遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『天路の旅人』  沢木耕太郎  新潮社

2024-08-11 21:59:12 | 諸作家作品
 第2次世界大戦末期、25歳の時に「密偵」(諜報員、スパイ)と自覚し、ラマ教(チベット仏教)の蒙古人巡礼僧になりすまし、中国大陸の奥深く、寧夏省、青海省にまで潜入した男がいた。名は西川一三(カズミ)。本書を読み、初めてこの人物の存在とその壮大で艱難な旅の顛末を知った。本作は実話がベースになっている。

 西川一三は、1950(昭和25)年にインドで逮捕され日本に送還されるまで、蒙古人ロブサン・サンボーと自称し、ラマ僧になりすまして旅を続けた。西海省からチベット、さらにインド亞大陸にまで足を延ばす。インドではブッダガヤを初めとして、聖地巡礼の旅を続けた。実に足かけ8年に及ぶ長い歳月の旅だった。
 帰国後、西川はこの旅について原稿用紙3,200枚に及ぶ記録を綴ったという。その生原稿は紆余曲折を経て、圧縮・編集され芙蓉書房から『秘境西域八年の潜行』と題する3巻(上巻・下巻・別巻)として出版された。その後、再編集され上・中・下の3巻本で中央文庫として改めて出版されている。
 つまり、この『天路の旅人』は西川の自著『秘境西域八年の潜行』をベースとしてまとめられたドキュメンタリー風の作品といえる。文芸誌「新潮」(2022年8月・9月号)に分載発表された後、部分修正を加え、2022年10月に単行本が刊行された。
 読了後に調べていて、本書が2022年に、読売文学賞の随筆・紀行部門で第74回受賞作となっていることを知った。

 本作は、その構成が興味深い。
 序章「雪の中から」では、著者沢木が、あと2,3年で80歳になろうかという西川一三に突然に電話を掛け面談を申し入れて快諾され、対話をした情景を描く。いわばエッセイ文である。なぜ、西川に興味を持ったのかが語られている。
 第1章「現れたもの」もまたエッセイである。その後、沢木が月に一度盛岡で西川に会い、インタビューを続けたこと、西川夫人のふさ子さんに面談した経緯、元の原稿の所在追跡の経緯などが綴られていく。その結果、沢木は「その日以来、二千ページの文庫本と、三千二百枚の生原稿を突き合わせる作業が始まった」(p44)という。読者にとっては、西川一三という人物像にアプローチする経緯がよくわかる。
 そして、沢木は、「私は、そ(=西川の長い旅:追記)の路をあるがままに叙することが、結局、西川一三という希有な旅人について述べる唯一の方法なのだと思い至ることになった・・・・・」(p47)という一文で、第1章を締めくくる。

 第2章「密偵志願」から、西川一三伝ともいうべきストーリーが始まって行く。山口県の地福にある比較的裕福な農家の二男として1918(大正7)年に生まれ、福岡の名門修猷館中学に進学後、南満州鉄道に就職。入社5年後の1941年(昭和16)年に満鉄を退社。内蒙古に設立された興亜義塾という学校に入校する。
 1933(昭和8)年に日本国内で設立された善隣協会から分立し、内蒙古の張家口に本部を置く蒙古善隣協会が、1939(昭和14)年に興亜義塾を創設していた。
 興亜義塾を卒業した西川は、ひとりで外蒙古に成立した蒙古人民共和国との国境に近い、最果ての地、トクミン廟という奥地に向かう。この地で生活し始めた西川は、日本人にとっては未知の地域である西北に潜入し、知見を深めたいという願望を抑えがたくなっていく。中国の西北地域へ潜入する計画書を書き上げ一歩を踏み出す。張家口大使館の嘱託となり、政府と軍部をつなぐ内蒙古における諜報活動のキーマンとなっていた熊本出身の次木一を介して、結果的に、張家口大使館の調査員という辞令と6000円の準備金を得る。戦闘中の敵国に「潜入」し、「永住」しろという命令書である。
 ここから、西川が「密偵」となり、西北地域への潜入を始めていく。
 
 ほぼ同じ時期に、中国の奥地、西北地域に潜入する密偵志願者がもう一人いた。興亜義塾二期生の木村肥佐生である。西川より一期先輩になる。西川より一足早く計画書を提出し、日本大使館の調査員として1万円の支度金を得て、一歩先行していた。木村肥佐生は日本に帰国後、『チベット潜行十年』という書を出版した。この書の考察もまた本作のベースとなっているようだ。
 西川と木村は、それぞれが全く別の計画のもとに、互いに目的も目的地も知らないままで、結果的にほとんど似たようなコースを辿って、中国奥地に潜行していくことになる。

 西川は、9月上旬に、オーズルとイシとラッシュの3人のラマ僧の同行者を得て、中国の支配地の奥深くへ潜行していく。
 ここからは、西川が蒙古人ラマ僧ロブサン・サンボーと自称して、西北地域という未知の領域を旅する状況が描写され、まさに、西川の辺境地域紀行録となっていく。

 第14章「波濤の彼方」までは、西川の8年に及ぶ潜行の状況を、著者沢木がリライトする形になる。「その路をあるがままに記す」というスタンスで叙述されていく。
 第2章の章題から第14章の文末まで、本文は465ページ。1ページが400字詰め原稿用紙2枚+αなので、およそ原稿用紙950枚のボリュームになる。本書でも、西川自身の生原稿からみれば、3分の1以下のボリュームだ。帰国後の西川一三が、己の経験を書き遺すことにどれほどの情熱と信念をもっていたかに驚き、敬服する。

 本作は第15章「ふたたびの祖国」において、1年間、西川の話を聞き続けた著者が、帰国後の西川の状況を点描していく。故郷への帰省、GHQからの呼び出しと事情聴取、原稿執筆と出版までの経緯、西川夫人となるふさ子さんとの出会い、水沢での商事会社勤務時代のこと、独立し盛岡で「姫髪」という店を経営することなど、その後の西川の人生が綴られる。そこに、西川と木村がそれぞれ出版した本への著者の考察も織り込まれていく。
 終章「雪の中へ」は、西川の妻ふさ子さんの死と娘の由紀さんの回想に触れたエッセイといえる。文中で父一三が由紀さんにぽつりと言ったという言葉に触れられている。
  「もっといろいろなところに行ってみたかったなあ・・・・」
  そしてしばらくして、こうも言った。
  「・・・・こんな男がいたということを、覚えておいてくれよな」  (p560)
ここに、西川一三の生き様の根源が表出していると感じた。

 「あとがき」に著者は次のように記す。
「この『天路の旅人』は、ここにこんな人がいたという驚きから出発して、その人はこのような人だったのかというもうひとつの驚きを生んでくれることになった」(p567)この驚きが、著者を突き動かした原動力なのだ。
 そして、次の一文が記されている。
 「私が描きたいのは、西川一三の旅そのものではなく、その旅をした西川一三という希有な旅人なのだ、と」 (p567)
 
 表表紙の裏、見開きページには、当時の中国・東南アジアの地図が掲載されている。そこに、本作と関係の深い地名等が明記されている。裏表紙側の見開きページには、西川一三が主として歩いて旅をした径路が赤色の実線で描き込まれている。そのほとんどは、標高で考えるとまさに天路である。足かけ8年で歩いたというその地理空間の広がりに圧倒されざるを得ない。そのこと1つをとらえてもまさに希有な旅人なのだ。
 地図には、カルカッタから神戸までの航路、寄港地も赤色破線で描き込まれている。

 西川一三が蒙古人ロブサン・サンボーというラマ僧として、どのような径路をどのように旅したのか、その旅のプロセスで、「希有な旅人」としてその存在がどのように描かれているかは、本作をお読みいただかないとわからない。旅の径路をここに記すだけでは、「旅そのもの」の一側面だけを記すだけにすぎないので・・・・。
 本書を読みつつ、延々と続く西川一三の天路の旅に同行していただきたい。それでこそ、西川一三の希有さの一端を感じ取れることと思う。

 もう1つ、興味深かった点がある。西川一三と木村肥佐生が、それぞれ全く独立に密偵志願の行動を取り、中国の西北地域やチベットなどに潜行した。一方で、二人が交差する時がいくどかあったことに触れられている。共に行動する時期の描写と考察、送還される起因になった事情、西川と木村の意識の対比などが興味深い。さらに興味深いのは、二人が個別にいわゆる回想録を出版している。一方、帰国後は、二人が全く異なる生き方を貫いた点である。著者はニュートラルに、西川と木村の違いを対比して考察を進めている。この点、参考になる。
 西川一三と木村肥佐生が書いた本を機会があれば読んでみたい。

 私にとって、本書は沢木耕太郎という作家に出逢う最初の一冊となった。作家名は以前から知ってはいたが読んだことがなかった。また一人、読みついでみたい作家が増えた。

 ご一読ありがとうございます。

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