思えば今年は邪宗門と懇意にしていた元首相が、邪宗門に人生と家族を破壊されたと恨みを募らせた人によって公の場で狙撃されるというテロ行為以降、邪宗門の報道に振り回されたんじゃないでしょうか。
この問題で安倍のおっさんが政治生命を失うなら因果応報と思っていたが、リアルに生命を奪われるとなると話が違ってくる。こんな非道なテロ行為が許されていいはずがないし、実行犯を英雄視することは民主主義と法治国家を否定する危険な風潮です。
ま、熱しやすく冷めやすい日本人。桜田淳子さんなどの合同結婚式のときに持った関心を冷まさずに、かの邪宗門を滅ぼすことが出来ていれば今回の悲劇は防げたんじゃないでしょうか。
かと言って解散させるってのは目に届かないところで資金を集めさせるようなもの。実態を暴き、どのように邪宗門の手のものとわからないように人とカネを集めているのかを逐一分かるようにして、健全な日本人が誰一人相手にしない状況を作って根腐れを起こした植物が再生できないかの如く「世界平和統一家庭連合」なる邪宗門を滅亡に持って行けるのがいいんじゃないですか。
それから山上容疑者に減刑も極刑も世の中に悪影響を及ぼすと思いいますよ。
減刑すればテロリストの要求に世の中が屈したというメッセージになりますし、極刑にすれば命をとして邪宗門から滴り落ちる甘い汁を吸った邪悪な元指導者と闘った英雄などと思う人が潜在的に増殖すると世の中は5・15や2・26の頃に時計の針を戻すことになってしまう。
一人の醜い殺人犯として塀の中で余生を過ごしていただくのが最良の策じゃあないでしょうか・・・
表題の問いかけに対する答えを先に言っておけば
「必要である」
となる。高校時代には「三角関数が分かったからって世の中に出て役に立つとでもいうのか?」と思いたくなるのは無理なからぬこと。まぁ、そんなことに苦しめられる時間を他の事に当てたほうが人生に有益ではないか?って思った方の感性自体は決して不健全なものではありません。では、その理由を社会という人間の集団と個々人の人生の2つの観点から述べてみましょう。
まずは社会的な観点から・・・
現代文明に生きる私たちは電気を使って様々な機械を動かして生活しています。原始時代のうちに人類が滅亡しなかったことを想えば機械や電気が人類にとって絶対に必要なものではないってことは分かります。かといって現代人が現代文明の恩恵を全部捨てて生きていくことは無理でしょう。
そうした機械や電気を御するには三角関数を使わないわけにはいかない。
すなわち、そうしたことを必要とする職種の滅亡が見込めない限り誰かが三角関数を使いこなせなければならないわけでどこかで何らかの形で三角関数の教育が行われていることの必要性はあるわけです。
じゃあ、最初にそのババクジ引く人を決めておけば学校での勉強の苦痛をミニマムに抑えられるんじゃね?って思いたくなるのも分からなくはない。これは江戸時代の初期に行われた制度設計に近い考え方ですね。身分が固定されていて、個々人の可能性は絶望的に封じられる代わりに社会が安定して競争に神経をすり減らすこともなくなる。ただ、現代社会で鎖国して身分を固定して日本が生き残れるかというと答えは際限なくNO!に近いでしょうね。
実際に島国で他国や他民族との関わりをかなり抑えることが出来た幸運な我々日本人と違って、2000年近く絶えずキリスト教社会から虐殺や偏見にさらされてきたユダヤ人は教育を非常に重んじてきた。才能ある人を伸ばす教育を重視すれば落ちこぼれは置いてけぼりになる、進学塾で落ちこぼれを人間扱いせずに容赦なく切って捨てるのはその典型です。かといって落ちこぼれを出さないように授業を進めると才能ある子供が能力を伸ばす機会がなくなってしまう。ところが、ユダヤ人は才能ある子供を伸ばして落ちこぼれをフォローするわけです。これは彼らに個々人に対する人権意識が強いわけではなくって集団が生き延びるためにそうしなくてはならなかった。キリスト教社会で偏見にさらされていた彼らは才能に秀でたものを多く出してより多くの富を稼ぎ出して存在基盤を確かにしなくてはならなかった。一方で何かあるごとにユダヤ人はキリスト教社会で虐殺の危機にさらされてきたわけですが、キリスト教社会はユダヤ人の落ちこぼれだけを狙って虐殺するわけでなく、どの階層が虐殺の対象にされるかわかったものじゃない。そうなると生き残ったのが落ちこぼればっかりでも彼らの手で集団の再建をする必要があった。そうなると腐ったミカンを捨てるかのごとき落ちこぼれを置いてけぼりにする教育をしていては民族滅亡の危機を迎える。そうしてユダヤ人の高度な教育のスタイルが確立され、世界史を振り返れば人類に大きな影響を及ぼした人物にユダヤ人が多いことも頷けます。
では現代の日本ではどうか?
もう、島国で鎖国して他国との競争や影響を排除して生き延びるなんて夢物語にすがらないほうがいいでしょう。国際的な競争に我々日本人は勝ち残らなくっちゃならない。そうなるとあらゆる分野で才能に秀でた人を見つけていく必要がある。かといって身分を固定しても血筋が才能や人格を生み出すわけじゃないことを歴史は語っているわけです。特に三角関数が使われるのは技術の分野で、ここに欠陥が生じると経済と国防に深刻な影響を及ぼして国力を低下させます。そうならないためにあらゆる階層から三角関数を使う職種に秀でた人物を見出せるように、なるべく広い階層に三角関数の教育を受ける機会を持たせる必要があるわけです。
でも自分は社会人だけど三角関数分からないもんw
って言われる方へ。それでいいんです。自分がその手の職種じゃなかったってことで、三角関数が分かった人がその手の事を必要とする職種に就いて、自分はその文明の恩恵を享受するってことでいいんです。生まれた人間のゲノムを見極めて三角関数の教育を受けさせる階層とそうでない階層を仕分ける技術でもない限り、その手の教育を受けてみる。でも結局分からなかった。だから他の人はともかく自分はその手の事を必要としない職種に就く、何も問題ないことです。
次に個人的な観点から・・・
若い内から自分の才能を限定せずにあらゆる可能性は試したほうがいいでしょう。また、年を取るほど人生の軌道から弾かれたときの復帰は難しくなります。今まで一生懸命誠実に黙々と生きてきたんだ!と言ってもきれいごと抜きで結局何かを任せよう、結婚、再就職や転職とか言うときに学歴・資格・職歴などで人間の価値は測られてしまいます。そのこと自体が正しい事とは思えませんが、現実の社会がそのようになっていることを踏まえて人生の備えを準備しておいた方がいいってものです。
例えば私なんかは電気関係の職種にあるわけですが、電気系の資格でもそれなりのものが欲しければ三角関数の知識が必要になってくるわけです。若い内なら頭も柔軟で相した知識も入ってくるわけですが、年を取ると学びも鈍るわけで、そうなってから吠え面かいても後の祭りで食っていける保証を得たいなら、能力のカードを出来るだけ多く持っておくことに越したことはありません。
ってことで、学校に通っているなら学校の勉強を真面目にしておくことは社会からの要請でもあり、個人レベルの人生の備えにもなってるってことなわけです。学校に行ってる時に「こんなもん何の役に立つねんw」って思いたくなるのは分かるんですが、真面目に勉強しておかないとここでアホなブログ書いてるおっさんのようになってから「若い時にもっと勉強しておけばよかった!」ってほざいてもどうにもなりませんよwってことです。
でも、それ以上に足ることを知って、美味しいカレー作りと魚釣りと気持ちのいい睡眠を追いかけつつ、妻と毎日他愛もない話や下品な話をしながらケタケタ笑って暮らす生き方もそれはそれで乙なものですけどねw
失ったものを嘆くより、目の前の楽しみを拾う人生の方が健全ってもので、若い時の怠惰が祟っていてもそれなりに愉快に人生を過ごす余地はどこかに残されているものです。
Loreto Aramendi plays Rachmaninoff: Prelude in C-sharp minor
ラフマニノフのこの曲をよくよく聞いてみるきっかけってのがノートルダムの聖歌集のCDなんで、この曲はパイプオルガンのイメージが強いんですけど、もともとピアノ曲なんですね。
ノートルダムのパイプオルガンが大小2つあることは火災があったときのニュースで初めて知ったわけですけど、あの火災の映像も燃え盛っている聖堂をなかなか鎮火できないところは人類の文明と英知が自然の法則の前にいかに無力であるかも思い知らされたものでした。
今迄見てきた鐘楼で一番印象的だったのは浦上天主堂の旧聖堂の鐘楼ですね。溝みたいな小さな川のへりに何者かが掴んで投げたように横たわってました。これを見たときが薄暗い夕暮れ時だったのでなおさら暗さを引き立てているようでした。
午前中に爆心地公園に行ったときは何事もなかったかのように青空が澄み渡ってましたが、爆心地の石柱がこの上空500mで確かに原子爆弾がさく裂したことの記憶を刻み付けています。近くの資料館にも立ち寄ったのですが、被爆直後の浦上天主堂の惨状の実物大模型からガラスケースに入った小さな原爆ドームの模型まで展示物は見ていて決して気持ちのいいものではありませんが、人類の負の歴史を記憶に刻んでおくことはすべての人々が必要とすることじゃないかと思うわけです。その中で目に付いたのが原子爆弾の実物大模型、まぁ巨大な爆弾ですがその中心部のわずかコンビニのおむすび3個分程度の部分がPu239が詰まってて浦上を壊滅させた部分なわけです。模型で目を引いたのは爆弾表面にできるだけ均等に散らされた点火プラグのところから遅い火薬、そして中心部を覆うように早い火薬が詰め込まれてほぼ同時に均一にPu239に圧力がかかるように緻密な設計がなされているのが見て取れます。点火プラグにしてもほぼ同時に点火する必要があるわけで、スイッチが入ってからプラグに届くまでの制御信号の伝搬速度も踏まえて合わせておく必要があったでしょう。電気系ではLC=εμなんて公式が出てきて、送電線でしたらインダクタンスを磁界から計算するのが面倒なときに誘電体が一様だと仮定して静電容量を求めたら容易に計算が出来るツール程度の認識しかないわけですが、信号線を解析するときには信号の伝搬速度そのものに直結する数式だという訳です。となると信号線の絶縁物もプラグの点火のタイミングに大きくかかわっているわけですから相当高度な設計を要したことは想像に難くありません。こうした技術を爆縮と呼ぶらしいです。少なくとも端っこのプラグを一つでも点火出来れば核爆発を起こす砲身式とは比べ物にならない高度な技術を要することは昔修学旅行の折広島の平和記念館で見たそれと比較したときに容易に想像がつきます。じゃあ砲身式の爆弾を量産すればいいかというとPu239にはどうしても同位体Pu240が混じって均等に圧縮しなければ臨界に達するまでに破壊されてしまうようです。かといってU235は自然界のウラン鉱石では全体のわずか0.7%程度、軽水炉ですら5%程度に濃縮する必要があり核兵器には90%以上の濃縮を要する、ってことはU235を使った核兵器の量産は不向きだってことです。対してウラン鉱石の大半を占めるU238は中性子を吸収するとβ崩壊を2回繰り返すので原子番号が2上がって質量数が1増えてPu239になる。要は量産向きだったってことです。
この模型を見て思ったのは、アメリカがWWⅡ末期にしたかったのは冷戦を見据えて爆縮技術を完成させていることを実戦で示したかったんだということです。こっちがアメリカにとっては本命だったんだ・・・・・よくも原爆投下が結果的には多くの命を救っただなんてぬけぬけと言えたものです。まぁ、アメリカ人にはアメリカ人の正義があるわけで、彼らがその言葉を信じようが日本人とは永遠に分かり合えないことなんだなぁと思うことですが、日本人で「原爆投下は結果的に多くの命を救った」としたり顔で抜かす輩は一人の日本人としてどうしても許せるものではない。
懸命の消火活動にもかかわらずなかなか鎮火せずにノートルダムが焼け落ちたときと違って浦上天主堂の鐘楼はあの日の11:02一瞬で引きちぎられてこの場所に落ちたのでしょう。
外海の海は「人間がこんなに哀しいのに主よあまりに海が碧いのです」という遠藤周作の名言通り碧かったんですが、私が訪れた日の浦上は人間が本当に哀しいのに空はあまりにも碧かった・・・。夕焼けの空はあまりにも鮮やかだった・・・
って、今日はクリスマスイブ。
引っ張り出してきたノートルダムの聖歌集CDを聞きながらクリスマスチキンと葡萄酒に舌鼓を打ちながら過ごすことにしましょう。
まずは出演メンバーがすごい。
まじめなレッド 桐谷美玲
ギャルなブルー 藤井美菜
貧乏なイエロー 高畑充希
劇団員のグリーン 有村架純
お嬢なネイビー 山本美月
いやはや同じメンバーで続編を作ろうってなるとおっそろしい製作費がかかりそうですね。
戦隊もののお約束の、地球を侵略しようってのに律儀に採石場で戦いを挑み、ヒーローの事情でひたすら待っててあげたりする良い怪人たち。
5人そろっての特殊な攻撃で力を発揮するのも、怪人が巨大化した後にロボットで戦うところも、ロボットに無駄に5人全員乗り込んでオペレーターの1人以外何もしないってのもお約束通り。
そして、女子ーズらしさといえば全員そろえば力を発揮するはずが諸般の事情で欠員が出来がちッてところですね。
怪人でいえばインパクトが一番あるのは「カメムシゲルゲ」。攻撃を仕掛ける戦隊にわけのわからない悪臭を放つ。
高畑充希さんの「くっさくさくさくっさー」
桐谷美玲さんの「う〇こじゃないくせにう〇こみたいな臭いをさせるとは恐るべき怪人」
いやはや今となっては天下の大女優たちにこんなセリフを吐かせることも出来ないでしょうw
この映画を最初に見たのは年越しにかけてKBSでマイナーな映画の放送してたわけですが、このときは電験2種でリセット食らったりなんだかんだ最悪の運勢、失意のどん底だったわけです。そんななかでカメムシゲルゲに笑わせてもらって立ち直ったと言いますか・・・
マイナーな映画なのでDVDなどもレンタルビデオ店などで見つけることが出来ず、Amazon買いで取り寄せました。コロナ禍以降は洛中や大阪の大型書店で本を探す機運になくってネット買いばっかりなんですが、普段見つからない書籍やDVD・Blu-rayなどを取り寄せられる反面、ほんの少しのサンプルで判断して買うわけですから金返せ!っていいたくなるようなスカタンつかまされることもあるわけです。