醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   52号   聖海

2015-01-06 10:07:31 | 随筆・小説

 あらたうと青葉若葉の日の光   芭蕉

句郎 「遠山に日のあたりたる枯野かな」という虚子の句があるでしょ。
   この句は素晴らしいという人がいるけれども、どこがいいのかな。
   華女さんはどう思っているの。
華女 私はいい句だと思っているわよ。冬の日の情景が目に浮かぶでしょ。
   その情景がなんとも冬の日の暖かさを感じない。
句郎 花鳥諷詠とは、このようなことなのかな。
華女 そうだと思うわよ。花鳥諷詠とは一瞬の風景なのよ。その直観力が
   勝負だと思うけれどね。
句郎 直観力か。何も感じなかったら、風景は過ぎ去って行ってしまうと
   いうことなのか。
華女 張りつめた神経に風景が語りかける一瞬を捉えたものが俳句になる
   のだと思うけど。
句郎 芭蕉が詠んだ風景とは大きく違うね。
華女 どう違うの。
句郎 日光で詠んだ「あらたうと青葉若葉の日の光」という句があるでしょ。
   この句が詠んでいる風景と高浜虚子が詠んだ風景とは違っていると感
   じない。
華女 そうかな。落葉樹の若葉や青葉が日の光にきらきらする一瞬を詠んで
   いるように私は思うけど。違うの。
句郎 違うと思うよ。日光山輪王寺は数百年の歴史をもつ、日本有数の修験
   道の聖地だよ。更に徳川家康を祭神とする神宮の所在地なんだからね。
   まさに神仏習合の聖地なんだ。日光の山には神がいる。と同時に悟り
   を開く修験の山でもあるんだ。その聖地を称えた句が「あらたうとー
   ー」だと思う。芭蕉が詠んだ世界は自然じゃないんだ。何代にもわた
   る人々の営みというか、その経験によって築かれた尊いものを称えた
   句だと思うんだけどね。
華女 だから、言ったのね。杉の大木に囲まれた参道を歩き、ああーー、い
   い気持ちだ。東照宮・陽明門の前に参ったら、おおーーー、と絶叫し
   た。その気持ちを詠んだ句が「あらたうとーー」なのだと言ったわけ
   なのね。
句郎 そうなんだ。単に森林浴をしていい気持ちになった。東照宮の煌(き
   ら)びやかさに驚いたというだけの句ではないと思うんだ。
華女 なるほどね。
句郎 杉の木、一本一本に、修験者が走った細い石の道、その石一つにも行
   者たちの思いが詰まっている。参道の小道を歩くと昔の人々の息遣い
   を感じ、すがすがしい気持ちになった。陽明門を見てはここまで細密
   に彫刻を施して祭神を飾った人間の技の極致に感極まった。こうして
   祭神を称える人々の気持ちに絶叫したのだ。
華女 目に見えた自然ではなく、人間の営みを自然に託して芭蕉は句を詠ん
   だといいたいわけね。
句郎 うん。そうなのかな。だから、芭蕉が詠んだ風景、自然はすべてとい
   っていいくらい、人間を詠んだ句ではないかと思っているんだけどね。
華女 虚子の花鳥諷詠も単なる花や鳥、山の自然の風景を詠んだのではなく、
   やはり、人間を詠んでいるとは思うけどね。
句郎 「流れ行く大根の葉の速さかな」なんていう句も近郊農村の農民の暮
   らしが見えてくるような気が確かにするね。でも芭蕉の句は違うんだ
   な。人間の歴史の厚みを詠んでいるように思う。そこが違うと思うけ
   ど。


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