関東に政治や文化の中心が移動していく。
華女 時代とともに富の中心地が変わっていくということなのね。
句郎 最終的に関東が政治・文化の中心になるのは明治時代になってからのようにも感じるけどね。
華女 江戸時代は江戸が政治や文化の中心地になっていたのではないかしら。
句郎 でも京都の文化は根強いものがあるように思っている。
句郎 『徒然草』を書いた吉田兼好法師が生きた時代は13世紀末ごろから14世紀前半だった。この時代は鎌倉時代の末から室町時代にかけての時代だった。この時代は武家支配が確立したころだった。関西以西に権力基盤を持っていた朝廷勢力が最終的に武家政権に敗北したのが1221年の承久の乱だった。朝廷勢力を結集した後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが、朝廷側の敗北に終わった。後鳥羽上皇は隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府では北条氏による執権政治が100年以上続く。これ以後朝廷を監視する六波羅探題を京都に置き、朝廷の権力は制限され、皇位継承等にも影響力を持つようになっていった。
華女 兼好法師は武家の権力が揺るがないものになりつつある時代に生まれ、新しい時代に生きた人だったということなのね。
句郎 だから関東の文化を受け入れていく過程の人だった。その一つが『徒然草』119段「鎌倉の海に」という文章がある。「鎌倉の海に、鰹と言ふ魚は、さうなきものにて、この比もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申し侍りしは、「この魚、己れら若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づる事侍らざりき。頭は、下部も食はず、切りて捨て侍りしものなり」と申しき。かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ」とある。鰹は下人の食べ物だったのが高級品になったと書いている。これは関東の文化が上品なものになったということだ。
華女 鎌倉の食文化が京の食文化を変えてきているということなのね。
句郎 鎌倉時代末期ごろから始まった関東の文化が日本文化の中心になっていった。その結果が芭蕉の句に結実している。「鎌倉を生きて出けり初鰹」。兼好法師の文章が芭蕉の句を準備した。

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