遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『魂の退社 会社を辞めるということ』  稲垣えみ子  東洋経済新報社

2024-08-12 15:15:20 | 諸作家作品
 読後印象を綴るブログでフォローしているサイトがある。ある記事で本書のことを知った。このタイトルに惹かれて読んでみた。本書の著者は「会社を辞める」と考え始め、2016年1月に会社を辞めた。51歳無職の春の時点で執筆され、2016年6月に単行本が出版された。
 単行本で読んだが後で調べてみると、2024年5月、幻冬舎文庫として出版されている。
 

 会社と個人との関係について、自己の体験を通して思いを綴ったエッセイ集と受け止めた。退社に至るまでの時間軸に沿って、己の考えと心情の変遷をユーモアを交えながら、軽妙なタッチで綴っている。会社を辞めて、「会社」を離れ、己という一個の存在に立ち返ったことに対して、実にポジティブな心境が吐露されている。

 奥書の「著者紹介」には、「朝日新聞入社。大坂本社社会部、週刊朝日編集部などを経て論説委員、編集委員をつとめ、2016年1月退社」と記されている。
 会社人間的常識で考えるならば、会社人生の経歴に紆余曲折が含まれるとしても、著者はいわゆる出世路線に乗っかっている勝ち組の一人だったのではないか。その著者が会社を辞めるという選択を時間をかけ、生き方のトライアルと熟考を経て、サバサバと実行した。「会社」という組織体に呑み込まれてしまう、心理的な従属の陥穽に陥ることなく、己という個の存在、己の生き方をまず重視する。その選択が「会社」を辞めるという結果となった。私が読み落としていなければ、「魂の退社」という語句は本文には出てこない。タイトルに使われた「魂」とは何を意味するのだろう。私的には、現時点で「魂」という一語は「自立する個の存在」という意識を意味しているのではないかと解釈している。
 「魂を売る」という表現がある。会社人間がある局面において、会社に魂を売るという行為に入り込むことが有り得る。会社を利する上で、己の個の存在と何等かの折り合いをつけた結果の行為がそんなところから生まれるのだろう。最近各所で暴露されてきているデータ改竄などの事例は、そこに会社人間が加担している結果に他ならない。

 本書は出だしから読者を惹きつける。「アフロにしたことと会社を辞めたことは関係がありますか」という見出しの一文から始まる。著者は大阪府警のサツ回りをしていた時の懇親会で、小道具にあったアフロのかつらをかぶったことがきっかけで、自分自身の髪型をアフロにしたという。奥書には、「このアフロヘアと肩書きのギャップがネット上で大きな話題となった」と、記されている。このエッセイの本文には、「あれ(=アフロ)は図らずも、会社を辞めるための予行演習だったのだ」(p9)という一文がある。その後に続く文がこのエッセイの締めである。「いや本当に、幸せとはそのへんに転がっているものなんじゃないでしょうか。それなのに、みんなはそれに気づいていても見ようとしていない」(p9-10)己という個の存在を見つめたとき、己にとっての幸せ、人生の価値は何かに戻ってみようよ、という視点がそこにある。著者にとっては、アフロ・スタイルの髪型がそのための実験的手段でもあり、己の存在を基軸に考える梃子にもなったように思う。著者にとっての幸せは「会社を辞める」ことから始まるのだ。

 プロローグの見出しが「会社を辞めるということ」である。辞めると宣言した時の周囲の反応を軸にまとめられている。その中に、「会社で働くことだけが真っ当な人生なのだろうか」(p14)、「『お金』よりも『時間』や『自由』が欲しくなったのだ」(p17)、「『会社』という強力な磁場を持つ組織から離れて一匹の人間として考えてみたいのである」(p18)と、著者の視点が織り込まれている。

 その後の本文構成を目次からご紹介しておこう。
   その1 それは安易な発言から始まった
   その2 「飛ばされる」という財産
   その3 「真っ白な灰」になったら卒業
   その4 日本ってば「会社社会」だった!
   その5 ブラック社員が作るニッポン
   その6 そして今
   エピローグ 無職とモテについて考察する

 このエッセイが扱っているテーマの意義は、2016年以前も2024年の現在も、何ら変わらない。古くて新しい問題提議といえる。いつでも、立ち上がってくる生き方の問題なのだから。ここに1つの考えるための貴重な事例が提示されている。
 
 本書を読み進めると、著者は「会社」に怨恨・敵視・疎外感等を抱いていてきたわけではない。「会社」に育てられたこと、「会社」という場で力を発揮できたこと、「会社」が日本社会にとって不可欠な組織体であることなど、客観的にその存在価値を肯定している。その一方で、「会社」と「自己/個の存在」を対置して考え始める契機があった。その視点に気づいたということである。

 本文から、著者の視点、思考を示し、琴線に触れる文を引用してみよう。
*お金がなくても楽しいこと、むしろお金がない方が楽しいことも世の中にはあるのだと気づき始めると、それまで当たり前のように考えてきた「給料を目いっぱい使って贅沢しよう」などという考えは、自然にどこかへ飛んでいく。そんなことは眼中になくなっていく。  p84
*もしかして、「なければやっていけない」ものなんて、何もないんじゃないか。
 現代人は、ものを手に入れることによって豊かさを手に入れようとしてきました。しかし、繰り返しますが「あったら便利」は、案外すぐ「なければ不便」に転化します。そしていつの間にか「なければやっていけない」ものがどんどん増えて行く。  p108-109
*いつでも会社を辞められるつもりの自分であるかどうか。
  「仕事」=「会社」じゃないはずだ。
  「会社」=「人生」でもないはずだ。
 いつでも会社を辞められる、ではなく、本当に会社を辞める。
 そんな選択肢もあるのではないか。               p95
*何かをなくすと、そこには何もなくなるんじゃなくて、別の世界が立ち現れる。それは、もともとそこにあったんだけれども、何かがあることによって見えなかった、あるいは見ようとしてこなかった世界です。・・・・「ない」ということの中に、実は無限の可能性があったんです。  p104
*「なくてもやっていける」ことを知ること、そういう自分を作ることが本当の自由だったんじゃないか。  p110
*日本社会とは、実は「会社社会」なのではないか。  p134
*日本という荒野では、会社に所属していないと自動的に「枠外」に置かれる仕組みになっているのだ。不審者扱いされ、信用されず、暮らしを守るセーフティネットからも外れていく。   p148
*会社に依存しない自分を作ることができれば、きっと本来の仕事の喜びが蘇ってくるということだ。
 仕事とは本来、人を満足させ喜ばせることのできる素晴らしい行為である。人がどうすれば喜ぶかを考えるのは、何よりも創造的で心踊る行為だ。それはお金のことや自分の利益だけを考えていては決してできないことである。金を儲けさえすれば何をやってもいいというのは仕事ではなく詐欺だ。それは長い目で見れば決して会社のためにもならない。  p179
*会社は修行の場であって、依存の場じゃない。・・・・結果的に会社を辞めても、辞めなくても、それはどちらでもいい。ただ、「いつかは会社を卒業していける自分を作り上げる」こと。それはすごく大事なんじゃないか。  p201

 会社を辞めるという視点から書かれたエッセイだけれど、逆に、「会社」と「仕事」そして「依存」について考える上でも有益である。コインの裏表なのだから。
 読みやすい本文を楽しみながら、一方で重要なテーマの意味を考えてみるのは、読者の意識を活性化することにつながることは確実である。

 ご一読ありがとうございます。


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