映画「十戒」を見てると古代エジプト第19王朝ラメセス2世って滅茶苦茶印象が悪くなりますが、実際のところはどうなんでしょ?
映画ではユル・ブリンナー氏があくどいくせにやられ役全開のファラオを演じておられましたね。スキンヘッドの悪役を演じるとスキンヘッドが快感になるのか、インディー・ジョーンズ魔宮の伝説のモララムの如く生涯を通じてスキンヘッドでしたね。スティーブ・マックイーンと共演した西部劇「荒野の七人」でもスキンヘッドでした。
ラメセス2世が悪役とされるのは世界のベストセラーである聖書が原因でしょう。ですが、聖書はヘブライ人の立場で書かれたものであり、古代エジプト人には彼らなりの立場と言い分があるはずです。さらに言えば出エジプトが行われた時のファラオはどうやらラメセス2世ではないという説が強い。
ラメセス2世は第19王朝のファラオですが、出エジプト記に出る禍は火山活動で説明がつき、このあたりの大規模噴火と言えばサントリニ島大噴火があげられるんですが、この噴火は第18王朝の時のもので、第19王朝もそこそこ進んだ時代の出来事ではなさそうです。
フランシスコ会訳聖書の分冊は数ある翻訳聖書の中でも学術的に優れた注釈が施されていますが、ここでは圧政者ファラオと脱出時ファラオを第19王朝のセティ1世とラメセス2世という推測を有力視しています。ここで言及されているのはモーセの後継者ヨシュアによって攻め落とされたラキシュという都市の滅亡の年代が発掘調査とC14からおおよそ分かっているということです。
ちょっと聖書から引用してみましょう。
「ヨシュアは全イスラエルを率いて、リブナからラキシュに進み、陣を敷いてこれと戦った。主がラキシュをイスラエルの手に渡されたので、二日目にこれを取り、町とその中のすべての人を剣の刃にかけて討った。」<フランシスコ会訳聖書 ヨシュア10・31~32より引用>
ここで記されているのはヘレムと呼ばれる住民を全員奉納物として滅ぼす戦い方です。通常はおとなしく降伏してくれば住民全員の生命と財産を補償する代わりに強制労働を課する、寛大ならば税を納めるだけで済むことでしょう。戦いに及べば戦闘員である野郎は殺害、女子供は奴隷として売り飛ばすがビジュアルが優れた女子は奥ちゃま・妾・召使として迎え入れる、家畜は山分けってのが一般的です。ですが、特に手こずらせた都市や節目の重要な戦いでは住民全員を殺害する、家畜は山分けが認められるが特に重要な戦いでは家畜も滅ぼすことが義務付けられる。
ここで聖書に限らず古典を読むときは、当時の知識・価値観・倫理観をもとに書かれていることを踏まえて読む必要がある。現代社会において聖書無謬論に立って聖書の世界観・価値観・倫理観を全面的に適用するのは馬鹿げた行為としか言いようがありませんが、かといって現代人の価値観で一方的に聖書などの古典を断罪していいものとも思えません。まぁ、ヨシュア記の額面通りひたすらヘレムが行われたとは考えにくい。非戦闘員の虐殺が繰り返されると兵員の間には厭戦感が広がってくる。実際にナチスは銃殺などでは親衛隊員の心理的負担が大きいからガス室を導入して実質作業を囚人にやらせたわけですから。ヨシュア記で強調されるのは神への信頼の元に厭戦感にさいなまされることなく戦い抜いたってことを強調したいようですが、史実はやはりヘレムは要所に限られていたようです。
そしてラキシュの調査では聖書の記述通り非戦闘員に対する虐殺行為が行われたことが分かるのですが、同時に年代もラジオアイソトープC14からおおかた分かってくる。そこから聖書に記述されるヘブライ人が放浪していたとされる年月40年を差し引くとラメセス2世の時代となりますが、計測は必ず不確かさを含み、荒れ野を放浪した40年という切の良い数字も信頼を置くわけにはいかないでしょう。
そんな中で高校時代に竹内均さんが「科学が証明する旧約聖書の真実」という著作の中で地球物理学者の立場からサントリニ島の大噴火が出エジプトを引き起こしたという考え方から第18王朝後期に出エジプトが行われたという説を述べてたのを読みました。ずっと後に見たシムカ・ヤコボビッチ氏の説では第18王朝前半のアフメス説を取り入れています。ここではヒクソス人の元でヘブライ人は既に奴隷状態にあるという説を取っています。紅海の奇跡だって地殻変動に原因を求めたほうが分かりやすいですし、荒れ野で得られた天から降ってきた不思議なパンことマナも火山活動から考えたほうが分かりやすい。砂漠にすむカイガラムシの系列の昆虫は樹液を吸った後、ミネラルバランスを保つため余剰炭水化物を空中に噴射する。これがテントに凝固してマナになるわけで、フランシスコ会訳聖書の分冊でも竹内均氏の著作でもこの昆虫への言及があります。多量に得られたことを奇跡とする考え方もありですが、火山活動に伴う気象異常で考えると、この昆虫の異常発生によって多量に得られたという説も説得力があります。
高校時代に読んだ竹内均氏の著作はこの本と旺文社の「基礎からよく分かる物理」でしたね。後者は完全に学習参考書です。まぁ、難しい公式の暗記に走らず現象を図解・写真などで説明しているのが特徴です。物理学ってのは何が起こっているか現象のメカニズムを説明するもので、最終的には定量的な数学を用いた解析をしなければならないんですが、現象が分からないままに公式を暗記すると必ず半ツブレになってしまいますw。実際に高校時代に「そんな参考書では受験問題は解けないぞ」などと抜かして参考書マウントをかけてきた連中は結局難易度の高すぎる参考書についていけずに公式の暗記、酷いのになると過去問の解法の暗記に走って半ツブレになってましたw。同じ問題が必ず出る保証があるならそれでいいのですが大学受験やそれなりに権威のある資格試験は出題者だってバカじゃないんですから過去問の解法の暗記で何とかなるような出題をするはずがないww
高校時代に竹内均さんから学んだことは、古典に出てくる突拍子もない奇跡譚は完全な作り話ではなくて古代人が何らかの自然現象を目撃した体験をもとに記述されたと考えたほうが良いということ。学習参考書は自分が分かったと実感できるようなものを選ぶべきで、程度が低すぎれば分かりきった話の羅列に辟易とさせられるし、高すぎれば内容についていけないけど頑張っているという気分に浸りたくなって表面的な学習をどんどん進めて、時間をかけて勉強する割には何もわかってないって状態になるってことですね。
そして、年月を経て聖書を読むときの視点は今でも生きてるんですが、学習参考書の選定ではつい数年前にバカをやってしまいます。そう、思い出せばトラウマがよみがえる電験2種です。リセット食らって3年目はやたらいろいろな参考書や問題集に目移りして本棚にインテリアじゃなかったw参考書と問題集を増殖させます。そして4年目はほぼ無気力、5年目に原点に立ち戻り基本をしっかり学ぶことをやり直しますが付け焼刃で何とかなるわけがなく、6年目でやっと免状取得という運びになります。
十戒に出てくるファラオも懲りない奴なんですが、この時の自分を見ると脱出時ファラオの事を嗤えません。高校時代の私が今の私を見れば「懲りねえ野郎だなw」と笑ったでしょうし、社会人になってそこそこのダメ人間全開な私だったら「そもそもそんな厄介な試験を受けなきゃ苦しんだり悩んだりせずに済んだやろw」とこれまた笑い飛ばしてそうですw