珈琲一杯分の話

2018年2月26日スタートのただのボヤキカフェです。
毒とユーモアを楽しんで頂ければ幸いでございます。

夫の教育2

2019-02-15 | 娘と夫の話
昔、渡辺典子さん主演の「積み木崩し」というおっそろしい映画があった。
なんといっても強烈だったのが、風呂場で
猫をピンクに染めたこと。
あの時代のツッパリって今より強烈だったよねえ、と私が言ったら、ママ友が
「うちの中学は人殺し以外なんでもあったよ」
いやいやどんな中学よ( ;∀;)

それを聞いて以来、娘が「私、別に頭ピンクに染めてる子がいる高校でもいいし」と言い出して、いや、ヤンキーだけは阻止したい今日この頃。
夫に言ったら
「なんでそんな『お勉強』のことでうるさく言うんだよ?本人のやりたいことをさせればいいんだよ。
無理やり名門校に行かせたって本人が苦しむだけだよ。
例えばピノコが農家へお嫁に行ったとする。『ピノコちゃん、大根洗って』と言われればそれくらいできるだろ?」
と一蹴された。

成人式でニワトリみたいな頭をした男の子を見て「これはどうなの?」と言ったら
「若いうちはいろいろ楽しむんだよ。その時にしかできないんだから」

ニワトリに袴でも、七三でも白シャツでも、それがやりたいことなら好きにしたらいいのである。
本当にやりたくてやったことなら、後になってもそれはそれでいい思い出になると思う。
ダメなのは、本心はやりたくないのに親の顔色を伺って「心を騙してでもいい子」を見せること。
勉強したい、何か習いたい、進学したいと思っても、親の事情でさせてあげられないこと。
「この二つはやっちゃいけない」
「この二つ以外は、好きなように育てていいよ。任せる」
と夫は言った。

「名前?好きにつけていいよ。任せる」
この言葉で私の育児は始まった。

母子ともに、自由だけは惜しみなく与えられたと思う。
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性格は変わらない

2019-02-15 | S教団関係
私の母親は「裏方の仕事ならいくらでもいいけど、人前に出るのは本当に苦手」が口癖だった。
Sにいた時も、当てられる以外で自分から話すとか、歌の指揮をするなんて見たことない。
一方で祖母は、自治会の催しもので、やれと言われれば「ドジョウ掬い」などアホなことでも喜んでやるような人だった( ;∀;)

こんなことはSに入った、やめたくらいで、全く変わらなかった。
もっと幅広くあれこれを見ても、性格なんてものは、何をしようと誰と付き合おうと変わらないと私には思えた。
実際、リアルでよく知っている人で、Sをやったやめたで性格が変わったなんて、私は一人も知らないし、見たことないし、いない。
自分もそうだと思う。

思いやりのあるなしも、無神経も非常識もただただ人による。
おせっかいも噂好きもどこにでもいる。
他人の台所事情をズケズケと勘ぐっては掌握したいおばちゃんなど、婦人部の専売特許でも何でもなくて、アンチでもネット上にもウヨウヨいた。
むしろ正体不明の匿名や名無しになると、もっとエスカレートしたくらい。
アンチもシンパもだの中立も、元だの外部だの他宗だのも、語ることは尽きなくても、それによる人の性格は全く関係ないと思った。
そう思ってからは、その手のこじつけた書き込みは読みとばすようになった。
そしたら読む量が半分になってしまったなあ。
個人的な読後感である。
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お知らせ

2019-02-11 | 日記
明日からしばらく忙しくなり、ブログを休載致します。
他ブログにコメントは寄せて頂くかもしれませんが、しばしの休暇です。
ではではsee youv('▽^*)♪




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雑感

2019-02-11 | 思うこと
私が生まれて初めてネットに書き込みしたのは「対話ブログ」だった。
少したって他に三つのブログに「ほんのちょっとだけ」投稿したことがあるんだけど、うち二つは間もなくあっさり消えてしまった。
一つなんてブロガーが顔写真まで出して、死ぬまで書いていくくらいの勢いだったのに、一切なかったことになってしまった。
当時はびっくりしたが、そんなものはその後いっぱい見ることになった。

人って気が変わるし、同じじゃいられないんだなあ。

そんなことは当たり前で、ネットの海原を見たらそんな更新が止まったブログだらけである。
ブログって、世界中で日々生まれるが、同じだけ死んでいく。
凍結されたものと、消えてしまったものがあるが、これはブロガーの都合なんだろうか、性格なんだろうか。

私も前ブログを削除しているが、でもこれに限っては「なかったこと」にしたいわけじゃないよ。
ただの性格と思う。
終わったことは飾っておいたりしないで、さっさと片づけたいんだよね。

前ブログと今のブログは性質がちがうと思う。
「世界一」は私のものというより、皆のものという感覚だった。
もともと頼まれて選択肢がないような心境から、泣く泣く引き受けたことから始まった。
(自分から乗るまで半年かかった)
私は鍵を開け閉めしているだけの管理人。
扇動というか流布したいもの、とまで言ったら大袈裟だけど、どっちかというと人のためという感じだった。
ついでにいうと、あの時考えていたのは(今思うと癖の強いコメント者が多かったのですが(笑))一人一人の魅力、いいところをどうしたら引き出せるか。
この人はどうしたら乗せられるか、どうしたらいいコメントを書いてくれるだろうか。
全員を人気者というか、愛される人にしたかったんですよね。
本当に好きだったんですよ、全員が。

今は100%自己満足のもの。
いろんなものから解放されて、好きで書いている。
個人的な話や、我が子がすべったの転んだのなんて誰も興味ないだろうし、ごく一部の子育て世代の人なら共感くらいにはなるかなあという、暇潰し程度のもの。
世界一気楽な珈琲ブログである。




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過ぎたるは…

2019-02-10 | 日記
私がたまに優しく、私がたまに凝った料理をする。
たまに。
これがいいのである。

例えいいものであれ、正論であれ、毎日毎日、同じことをクドクドクドクド、これでもかと並べられたらウンザリする。
有難みも価値もなくなる。
むしろ嫌われる。

本当に喉が渇いた時、澄んだ水を適量飲む幸せ。
人を満たすには充分と思う。

過ぎたるは猶及ばざるが如し。

何が言いたいかというと、なぜ冷蔵庫にもっとしょっちゅうハーゲンダッツが入っていないのか?と娘に文句を言われたので、それはこういう深い哲学である( ;∀;)




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適材適所

2019-02-10 | 娘と夫の話
ずっと視力のよかった夫が老眼には勝てず、人生初のメガネをつくりに行った。
こういう時に私がついていかないと大変なことになる。
何しろ浮世離れした人であられるから、店員さんに「こちらがお薦めです」と言われれば値段も見ずに「じゃあそれでいい」
保険の説明があれば「面倒くさいから任せるよ」
ちょっと待って!!これとこれは要らないでしょうと私が口を挟むことになる。

彼は「お得とか、細かいお金の計算」になると思考停止する。
微分積分が解けてもそんなことは関係ないのである。

好きなことはとことん好きだけど、興味のないことは見向きもしない。
できることと、できないことが極端。
「まんべんなく、平均的に」が欠ける我が家では、好き嫌い、向き不向きへの寛容さ、適材適所が、暗黙の家訓のようなものである。

凸でも凹でもいいじゃん。
それを補える相棒がいれば。
個人的にこれも生き方をラクにする一つの考え方と思う。
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後払いor先払い?

2019-02-09 | 思うこと
「しがらみ」という言葉を聞いたのは、というか意識したのは、ネットを見てからのような気がする。

しがらみ
引き留め、まとわりつくもの。じゃまをするもの。
デジタル大辞泉(小学館)
 

しがらみ
自分のやりたいことをする時、そうはさせまいとするなんらかの圧力。
露骨、暗に問わず発生するものらしいが、やりたいことに夢中になるあまり、人よってはそんなものの存在にすら気づかないこともある。
デジタル海辞典(版元不明)


人は好きなことをやると、なぜか波風が立って、めんどくさいよもやまを引き受けることになる。
なぜと言われてもそんなものなんだと、子どもの時から自然と思った。
殊更、特別に考えたこともなかった。

何でもタダでモノは手にはいらない。
払うべき代償がある。
時には歯を食いしばることもある。
それが嫌でしがらみに従った人は、やはり後悔という代償を払い、場合によってはやはりを食いしばることになる。
単純に「後払い」か「先払い」かの違いと思う。

私は「後払い」が嫌いで、何でも先払いしてしまう性分だっただけと思う。

親不幸、反発、違和感は先にやってくれ!!
後になるほど利子がつくぞーーーー!!
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雑誌を読んで

2019-02-08 | 日記
Newtonという雑誌の別冊がおもしろいと勧められた。
すぐ読む課の海としては即、バックナンバーを含めて数冊注文して読んだら本当に面白かった。

最新号の「絵でわかるパラドックス大百科」の中のアビリーンのパラドックスの例。
4人家族の娘が「明日からの連休、久しぶりに温泉でもいかない?」と提案した。
息子は友達とサッカーの約束があると渋った。
でも母が「いいわね、行きましょう」と言った。
すると父も「たまには旅行もいいんじゃない」と話に乗った。
すると、息子も「皆が行きたいなら仕方ない。行こう」となった。
それで車で温泉に行ったが、結局宿も料理も値段のわりに今いちで、おまけに帰りは大渋滞に巻き込まれて、家に着いたのは連休最終日の深夜だった。
長時間の運転にクタクタに疲れた父が「連休は釣りに行きたかった」とこぼした。
母も「私は本当はデパートのセールに行きたかった」
息子は「僕だって友達とサッカーをするつもりだった」
娘までが「私も実は遊園地にいく計画があったんだけど、たまにはお母さんを家事から解放させてあげたかっただけ」

つまり誰一人温泉など行きたくなかったのに、思いやりのある(或いは事なかれ主義の)4人はやりたくもないことに時間もお金も体力も消耗してしまったのである。
このように集団が、集団の意志とは逆のマイナスの方向にいくことがある。
実際にこのようなパラドックスに陥っている企業や団体が存在する……

集団(ほんの4人くらいでも)こんなことが起きるんですね。
「よかれと思って」思いやりのある人たちが、いったい何にあやつられるのだろうか。



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わからないことはわからないと

2019-02-08 | S教団関係
娘の家庭教師を頼んだ時、私がお願いしたことは一つだけである。
「わからないことをどれだけわからないと言っても、笑わない、怒らない、バカにしない先生をお願いします」

今も時々訊く。
授業は一切覗いていないけど「わからないことはちゃんとわからないと言ってる?」と。

どれだけ気をつけようとしても「誰も質問しないから」「わからないのはきっと私がおかしいだけ」と納得させてしまうことがある。
それを後悔した経験があるのにね。
本音、本音と言っている私だって、雰囲気や立場に呑まれて言えなかった、訊けなかったことがあるんですよ、これでも。

これだけは捨てずに手元にある「香峯子抄」という本。
私はここに書かれている「奥さんとしての一女性」に尊敬する部分が幾つもある。
私は奥さんをみれば夫がわかると思っているし、いくら外面がよくても、一緒にいる奥さんは騙せないと考えてる。
あの人はこんないい奥さんをもっている面があるんだなあ、とは思った。
言えなかったけど。

お米を一粒を無駄にしなかった。
紐も紙も何度も再利用した。
子どもを毎朝、姿が見えなくなるまで手を振って見送った。
子どもの前ではいつも笑顔を絶やさなかった。
すごい。
どんな偉そうなことを語る人より私は驚いた。
外国でパンがダメな夫のためにボンベを使ってバスルームでご飯を炊いた、なんて話には思わず笑って感心した。

わからないことはわからない。
改めて問い続けたいと思う。



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妄想癖

2019-02-07 | S教団関係
以前、私はどうしてもわからないことがあって、ある人を自宅に呼んで「これはどういうことですか?」と質問したことがあった。
わざわざ自宅に来て頂いて貴重な時間を割いてもらうのに、要領の得ない話をしたくなかった。
それで、質問を端的な文章にして携帯に落としておいた。
「こんにちは。わざわざご足労頂いて申し訳ありません。では今から質問を読みますのでご清聴ください」
私は予め作っておいた文章をさっさと読みあげた。

その人は呆気にとられて
「あなた随分ためていたんじゃない?私なら違和感をもったら、すぐ訊くわ。その人に納得いかなかったらもっと上の人にね、即ね」
と言った。

私もキョトンとして返した。
「違和感をためていた?そんなことはただの一度もしたことありません。これはほんの数日前に疑問に思ったことです。
すぐにあちこちに電話をかけてアポをとって、即刻文章を作りました。ウダウダため込む時間など一分も使ってない。アポをとる手間が省けたら30分後に訊きましたよ」

ごちゃごちゃと想像したり妄想してる暇があったら、さっさと言うなり聞くなり行動を起こしてはっきりさせればいいと思う。
意外に
「え?そういうこと」
「なーんだ、そうだったの。なるほどね」
とそれこそ1分で終わる話かもしれない。

私の経験上だけど「これはああなんだ、こうなんだ」と果てしない妄想しているほど、だいたいがズルッとくる的外れな思い込みをしていた。
長い間の的外れがどっしりと根を生やして、自分の中で確固たる真実となってしまったらテコでも動かない。

ネットで「誰々はきっとこう思ってるんだろう」「誰それはネット工作員だ」「これは誰が書いたに違いない…」
なーんて妄想逞しい人がいるが、そこまで思い込んでる暇があったら確かめればいいじゃん?
酷いのになると妄想のまま
拡散する。
ネットの危うきところである。

ジッと座って盲信することで、真実なんて簡単に「作られる」のは体験済みでは?
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自分で決めたい

2019-02-06 | 思うこと
娘を怒らせるのは簡単である。
1秒でできる。
「雨が降るみたいだから傘をもっていきなさい」「寒いからもう一枚着れば?」「髪は結んだ方が可愛いよ」
このような慈悲深き言葉が効果抜群である。
なぜなら

そんなことは自分で決めたいから。

たとえ寒くても濡れてもブスでも、辛くても苦しくても未熟でも失敗しても、それは自分で引き受けたい自分のもの。
その領域にズカズカ入ってこられるのが嫌なのである。
自分で決めたいという、かけがえのない楽しみを奪われたくないのである。

大人になっても、人がいつまでも文句を言ってることがとにかくこれだった。
自分で決めたかった。
恐るべし「~させられた」の根深さよ。

一方で「~させたい」という使命感にボーボーと燃えたぎってる人もわんさかいる。
「させられた人」が一転「させたい人」に豹変する場合もある。
「~させたい」VS「自分で決めたい」の攻防。
これが世の争いの根源なのかと思った。

使命感に燃えた人は、一つを抜け出しても次から次へと現れる。
中には
「これからも間違ったものは破折する。これは仏様からのメッセージなんだと受け止めた」
とここまで誓ってる人までいる。
「ザ・~させたい人」の最強である。

自分で決めたい人はそんな鬼のような執念をかわし、逃げ、笑いながら駆け抜けろ!!
それが自由だ~\(^▽^)/




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比較癖

2019-02-05 | 思うこと
「私はこれが好き」とか「私は幸せ」という人はいいね!!と思うけど、その後に「それに比べて✖✖は」と付くとがっかりする。

「よかった✖✖じゃなくって」「✖✖じゃない私って」
誰にアピールしたいのか必ずセット。
もれなくついてくる。
いつでも何処でもついてくる。
ワタシとアナタは一蓮托生。

本当に自分に自信があれば、他を落とさなくてもいいでしょうに。

ブラックマヨネーズが歌う「電車で化粧はやめなはれ  素敵な方がみてはりまっせ♫」

という歌を思い出すわ。
見られてます、そのうざったい癖。
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ネットにまつわるあれこれ27

2019-02-05 | ネットにまつわるあれこれ
ネットって、政治の左右の対立、巨人阪神の対立、果てや趣味の世界においても、自身のこだわりのあることに対して、リアルではありえない大げさな罵り合い

これは私が他ブログで話した方が言われた言葉である。
笑いました。
確かに(笑)
リアルでの座談会、懇談会なんて時には下を向いて押し黙るおくゆかしい方々が、ネットにくると別人になったりする。
「あなたの文章読みにくいよ」「長文すぎ」なんてのもズケズケと言っても全然平気。
リアルで「あなたの喋り方わかりにくいんだけど」「話、なが!!」なんてまず言わないけどね。

最初はネットこそ本音なんだろうかと思っていたけど、それもどうだろうか。
「これ言ったらおもしろい」というだけで作り話もするし、刺激的なキャラに大変身なんて人もいる。

私はネットで「濃いキャラ」とされている人と実際に会ったり電話で話したりしたことがあるが、私の知る限り、皆常識的で穏やかなふつうの人だった。
これが本当本の、等身大の姿なんじゃないかなあと思った。

イメージも言うこともなぜだか話が大きくなるのがネット。
おそらくジワリと涙がにじんだことが、
号泣くらいになったりする人もいる。
怒号や罵声、クサイ文章、面と向かってもそれ言える?という文章が軒並み本音とも限らない。
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温度差

2019-02-04 | 日記
以前、人気ブログに頻繁にコメントを投稿していたのこと。
そこは人気ブログだけあって投稿者が多かった。
多人数ということは、意見も受け取り方も性格も多様ということ。

万人に受けるコメントなどない。
意見の相違もあれば、軽い冗談のつもりが深刻にとったりとられたり、それで「傷ついた、傷つけられた」など、難しい面もあった。
いくら「納得できる意見だけ読めばいい」と割り切っても、同じサイトで温度差が違う人がいると書きにくいのはあった。
私はこういうブログは細分化して、自分の感覚に合うところに行った方がいいのでは?と考えた。

それで後に自分でブログを立ち上げた時「ここはこういうブログです。読みたい人だけどうぞ」と念を押した。
殊更、私はどちらかというと少数意見を、言葉もあまり修飾せずに、ストレートに書きたかったから。

それでもたまに
「あなたのお蔭で精神を消耗しました。こういうテーマには書いてほしくない。関わらないでほしい」
などとと言われたりすることがあった。
困った。
事実無根の中傷を書いているならわかるけど、ただの個人ブログ。
ブログというのは、自分の意志で好き好んでアクセスして読むもの。
嫌なら読まなければ?という他ない。
もっとも、批判を言いたいから読む。つまりそれがやりたくて読むのなら、嫌どころか好きで読んでるのだからいいと思うが。

埋め尽くされるコメントが、すべて自分の賛同できる意見で満たされれば心地よく、気分爽快かもしれない。
ムカつく意見はホントに目障り。叩き潰して撲滅しちまえば楽しいなあ、なんて。

ちょっと前まで見渡せば全部賛同という世界にいて、でもやがて、それが危険だ、気持ちわるいと言ってたはずなんだけどね。
人って気がつくといつも「ないものねだり」をしてしまう生き物なんだろうか。




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反面教師2

2019-02-03 | 思うこと
毒親という言葉が叫ばれてから、どのくらい経つのだろうか。
「幼少の頃から」とか「毛穴から」というこれも鉄壁の印籠のようにと出されると、私はどうも落ち着かなくなる。
決してひねくれていて反発してやろうとう気持ちではなく。

ただただ、かつて聞いた宿業とかいう言葉のように、私は「こういう場合はこうなるの」と人を縛り付ける考え方やもの言いが嫌いなのである。
「逃れられない」みたいな言い方というのかな。
なんで殊更、そんなことを人に押し付けたがる人がいるんだろうと思う。
聞いているだけで息が詰まりそうになる。

一方で好きな言葉は
そういう場合もあるかもしれないけど、人による。
そうとも限らない。
関係ない。
自分次第。

ブログの読者の方はよくよくおわかりと思うが(笑)

私は子どもの頃から、劣等感から愚痴ばかりいう大人や、それを見ては優越感から自慢話しかしない大人や、借金癖のある人や、何でも人のせいにする人を見て育った。
決して決して子どものいいお手本になる大人ばかりじゃなかった。
だけどそんな違和感というのは、クドクド説教されて教わることよりよほど影響力をもつのではないか。
だってそれは、自分から自発的に感じることだから。

私が「何かを決めつけられてそれに縛られることが、たまらなく嫌」というのは、少なくとも親に刷り込まれたことではないと思う。
人には「それを全てとしない何か」があるのではないか?

毒親や環境などに一切をもっていかれたみたいな考えに固執している人がいたら、
そんなもん、それほどのもんかーい!!と言ったれば?

教室でいるかいないかみたいな娘でさえ「ママには死んでも影響されない」という涼しい顔をしている。
毒親(me?)なんて、それほどのもんかいである( ;∀;)




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