遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『ブツダの方舟(はこぶね)』 中沢新一+夢枕獏+宮崎信也 河出文庫文藝コレクション

2023-06-19 16:22:16 | 宗教・仏像
 少し前に、夢枕獏著『仰天・俳句噺』(文藝春秋)を読んだ。この書で本書を知った。対談集というのはあまり読まないのだが、地元の図書館に蔵書としてあったので借り出して読んでみた。奥書を読むと、1989年10月に単行本が刊行され、1994年5月に文庫化されている。
 冒頭の表紙は文庫初版のものである。「方舟(はこぶね)」という言葉を読めば、『旧約聖書』の「創世記」に出てくる「ノアの方舟(箱船)」を連想する。ブツダとの連想などない。この表紙絵からは「七福神の宝船」をまず連想してしまう。当然、方舟ではない。表紙自体が、ブツダ、方舟、宝船・・・異質なもののコラージュである。読了して、この対談集の一局面を象徴しているようにも感じる。私が読んだ記憶では「方舟」という語句は対談文に出て来なかったと思う。

 本書の読後印象は、花火大会の連続する打ち上げ花火を見ているような、つまり天空にぱっと湧き上がる花の色彩ときらめきを、目にし、読んでいるという感じである。
 思わぬ内容、事例がぱっと出てくる。関連説明は多少ある。そこにきらめきが含まれている。背景の文脈が詳しくは語られないないままに、未知の事象、事実が飛び出してくる。その点は対談だからそういうものかもしれない。だが、新知の断片に触れることになる。対談の話材は次々に移ろっていく。
 対談は主に、夢枕獏が疑問や話材を投げかけて、それに中沢新一が持論の要所を語る。そこに宮崎信也が補足説明を加えたり、持論を展開していく。三者三様のスタンスと意見・所見が、その場に投げ入れられた話材から談論を広げ、要所を考察していく。直線的に深化していくことはない。対談は話材との関わりのなかで、行きつ戻りつしながら、縦横に飛躍し、また螺旋的なループを描くかのようにどこかで繋がっていく。
 関心を惹かれる知識がぱっと飛び出してくるような印象が強い。知的で刺激的な局面を数多く含む対談。それがどこまで適切な説明なのかは良く分からないままという感じ。背景の知識を十分に持ち合わせていないので何とも言えないという次第。そういうことがあるのか/あったのか、そういう宗派、宗教もあったのか、そういう見方もできるのか・・・・・という感じ。
 仏教を基軸にした対談集であるが、他宗教にも言及していくので、そのとらえ方が興味深い。仏教の広がり、変容、わけのわからない側面を内在するというところが、花火が乱れ咲くように、語られている。三十有余年前の対談集であるが、仏教を知る上で、鮮やかに咲いた花火のように、現時点でも知的刺激材料にあふれた一冊であることは間違いない。

 本書の構成をご紹介しておこう。

 はじめに 『ブツダの方舟』というとんでもない本はいかにしてできたか 
  夢枕獏が雑談的なタッチでこの対談集のなりたちを語っている。

 第一章 人これを邪教と言う  1989.10.27  夢枕獏+中沢新一
  対談でのキーワードを列挙しておこう。(以下同じ)
  キリスト教のビリーヴ(believe)、チベット密教、仏教はサイコテクノロシー
  理趣経・真言立川流、二種類の般若心経、鎌倉時代の新興宗教、富士講、真言律宗
  山岳仏教と水銀、空海以前に将来された「大日経」、常行三昧堂の摩多羅神
  比叡山と高野山の歴史、輪廻の問題、チベット密教の宇宙論

 第二章 山の空間、山の時間 1987.6.25  夢枕獏+中沢新一+宮崎信也
  自然智(じねんち)、天台宗の本覚門思想、仏教の宇宙論、東南アジア諸国と密教
  仏教経典の翻訳、瑜伽唯識派、「色即是空」講義、仏教の時間軸、「有」と「空」
  仏教の空間論、仏教理解の基本文献、一所不住、仏典は心の楽譜、仏教は否定形

 第三章 神仏うらマンダラ  1987.6.26  夢枕獏+中沢新一+宮崎信也
  高野山(空海)と比叡山(最澄)、如来像と本覚、宗教界の離合集散、葛城山
  山岳信仰と不動尊信仰、彼岸は意訳、デーモンになれない日本の仏教

 第四章 超高層の宮沢賢治  1988.3.3   夢枕獏+中沢新一+宮崎信也
『銀河鉄道の夜』の作った空間、宮沢賢治:ロマン、科学、法華経世界、先見性
  法華経の特殊性・実践性、仏教の実践、大乗経典の作者は謎

 エピローグ 仏教と「有」の思想  1988.11.24   中沢新一+宮崎信也
  宮崎信也は中沢新一の自称・弟子という立場で中沢新一と対談する。
 ここからは印象深い文をいくつか引用してみたい。
*いまある仏教は仏教じゃないと言った人たちは、天才やら直観やらでそういうことを言う。新しい仏教としての大乗仏教の開祖みたいに言われるナーガールジュナなんてそうだったんだろうと思う。・・・・・これはほんとうの仏教じゃないと言い続ける、たぶん真理って全部そういうものだと思うよ。・・・・真理なんて現象の世界ですべて表現し尽くされるものであるわけがない。  中沢 p276-277
*永久のノンを言い続ける仏教とか、永久のノンを言い続ける真理の思想というのはありうると思うんだ。    中沢 p277
*鎌倉新仏教の時は、いままでの仏教を否定して出てきたんだけれど、いまはもう全部が並列にある。攻撃もしないし、仏教が思想の歴史をつづけることをやめてしまった。 
            宮崎 p278
*僕は、仏教というものは触媒だと思っているの。ひとつの完成形として何かがあるものじゃないと思うわけです。・・・・仏教によって日本人の思想は飛躍的に拡大したと思う。
            中沢 p279
*アジア人にとっての仏教というのは「そうたい的」に考えなければいけない。「そうたい的」というのは、レラティヴ(相対的)であると同時にトータル(総体的)に考えなければいけないということです。だからインド仏教だけを正純なものとして、唯一の思想展開としてとらえるのは、僕にはナンセンスだと思えるんだ。  中沢 p280
*無を説く仏教は、思想としてはそれはあると思う。しかし無の思想としての仏教を説いている人たちに、僕は嘘を感じちゃうんです。この世界の本質に対して嘘を言っているってね。すべては有から発しなければいけないと思う。ただ、その有をどうとらえるかということが問題で、その点において仏教は有に対してキリスト教とは違う思想展開をした。でも、ストレートな無の思想とは違うと思うんだ。 中沢  p292

 知的刺激に満ちた本であることは間違いない。考えるための出発点になる本と言える。
 ご一読ありがとうございます。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『釈尊最後の旅と死 涅槃経... | トップ | 『『教行信証』を読む 親鸞... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

宗教・仏像」カテゴリの最新記事